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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
海上の道
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ユーラシア大陸に誕生した諸民族(ツラン)を中心に、今日まで様々な観点から筆を進めてきた。そして、常に念頭に置いていたのが、遊牧の民であるツランが利用していた草原の道である。一方、大海にも〝道〟がある。すなわち、〝海上の道〟だ。横道に逸れるものの、今回は海上の道について、思うところを少し書いておきたい。

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最初に、先月行われた故飯山一郎氏を送る会で、亀さんの上のスライドを見た参加者の一人から、「(亀さんの描いた)日本列島からアメリカ大陸への航海ルートは如何なものか」という指摘のメールが届いた。それは、「海の民は航海にあたり決してリスクを冒さない」、そして「海の民は海流や風に逆らわず、むしろ、それを利用して航海する」という旨のメールであり、それを一読し、なるほどもっともな指摘と思い、その貴重な指摘をしてくれた読者に対して、亀さんはコメントで感謝の意を示している。それにしても持つべきは道友であり、有難い指摘であった。

さて、リスクを冒すことなく、かつ自然の力(海流・風)に逆らわず、寧ろ、それらを利用する形で、どのように縄文人は太平洋を渡ったのか、今のところ以下の図が示す点線のルートだとは思うが、このあたりは今後の宿題としたい。

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それはともかく、日本海はおろか、太平洋も自在に航海していた縄文人がいたことは確かである。その彼らが生きた縄文時代とは、一体全体どのような時代だったのかと、いろいろと想像を巡らせていた時、過去にも紹介したことのある飯山論文を思い出した。
”島国根性”を蹴飛ばして、”環太平洋ネットワーク”に目を向けよう!
文字・国家をもたない縄文人が形成した地球規模の壮大なネットワーク空間のこと

国境もなかった縄文時代の人たちを、〝脱藩人〟と言うのも何だが、拙稿「南方熊楠の世界(4)」で述べた、脱藩人の心を持っていた人たちこそ縄文人だったと云えよう。

ついでに、上に示す飯山論文で思い出したのが「歴史」、そして「無文字社会」である。以下の飯山さんの投稿を思い出していただきたい。

日本の歴史は天武天皇から始まりました。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/14186314/917/


歴史とは文字があって初めて歴史となるわけで、その意味で、天武天皇以前の日本列島には、歴史はなかったとする飯山さんの主張は正しい。一方、太古の昔から文字のあった中国は、鮮卑だのといった文字を、文字を持たなかった遊牧民族にあててきたわけであり、加えて自分たちの視点で見た歴史を文字にして残した。これら中国古書に書かれた〝歴史〟を、我々は学校で〝史実〟として学んできたということになるのだが、そろそろ、文字を持たなかったユーラシア大陸の諸民族(ツラン)や縄文人について、見直す時期に来ていると言えそうだ。

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古墳時代 02
掲示板「放知技」で、亀さんが最も注目している投稿者の一人に、愚山人さんという常連さんがいる。その愚山人さんが昨日、以下のような投稿を行っており、思わず唸った。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/34/

亀さんが唸ったのは、愚山人さんの「談合」という言葉である。この談合という言葉だが、実は日本文化の本質そのものをズバリ指した言葉なのだ。そう思っているのは、なにも愚山人さんや亀さんだけではない。世界戦略情報誌『みち』の天童(竺丸)編集長も同じなのである。『みち』のホームページには紹介されていないが、最近まで天童さんが『みち』に連載していた、「文明の原郷ツラン」シリーズの第14回、「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」に、以下のような記述がある(括弧は亀さん)。

私(天童)はかねてより日本文明の本質的特徴が「談合」にあると考えている


上掲の天童さんの記述は、『ゆがめられた地球文明の歴史』(栗本慎一郎著)のp.78~80の行に対する、書評の中に登場しているのだが、続けて天童さんは以下のように書いた。

談合の結果として出来る統治形態が、すなわち「連合」である。大和朝廷は既存勢力を打ち破った後にできたものではない。既存勢力の談合によって、ある一つの系統を支え従うこととした結果、成立したのである。

それはもう一つの政治形態と比較してみれば、差は歴然となる。つまり、殲滅戦争による支配である。シュメールもまた、都市国家同士の連合によって大帝国を築いていた。シュメールがその連合という統治形態を始めたのであろうか。記録や文書などの物としての証拠はない。だが、先行するミヌシンスク文明の末裔たちが挙ってこの統治システムを踏襲していることに鑑みれば、シュメールはこの統治の智慧を先行のミヌシンスク文明から学んだとと言っても無理はなかろう。


以上までを述べた後、天童さんはシリーズの第14回の本題である、「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」という主テーマに移り、自説を展開しているわけなのだが、ご参考までに、第14回を本稿の最後に掲載しておくので、関心のある読者は目を通していただきたい。

さて、ここで思い出していただきたいのは、前稿「古墳時代 01」に書いた、亀さんの古墳をめぐる長年の疑問である。

何故にユーラシア大陸で古墳が誕生したのか。シャーマニズム、あるいはツランに共通する膠着語という言語が関係するのか…。また、古代人にとって、古墳とは一体全体何だったのか?


シベリアの大地に出現した諸民族(ツラン)から、後に日本に点在する古墳の原型となった墳丘墓(クルガン)が、何故にシベリアの大地、すなわちツランの地で誕生したのか? それは、膠着語系というツラン共通の言語にあったのか、あるいは、ツラン共通のシャーマニズムや死生観といった宗教にあったのだろうか…。

そのあたりを解く鍵として、同じく天童さんのシリーズの第15回、「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」に注目してみた。

●巨大墳丘墓(クルガン)に関して、少なくとも何らかの発掘調査が行なわれた数例について挙げたにすぎないが、現在ウクライナ紛争やイスラム過激派テロなどによって騒然としている当該地域の世情が安定すれば、今後も史上ユニークなこの埋葬形式の発見・発掘が数多く行なわれ、その全貌が明らかになる日がやがて訪れるかも知れない。

だが、現在はまだ年代的にも紀元前四〇〇〇年から紀元前三〇〇まで相当な長期にわたり、しかも断続的な発掘例しかなく、出土地域もバラバラというありさまである。

クルガンとはいったい何だったのか、どういう人々が築造したのか、そこにそういう意味が込められていたのか等々、その実態に関して今は確たることは言えない状態である。

この特徴的な墳丘墓に関して一般にはほとんど知られておらず、歴史事典などには触れられているが、クルガンをテーマとする専著は日本にも外国にもまだないようである。

しかし、前方後円墳を各地に有するわれわれは、巨大墳丘墓がそこに葬られる権力者ただ一人のためだけではなかったことを知っている。稲村公望はかつて本誌に連載中の「黒潮文明論」において、わが国の古墳が沼沢地の水田開発や洪水防止のための河岸修築により堆積した残土を利用し工事監督責任者の徳を讃える記念碑として築造されたのではないかという見解を披露したことがある。けだし、心して聞くべき卓見である。

というのも、秦始皇帝が遺した巨大地下墳墓は絶大な権力を掌握した始皇帝という権力者一人のための墓であり、ほとんど生前そのままの有様を実物大の兵士や馬で再現しようという権力者の執念のすさまじさには圧倒されるが、そこには一片の祈りも祭りも存在しなかったことを感じてしまうからである。

大陸と日本列島における墳墓についての、この彼我の違いは何なのだろうか。わが国でも豊かな副葬品を伴う古墳を狙った盗掘は確かにあった。だが、たとえ恨み骨髄に達する敵に対しても、その墓を暴き骨に鞭打って辱めるような報復手段は、わが国では一般的な賛同を決して得ることはない。わが列島においては死者を冒涜することは人してあるまじき行為だと考えられているからである。

そういう目を以てクルガンを見ると、そこには秦始皇帝陵にあるような絶対権力者のすさまじい執念というよりは、稲村公望の卓見が教えるような、共同体の祈りの如きものを感じることができる。

ただし、繰り返すが、クルガンに関しては、いまだ確たることは何も言えない状況に変わりはない。


このシリーズの第15回、「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」も、本稿の最後に転載しておいたので関心のある読者は一読願いたい。ともあれ、日本の古墳の原型となったクルガンの発掘調査は、ようやく緒に就いたばかりであり、今の段階では、確定的なことは言えないということが上掲の文章でわかる。だが、クルガンがツランの地で誕生したという史実は、極めて重要な意味合いを持つ。

母語はその人の思考形式、言動を根底から支配していると、亀さんは日ごろから考えているのだが、上の稲村公望さんと天童竺丸さんの言に従えば、ツランのクルガンと、秦始皇帝の地下墳墓との決定的な分水嶺は、膠着語族(ツラン)と孤立語族(秦王朝)にあると言えないだろうか。斯様に、母語というものは、人の思考形式を決定的に左右するものなのだ。ここで、フンボルトが提起した言語形態学だが、世界の言語を、孤立語・膠着語・屈折語の三つに分類している。では、何故に孤立語、膠着語、屈折語なのか、何故に言語によって人の物の見方・考え方が変わってくるのか、といったテーマは興味深いものがあるものの、本稿のテーマと外れるので今回は割愛する。

ともあれ、上掲の天童論文で明らかなように、膠着語系民族と孤立語系民族との間では、墓地や埋葬一つとっても違いが生じてくるものなのだ。このあたり、膠着語系の一人である亀さんは、拙稿「アルゼンチンで思ふ(3)」で以下のように書いた。

NHKの「縄文1万年の美と祈り」という番組を見ていた時、縄文人の死生観「再生」のシーンに目が釘付けとなったことを告白しておきたい。つまり、再生のシーンに深く共鳴する自分がいたのであり、朧気ながらも自分に縄文人の血が流れていると、直感的に悟ったのである。


さらに、別稿「縄文の息吹」で亀さんは、英国のストーンヘンジと日本の大湯環状列石を紹介しているが、これは、日本に古墳が出現する前に縄文人が持っていた、自然観(太陽信仰)を示すものであり、栗本氏も以下のように書いている。

古墳時代が始まった後のこと、そこにさらに太陽信仰やシリウス信仰を基礎とし、やがては仏教の弥勤信仰に繋がる「聖方位」(正面の方位を真北から西に二〇度傾ける)が意識的に持ち込まれることになった。縄文時代から日本列島にあった太陽観測のネットワークは冬至夏至時の日の出日没地点から諸般の方位をとるものだった(第四章参照)が、それがこの新たにシリウスの位置を軸にした方位のベースとなったのだ。

 この聖方位は北のシルクロードから北日本へ入り、そこから日本全国へ伝播した。聖方位は中央アジアやモンゴル高原に今もたくさん遺跡において見出されるが、そこが聖方位の起源の地だというわけではない。北シルクロードの要衝セミレチアのソグド人都市(居住地)はほとんど聖方位をもって建設された(第四章参照)し、セミレチアから南へ下がった砂漠地帯のオアシス都市サマルカンドほかにも意識的な聖方位が見出される。

太陽信仰あるいはシリウス信仰あるいは星展信仰あるいは「天」の観念とともに遠くはペルシアを起源とするが、あるいはもっと時代も西へも遠く遡ってバビロニアやコーカサスを起源とすると考えるほうが妥当だ。なぜなら意識的な聖方位がペルセポリスだけでなれく、バビロンやコーカサスにも見出されるからである注6。蘇我氏は重要な都市や建物や宗教施設の配置においてそれにこだわり、聖方位は飛鳥京建設を含む蘇我氏の活動の象徴となったのである。

飛鳥とペルセポリスが繋がるという指摘はこれまでもいくつかあった注7。これを私は、飛鳥はペルセポリスだけでなく(もちろんサマルカンドは言うまでもなく)バビロニアやコーカサスと繋がったものだと考える。

かくして三世紀以降、北シルクロードから渡来した人々が宗教や政治の主体となったわけだが、これらの集団の最終的代表が蘇我一族であり、聖徳太子(で象徴される一団)であろう。

注6 聖方位論は『シリウスの都 飛鳥」において詳しく展開した。
注7 たとえば井本英一『古代日本人とイラン』学生社、東京、一九八〇年、伊藤義教『ペルシア文化渡来考』岩波書店、東京、一九八〇年ほか多数。特に、渡辺豊和『扶桑国王蘇我一族の真実』新人物往来社、二〇〇五年。

『シルクロードの経済人類学』p.1;9~20


ともあれ、ツランの一部の民族が日本列島に流れ着き、やがて各地に豪族が誕生した。そして、南九州の古墳を起点に、日本各地に古墳文化が広まっていった、ということになる。

次稿では、日本の古墳文化の起点となった、南九州の古墳群に目を向けてみることにしよう。

【追補】
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「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」1/3

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「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」2/3

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「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」3/3

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「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」1/2

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「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」2/2


あなた
ちょうど三ヶ月前の9月20日、夕食をとっていた時に「シェイクスピア」という言葉が耳に飛び込んできた。急いでテレビ画面に目を移すと、そこには翻訳家の松岡和子の姿があった。日本人でシェイクスピアを数多く翻訳し、シェイクスピア全集を出している文士として、坪内逍遥、小田島雄志、福田恆存といった、そうそうたる人物を挙げることができるが、そうした中の一人に松岡がいる。

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テレビ番組を追っていくうちに、これはブログ記事に書かねばと思ったほど、松岡の翻訳が他の文士とは違うことがわかった。だが、当時は仕事に追われていたこともあって、松岡についての記事の下書きを終えた段階でストップ、いつの間にか三ヶ月が過ぎていた。しかし、最近になって時間的な余裕ができたので、何かブログ記事をアップしようと思い、過去にためておいた一連の下書きの記事に目を通していた時、目に留まったのが件のテレビ番組だった。

ところで、何故に亀さんは松岡についての記事をアップしたいと思ったのか…、それは、亀さん自身が一介の翻訳者として見た、翻訳家としての松岡と、他の文士との違いに目に留まったからだ。すなわち、今までシェイクスピア全集の翻訳本を出した文士と異なり、松岡の場合、シェイクスピア戯曲を肚で翻訳している…。これは、どういうことか?

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それは、松岡のシェイクスピア翻訳本の多くがシェイクスピア戯曲の舞台という場と直に結びついているということだ。殊に、故蜷川幸雄のシェイクスピア戯曲を手掛けた松岡の作品群は、亀さんに強烈な印象をもたらしたのだし、改めて翻訳とは何かについて、深く考えさせられたのである。

そのあたりについて、強く思い致したのは以下の記事で、デズデモーナ役として『オセロー』に出演した、蒼井優の何気ない一言であった。その蒼井の質問に対して、シェイクスピア作品に登場する人物像や男女関係の含意を、松岡が当初の訳出と正反対に変えたという行、今でも脳裏から離れないでいる。それは、「あなた」という言葉だ。

蒼井は松岡に、『オセロー』の稽古場で以下のように尋ねた。

「デズデモーナはオセローを「あなた」、続けて「あなた」って呼びかけてますけど、この「あなた」は全部同じですか?
蒼井優の質問で気づいた。没後400年、シェイクスピアはやっぱり凄い


この蒼井の質問に、松岡がどう反応したか、以下にそのまま引用しておこう。

蒼井の質問は的を射ていた。松岡がその場で原文を確かめてみると、たしかに彼女の指摘した箇所の「あなた」だけほかと違っていたのだ。

くだんの場面で最初にデズデモーナがオセローに言う「ご気分はいかが、あなた」は、原文では「How is't with you, my lord?」で、「あなた」は「my lord」に相当する。my lord は、高貴な身分の夫婦間で妻が夫を呼ぶときに使われる言葉で、現代日本の家庭で妻が夫を「あなた」と呼ぶのと感覚的には同じらしい。これをデズデモーナは劇中で何度もオセローへの呼びかけに使っている。

これに対して、オセローに「お前はどうだ、デズデモーナ」と訊き返されたデズデモーナのセリフ「元気よ、あなた」は、原文では「Well, my good lord.」で、myとlordのあいだに「good」が入る。これはより丁寧というか、むしろ慇懃ともいえる言い方だという。そしてこのデズデモーナのセリフは、その前にオセローが言った「元気ですよ、奥様(Well, my good lady.)」と対になっている。ようするに馬鹿丁寧とも他人行儀ともいえる夫の言葉に、妻も他人行儀で返したのだ。ただし、同じ他人行儀な物言いでも、それを口にする夫婦の内実はそれぞれまるで違う、と松岡は次のように説明する。

《つまり、ここではもう、オセローは妻とキャシオーの仲を疑っていて、内心穏やかではない。だから「ご気分はいかが、あなた」と聞かれたときに、これは心底からの馬鹿丁寧で、あるいは穏やかでない内心を隠そうとしてわざと馬鹿丁寧に my good lady と言った。(中略)それにたいしてデズデモーナが my good lord と他人行儀な呼びかけをするとき、これは心底ではない。キャシオーとの仲は清廉潔白だし、そもそも夫がそんなことを疑っていることすら、彼女は知らない。ですから、デズデモーナの他人行儀は一種のお茶目なギャグのようなものなんです。夫がふだん使わない言い方をした。それを「あ、ふざけてるんだ」と思って、そこで自分もふざけて、とっさに my good lord と返してみせたわけです》


本当に、翻訳は奥深い…

古墳時代 01
「北満州と日本列島」シリーズを終え、「古墳時代」シリーズを本格的にスタートする前に、前稿「北満州と日本列島 05」で取り上げた、飯山(一郎)さんの「外圧と占領」という視座で、簡単に飯山史観の御浚をしておこう。

■第1回目 - 旧人から新人へ
日本列島の「外圧と占領」が過去に8回半あったとする投稿を、飯山一郎さんが掲示板「放知技」に投じた。その第1回目だが、飯山さんは以下のように書いている。

第1回目は,紀元前1万5千年前頃.コロポックル小人族や石器文化人が住む日本列島に土器文化人が侵入.縄文文化が始まる.


亀さん流に書くとすれば、以下のようになる。

第1回目は,紀元前10万年以上前、日本列島に来て定着した旧人のテニソン人などに代わって、4万年前あたりから新人の狩猟型縄文人が日本列島に徐々に流れてきて定着、やがて、狩猟型縄文人が大勢を占めるようになったのが紀元前1万2千年前頃であり、その時期を以て縄文時代の始まりとする。


縄文時代の始まりだが、飯山さんは「紀元前1万5千年前頃」、亀さんは「紀元前1万2千年前頃」という、ちょっとした違いがあるにせよ、このあたりについては今後の発掘調査に待ちたい。また、飯山さんは「ロポックル小人族や石器文化人」、亀さんは「旧人のテニソン人など」といった違いもあり、このあたりも今後の発掘調査を待つことにし、現段階では保留にしておこう。

ただ、ウィキペディアの「縄文土器」の項目にあるように、縄文土器の出現が約1万6000年前であることから、飯山さんの言う紀元前1万5千年前頃は、まだまだ狩猟型縄文人が主流派だったと、亀さんは思っている。

それはともかく、拙稿「北満州と日本列島 02」で亀さんは、縄文人の遠祖にあたる現生人類が、「4万年前頃に舟に乗った新人が日本列島に到達し始めた」という説を紹介しており、10万年以上前から日本列島に住み始めていた旧人と、4万年前から住み始めた新人の縄文人は、日本列島が峻険な山国であったということもあって、しばらくは大きな争いもなく共存していたのだろうと想像している。しかし、1万2000年前あたりから、日本列島のあちこちを移動していた狩猟型の縄文人、すなわち石器型縄文人が大勢を占めるようになり、次第に旧人は追い詰められ、やがて新人が日本列島の主となって縄文時代が始まった、と亀さんは思う。

そして、4万年前に日本列島に流れてきた狩猟型縄文人の中から、約1万6000年に土器が発明された、あるいは土器を携えて土器型縄文人が日本列島に流れてきたのだろう。そして、その土器こそが、移動型から定住型の縄文人になったきっかけである。やがて、土器の普及に伴い、第2回目の「外圧と占領」に突入した、ということになる。

ここで、何故に土器が定住のきっかけになったと亀さんは思うのか…。それは、土器が縄文人の定住を促したからである。このあたりについての論証が、世界戦略情報誌『みち』にある。それが以下の記事で、縄文人が移動型(狩猟型)から、定住型(土器型)に推移した経緯を知る上で、必読の記事だ。
定住革命の先駆者となった日本 2

■第2回目 - 土器から稲作へ
第2回目の「外圧と占領」について、飯山さんは以下のように記している。

第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住してきて,移動型の縄文人に代わり農作定住民族が主流になる.いわゆる「弥生時代」.


やはり、ここでも亀さん流に第2回目を書いてみよう。

日本列島の新人、すなわち縄文人が石器型(狩猟型)から、土器型(定住型)の文化に変わっていった。そして、土器を手にすることにより定住する縄文人が増えていったのである。やがて、水田稲作を知る縄文人が紀元前5千年頃から、日本列島に流入、時の経過とともに日本列島は稲作型縄文人が、狩猟型縄文人に取って代わるようになり、そうした時代が古墳時代に突入するあたりまで続いた。


つまり、1万2000年前に土器が誕生して広まり、やがて5000年前に稲作を知る縄文人が日本列島に流入するようになり、土器型縄文人の代わりに稲作型縄文人が主流を占めるようになったのが3000年前(紀元前10世紀)、ということになるのではないだろうか。そのあたりから古墳時代に突入するまでの時代を、「弥生時代」と世の中では定めているようだが、実は、基本的に弥生時代というのは名ばかりで、本質は縄文時代と大差がなかった、すなわち弥生時代イコール縄文時代だったのである。

これは、どういうことか?

このあたりを理解するには、世界戦略情報誌『みち』の天童(竺丸)編集長の論文が必読となる。なかでも、「定住革命の先駆者となった日本 2」に重要な解が隠されている。すなわち…

定住するとは、家を造ってその中に住みつづけることであり、移動生活には不便な重い土器を作って使用することも定住の生活だからこそ可能になる。 世界でもっとも古いといわれる縄文土器の画期的意味について安田喜憲氏はこう力説している。

 僕は、土器というのは森の産物だと考えています。温帯の森の資源利用のなかから生まれたものです。土器を作るには、まず軟らかい土がないと駄目で、それには森林土壌が最適なのです。焼くためには燃料の木が要る。こねるためには水が要ります。森にはそのすべてが揃っている。……

 土器を作り出したことは、非常に革命的なことです。違う種類のものを一緒に煮て、違う味を出せるわけです。海からハマグリを、山からは木の実や山菜を取ってきてごった煮にすれば、まったく違う味が出る。それから煮沸しますから殺菌にもなる。煮ることで普通は食べられないものも柔らかくして食べられる。ですから、土器を作るということは、「食糧革命」でもあったわけです。(『環境と文明の世界史』五一~五二頁)


繰り返しになるが、土器の普及が縄文人をして定住を促し、稲作が広まったことで、定住が本格的になったということだ。これが、定説となっている「紀元前10世紀に弥生時代が始まった」につながるのである。このあたりの検証は、世界戦略情報誌『みち』の天童編集長が書いた論文、「縄文農耕の成熟と弥生水田稲作」の以下の記述を思い出していただきたい。

集団的労働システム運営の域にまで達していた縄文農耕の成熟を意図的に無視し「野蛮な狩猟採集経済段階」と決めつけた上で、渡来人による水田稲作の開始と弥生生活革命、それによる人口爆発などを描いて見せたNHKの『日本人はるかな旅』が、考古的・歴史的事実を歪曲する児戯にも等しい欺瞞であった。


つまり、われわれが教科書やNHKの番組(「日本人 はるかな旅」)を通じて、知り得た弥生時代のイメージは、大凡以下のようなものではないだろうか。

水田稲作が大量の渡来人によって日本列島にもちこまれて生活に一大革命が起こり、それが弥生時代という新時代の始まりとなった。


だが、これは全くの出鱈目であることは、前稿「北満州と日本列島 05」ですでに述べた。

要するに、基本的に弥生時代という時代は、そのまま縄文時代を引き継いだ時代だったであり、定説の「縄文時代→弥生時代→古墳時代」という図式は間違いで、本当は弥生時代を飛ばした「縄文時代→古墳時代」という図式が正しかったのである。このあたりについて実証している論文こそ、天童論文の一つである「渡来人は列島に埋没同化して姿を消した」だ。

 すなわち、紛れもなく朝鮮半島由来の土器を使用した人々が住んでいた痕跡が北部九州には存在する。しかし、それは独立した「渡来人集落」ではなく、すでに存在していた弥生式土器を使用する人々の集落の中に渡来人がいた、という程度の規模であった。しかも、長期間存在したとされる土生タイプも「一〇〇年後にはこの土器技法も弥生土器文化の中に埋没、土器もろとも同化され、姿を消した」(片岡宏司)のだった。これが「大規模な渡来」の本当の実態だったのである。


さて、石器型現生人類から土器型現生人類を主流としていた縄文時代、それに続く第二の縄文時代である〝弥生時代〟が、ついに終わりを告げる時が来た。

■第3回目 - 稲作から古墳へ
第2回目の「外圧と占領」について、飯山さんは以下のように記している。

第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入してきて,日本は豪族・古墳文化の時代になる.


飯山さんの第3回目の記述に、亀さんも概ね同意である。

ところで、ここで頭から離れない従来の疑問を思い出した。それは…

何故にユーラシア大陸で古墳が誕生したのか。シャーマニズム、あるいはツランに共通する膠着語という言語が関係するのか…。また、古代人にとって、古墳とは一体全体何だったのか?


というものである。これについては次稿以降で展開していこう。時代を少し遡るかもしれないが、再びユーラシア大陸に視点を移すことになる。

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     『シルクロードの経済人類学』

【追伸】
放知技の小ボンボンさんが、以下のような投稿を行った。

稲の発祥は日本!
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/467/


ソー言えば、上記の飯山さんの私見を、直接本人から聞いたような、いないようなwww

そして、小ボンボンさんの投稿を読んで咄嗟に思い出したのが、栗原茂さんの以下の記述であった。

過去と未来の連続性を保つものには、何事も前段があり、その原点を幼稚(ようち)と思うのは大間違いであり、その原点が付加価値(ふかかち)をもつからこそ、未来に及ぶ技芸(ぎげい)の磨錬(まれん)に通じて、その労働の成果が潜在力となり、それら遺伝情報が培わ(つちか)れるがゆえ、現在という場を乗り越える力が発揮(はっき)できるのだ。家紋も同位相であり、通説は縄文時代に土器が出現したといい、一万二〇〇〇年前説から一万六五〇〇年前説まであるが、無文と別に、豆粒文、(とうりゅうもん)爪形文(つめがたもん)、隆起線文(りゅうきせんもん)、磨消縄文な(すりけしじょうもん)どの出土があるという。これこそ後に氏が家紋を用いる原点であり、それは草木(そうもく)の自生種観察(かんさつ)と稲類の栽培(さいばい)に端(たん)を発するのだ。
◆舎人家紋講座24


危険な毒花
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現在、横浜市発展記念館にて、常盤とよ子の写真展が開催されている。常盤は御年88歳の写真家であり、終戦直後の横浜、殊に、パンパンとして懸命に生き抜いた女たちの作品群を残し、戦後の日本に強烈なインパクトをもたらした。

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パンパンについては、亀さんも書籍、テレビ、雑誌などで目にしていたこともあり、改めて、食うために身を売ってきた女たちに思いを致した。ちなみに、以下は今月24日まで開催されている写真展のPDF資料である。

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また、パンパンをテーマとした映画も多い。しかし、やはり最初に取り上げるべきは、溝口健二監督が撮り、田中絹代が主演した「夜の女たち」(1948年5月26日公開)だろう。その後、自らメガホンを握った田中絹代は、「恋文」(1953年12月13日公開)、「女ばかりの夜」(1961年9月5日公開)といった、パンパン映画を撮っているが、そこに、大女優・田中絹代の目に映った、戦後の日本が炙り出されている。

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視点を変えて、敗戦直後の日本を主テーマとした映画の中で、いの一番に亀さんが推すのは、やはり高倉健主演の映画「三代目襲名」であり、同映画については、拙稿で取り上げた。

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高麗神社と皇室
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高麗神社

平成最後となる来週の天皇誕生日(12月23日)、放知技の数名の道友と一緒に高麗神社を訪問して参拝するが、訪問に先立ち、予習の意味で本稿をアップさせていただく。

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右端は高麗宮司

昨年の9月20~21日、天皇皇后両陛下が埼玉県を御訪問、高麗神社に御親拝され(天皇家と高麗神社)、かつ渋沢栄一記念館を御視察されている。渋沢栄一と言えば、近代日本の礎を築いた人物であると同時に、徳川慶喜公の信任が大変厚い人物であった。そのあたりは、落合莞爾さんが著した『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』、「第七章  慶喜と大政奉還」にある、「渋沢栄一の衷情が滲む『慶喜公伝』」に目を通せば、自ずと納得いただけよう。

一方、両陛下の高麗神社ご訪問を巡ってAERAが、「朝鮮半島からの渡来人にゆかりのある日高市の高麗神社への参拝を巡り、ちょっとした騒ぎが起きた」などと書いていたが、そんなことよりも亀さんが注目したのは、「境内に若光の石碑が建立され、除幕式には高円宮家の久子さまも出席されています」という高麗文康宮司の発言、そして高麗宮司に陛下が御下問されたという以下のお言葉である。高麗宮司とは過去に幾度か会っているが、どのように宮司が陛下に回答したのか、次回訊いてみたいと思っている。

陛下 :高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか。


それから、以下は2016年4月23日に撮影された写真、「高麗神社に建立された石碑の除幕式に臨席された高円宮妃久子さま」である。

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ちなみに、来年は天皇になられる皇太子殿下も昭和51年、同神社を参拝されている。また、同神社には大勢の政治家も参拝しており、そのうちの六名が後の総理大臣に就任した。さらに、あの川島芳子も同神社を訪れているのだ(川島芳子 生死の謎)。

ここで、読者は思うことだろう、「高麗神社とは一体、どういう神社なのか?」と。このあたりの謎を解くヒントは、上に示した高麗宮司への陛下からの御下問にある。拙稿「まぼろしの古都」を一読いただきたい。

この高麗王若光と同じ時代の空気を吸っていた人物に天武天皇がいた。天武天皇とは一体何者だったのかについて、未だに多くの謎に包まれているのだが、その天武天皇と高麗王若光についての貴重な記事が昨秋、世界戦略情報誌『みち』(平成25年11月15日号)の「巻頭言」に掲載された。以下に一部を引用しておこう。

天武天皇による「複都制」の構想は、歴史的に突厥と渤海、そして遼の都城構想に連なるものであり、しかも恐らくはそのいずれに対しても歴史的に先蹤となる地位を占めている。ただ惜しむらくは、天武天皇がこの複都制構想に基づく都城を建設することなく崩御され、わが国において五京制が陽の目を見ることなく終わったことである。

 もし、天武天皇がもう少し長生きをされ、わが国に「五京制」を実現されていたとすれば、難波京と飛鳥京の外に、信濃佐久京と能登福良(ふくら)京(石川県羽咋郡富来町福浦)、そして武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)という三京を置かれたのではなかろうか、と想像を逞しくしている。福良京は後に渤海使節のために「能登客院」が設置され(ようとし)た地で、武蔵高麗京は高句麗遺民の若光王のため高麗郡を置いた地(現在は高麗神社がある)である。


天武天皇が構想したという「複都制」を目にし、咄嗟に思い出したのが旧ブログで取り上げた、栗本慎一郎の『シルクロードの経済人類学』だった。つまり、天武天皇の出自は草原の民、すなわち遊牧民だったのかもしれないと思うに至ったのである。第一、そうでなければ草原の民独特の「複都制」構想が、出てくるはずがないではないか…。その天武天皇の寿命がもう少し長かったら、武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)が都の一つになっていたかもしれず、改めて幻(まぼろし)の古都に住んでいることの不思議さを感じた。


上記に栗本慎一郎氏の名前が出てくるが、『栗本慎一郎の全世界史』p.198にある以下の図をご覧いただきたい。この図については、亀さん的に幾つか納得のいかない点がある。たとえば、「北魏」。栗本氏の図からは、北魏と日本の〝深い〟交流について示されていないが、亀さんが「青州で思ふ(3)」に書いたように、「奈良の平城京は北魏の平壌がモデル」であったことを思えば、何故にこのあたりを栗本氏は言及しなかったのか、腑に落ちないのである。このあたりは、いずれじっくりと確認していきたいと思う。

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北満州と日本列島 05
■弥生時代(前4世紀(前10世紀) - 後3世紀中頃)
弥生時代に関しては、ウィキペディアの解説を引き合いに出し、その上で正しい解答を示す形をとりたい。つまり、今回も前稿の縄文時代同様、世界戦略情報誌『みち』を基に、正しい解答を示すことにしよう。

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さて、現在のウィキペディアの「弥生時代」の項目をみるに、定説通りに弥生時代の始まりを前4世紀としているものの、続いて括弧付きで弥生時代の始まりを(前10世紀)としている。ところが、そのウィキペディアの弥生時代についての解説文の冒頭は、いきなり以下のような文章で始まっている(青下線)…。

弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる[1]。


冒頭で、「紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称」(青下線)と書き、続く段落で「弥生時代は紀元前10世紀に始まる」(赤下線)と書いているが、弥生時代が始まったとされる前4世紀は何所にいったのかwww

それはともかく、並行してウィキペディアが書いている、「採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の「弥生」時代である」は、まったくの的外れである。このあたりは、ネットでいろいろと書かれているので、本稿では割愛したい。それでも尚、疑問に思う読者は以下の一連の論文に目を通すといいだろう。いずれも世界戦略情報誌『みち』に載った、天童(竺丸)編集長の論文だ。

紀元前一〇世紀水田稲作開始 ←稲作は縄文時代
渡来人先進文化将来説の荒唐無稽
渡来人は日本列島に埋没同化して姿を消した
縄文農耕の成熟と弥生水田稲作
中島一憲「渡来人文明開化史観の虚構」


特に、上掲の一連の論文で注目すべきは、「縄文農耕の成熟と弥生水田稲作」の以下の文章だ。

 縄文時代を狩猟採集に基づく野蛮な時代、弥生時代を水田稲作開始による革新的時代と捉える単純な図式では、わが文明の骨肉に触れることはとてもできないのだ。縄文・弥生以来連綿として一貫するもの、それこそが日本文明の精髄であり、わが皇室祭祀の中核にある。


止めとして、最終稿の「中島一憲「渡来人文明開化史観の虚構」にある、以下の文章を引用しておこう。

 この副題にあるように、従来久しく教科書的常識とされてきた「渡来人のもたらした文明により弥生時代が始まり、古墳時代を通じた国家形成が促された」とする歴史観に真っ向から挑戦するのが著者中島一憲氏の全編を貫く基本姿勢である。それは縄文時代を狩猟採集段階の未開社会とみなす大勢の常識に疑問を持ち、具に検証した事実を踏まえて、「縄文時代とは成熟した文明社会であった」という独自の洞察に支えられているのである。


われわれが学校で習ってきたはずの、「渡来人のもたらした文明により弥生時代が始まり、古墳時代を通じた国家形成が促された」は、まったくの嘘っぱちであったことが分かるだろう。

これにて、弥生時代については切り上げ、いよいよ次稿からは飯山史観の要諦である、古墳時代に筆を進めることになるが、その前に、次稿では改めて飯山史観を、「日本列島に流入した人たち」という角度から俯瞰してみることにしたい。ちなみに、以下は飯山さんの放知技への投稿である。

小生,『飯山一郎の“真説・明治維新”』を書きます.

先ず…,序論として「日本歴史原論」.日本の歴史は,外圧と占領により大変化します.
その「外圧と占領」は,今までに7回半ありました.

第1回目は,紀元前1万5千年前頃.コロポックル小人族や石器文化人が住む日本列島に土器文化人が侵入.縄文文化が始まる.

第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住してきて,移動型の縄文人に代わり農作定住民族が主流になる.いわゆる「弥生時代」.

第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入してきて,日本は豪族・古墳文化の時代になる.

第4回目は,7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入してきて,天皇制国家「日本」を建国する.

第5回目は,9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧),京の征夷大将軍が征伐するも,日本は貴族社会から武家国家に変容.

第6回目は,19世紀.英国が「カラー革命」を策謀し,坂本竜馬,高杉晋作らの「尊王派」や「倒幕派」を扇動して,幕藩体制の徳川国を倒し,西欧文化万歳!の明治新国家を建国させ,英国による間接支配が始まる.

ただし,高杉晋作は上海から帰国後,西欧列強の「カラー革命」を見抜いていたが…,明治維新の前年,29才で死去.
この高杉晋作の「無念と残念」を,安倍晋三は熟知している.

第7回目は,20世紀.大東亜戦争に敗北した日本は,米国の占領下に入り,以後70年間,米国の植民地・属国となる.

第8回目は,現在進行中だが,日本は,米国の支配下から脱するため,ロシアとの同盟関係に入る.← いまココ.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16155707/828/


北満州と日本列島 04
■縄文時代(前12000年頃~前4世紀)
ウィキペディアによれば、縄文時代は紀元前12000年頃から紀元前4世紀までとある。しかし、これは明かな間違いで、実は紀元前10世紀ほど前から、すでに弥生時代は始まっていたのである。このあたりについては、次稿の「■弥生時代」で述べるとして、縄文時代が始まったとされる紀元前12000年といえば、すでにシベリアの大地に民族(ツラン)が誕生していたはずで、縄文時代以降に日本列島に渡ってきたのは、シベリアや朝鮮半島からの諸民族、すなわちツランと、南方からの黒潮の民だったと思って差し支えないだろう。

さて、紀元前12000年頃から始まったとされる縄文時代、どのような時代だったのかということだが、実は縄文時代について的確に述べた記事が存在する。それは、世界戦略情報誌『みち』に載った天童(竺丸)編集長の以下の記事である。同記事を読めば、縄文時代とはどのような時代だったのか、手に取るように分かるだけではなく、この日本列島で生を享けたことに、心の奥底で喜びを感じるはずだ。
定住革命の先駆者となった日本 1
定住革命の先駆者となった日本 2

殊に、「定住革命の先駆者となった日本 1」の以下の記述に注目していただきたい。

この日本列島が、世界に例のない聖地だったからである、と。だからこそ、他に例がないほどに恵まれた環境が形成されたのだ。そうでも考えなければ、この恵まれすぎたわが列島の豊かさは説明できない。


この引用だけではピンと来ないかもしれないので、拙稿「乳酸菌と日本人」からも引用しておこう。亀さんは以下のように書いた。

日本列島という地は人類の至宝なのだ。



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われわれの住む日本列島とは、どのような列島なのかについて、さらに知りたいと思った読者は、この機会に『環境と文明の世界史』に目を通していただければと思う。

それから、「定住革命の先駆者となった日本 1」にあった以下の記述…

三内丸山は世界に先駆けた定住革命以来すでに一万年もの長い時間をかけてじっくりと用意されたもの


その通りなのだが、われわれは縄文時代というと、三内丸山を例に挙げるまでもなく、どうも北日本を連想しがちである。しかし、実は南日本でも定住革命が静かに進行していたのだ。そのあたりの詳細は前拙稿で引用した「(11)南方からやって来た縄文人」に目を通していただきたい。 以下の記述に目が留まるはずだ。

日本列島の北方からやってきた人、南方からやってきた人がそれぞれ日本の各地に暮らし、縄文人は均質などではない…

このように、縄文人の興した定住革命は何も北日本に限らず、南日本を含む日本列島全体にわたって起きたのである。


それから、拙稿「北満州と日本列島 03」で、亀さんは栗本慎一郎氏のDNA観を紹介し、必ずしもDNA分析は万能ではないと書いているが、念のため、以下に再掲しておこう。

最近の考古学や歴史学は、染色体やDNAを盲信しすぎてはいないだろうか。再掲になるが、亀さんは拙稿「北満州と日本列島 02」で、栗本慎一郎氏のDNA観を以下のように紹介している。

DNA研究とはいまだに不十分なもので、たとえば5000年だ10000年だというスパンでは何も決定的なことを言うことはできない。たとえば、前述したバイカル湖近くに住むモンゴル系ブリヤート人が日本人とDNA的に近いというような話は全くのインチキである。遺伝子の一部が(しかもその傾向が)ほんのチョコッと似ているというだけの話なのだ。
『栗本慎一郎の全世界史』p.70


「染色体やDNAを盲信しすぎ」という亀さんの記述は、読者に誤解を与えかねない書き方だったと反省している。そこで、次ように言い換えてみよう。つまり、時と場合によっては、DNA分析は目から鱗の事実を浮き彫りにしてくれる、と。その好例として、以下の記事を紹介しておきたい。
Y染色体DNA系統O3の跳梁跋扈を阻止せよ

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ともあれ、亀さんの言いたかったことは、DNA分析結果を基に書かれた諸記事を目にしたら、牽強付会に過ぎないかどうか、じっくりと見極めることが大切であるということなのである。

最後に、日本語の原型ができたのは、縄文時代だったと亀さんは確信しているが、そのあたりについて的確に述べた天童さんの記事、「わが産土は吉備である」(『みち』平成30年9月1日号)があるので、少々長くなるものの、重要なので以下に引用しておこう。

●もともと日本には単一民族が住んでいたのでもなく、単一言語が話されていたのでもない。有史以来の日本列島には系統を異にするいくつかの民族が地域ごとに纏まって住んでいた。言葉もそれぞれに異なっていた。

ところが縄文時代一万二〇〇〇年の間に、何度も大災害に見舞われることにより、かつまた列島全体および沖縄諸島はもちろんのこと黄海を囲む朝鮮半島南部から山東半島までをも網羅する広範な交易ネットワークに結ばれることにより次第に一体化を強めていき、今からほぼ七〇〇〇年前の縄文中期には日本語の核となる「日本語祖語」が形成されてきた。

その日本語祖語は北方言語と南方言語が渾然一体化を遂げた奇跡の言語であった。構文(シンタックス)は言葉そのものを活用・屈折させニュアンスを表現する印欧語系統の屈折語ではなく、助辞を補うことによって言葉と言葉の関係を明確にするという膠着語の系統を引き、北方ツングース語と密接な関係にある。そして語彙には南島祖語(原始アウストロネシア語)に系統を曳く夥しい言葉があって、濃やかな感情表現には接頭辞強調による段階変化(例えば、あか、まっか、まっかっか)をそのまま採用している。

乱暴に言えば、北方からマンモスを追って日本列島にやって来た狩人たちが気候変動によって大型動物が絶滅して食うに困っていたところを、黒潮に乗って台湾からアリョーシャン列島まで自在に行き来していた生活力旺盛な黒潮の民に助けられ、一緒に仲良く暮らすことになった。……まぁー大雑把にはこんな具合だったのではなかろうか。

異なる言語が一つになるなどということは世界の言語に例がなく、まさに奇跡としか言いようがない。例えば、「~する」という言葉。この言葉は何にでもくっついて、その言葉を動詞化する。読書+する、工作+する、睡眠+する、などの言葉に違和感を感じる人はもはやあるまい。ところが、映画+する、ポケモン+する、などはまだ多少変な感じが伴うが、意味が通じないわけではない。たとえ外国語であっても、「~する」はお構いなしにくっついて、日本語化してしまう。プレー+する、サポート+する……。

何でも受け容れて自家薬篭中のものにする、こんなに包容力に富んだ自由闊達の、滅茶苦茶な言語は世界中にも日本語の外にはない。もちろんそれは、一朝一夕に成し遂げられた奇跡ではない。系統の異なる言葉と言葉を相通じるようにするという創意と工夫が途方もない時間を掛けて不断に行なわれた結果である。それを促したのが、否応なしに襲ってくる自然の大災害だった。

時には、鬼界カルデラ大噴火により九州および西日本の人々が絶滅するような危機に見舞われることもあった。そして、生き残るための対立や抗争があったかも知れない。それとは反対に、生き残った者たちの間で、助け合い協働せざるを得ない状況が生まれたかも知れない。

いずれにせよ、日本列島においては、時として大災害に見舞われることはあるものの、四季折々に齎される豊かな自然の恵み……山の幸と海の幸とが、大量殺戮による異民族絶滅を伴う略奪経済から人々を免れさせてくれたのである。

安定した四季の恵みは列島の各地で定住生活を可能にして、三内丸山で栗を栽培していたように、やがて食糧の管理栽培をも手がけるようになると、より大きな政治単位を目指してムラからクニへ統合の動きが加速される。紀元前一〇〇〇年ころの縄文晩期には陸稲が集団管理栽培されていたし、やがて九州北部と備前平野においては水稲栽培へと発展する。

朝鮮半島から製鉄や水稲栽培など先進文化を携えた人々が大量に日本列島に渡来してきて弥生時代が始まり、日本は文明の夜明けを迎えることになる、などという妄説は、半島在日勢力に加担する学者やNHKなどがいくら垂れ流しに必死になっても、もはや事実の前に破綻してしまった。


次稿では弥生時代について筆を進めるが、これは上の記事の最後にある、「朝鮮半島から製鉄や水稲栽培など先進文化を携えた人々が大量に日本列島に渡来してきて弥生時代が始まり、日本は文明の夜明けを迎えることになる、などという妄説」を中心テーマに取り上げる予定だ。

【グリコのおまけ】
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『環境と文明の世界史』p.6


パワフル爺さん
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へっぴりごしさんは、精力的に大量のブログ記事を、連日のようにアップしている、超パワフルなGIII(爺)さんである。アップしているのは、世界や日本の政治や経済といった記事が主なのだが、時には身近な記事もある。たとえば、最近の記事で目が留まったのが以下の記事…
繰り下げ受給PR=「ねんきん定期便」見直し-厚労省

へっぴりごしさんは、以下のようなコメントを残している。

余程「健康に自信」があり、65歳過ぎても「生活できる年収」を確保出来なければ、申請しない・・・鴨ネ。

65歳以上で70歳まで、「職に着ける人」はどのくらいいるのでしょうか?


65歳の誕生日を迎える直前、「死生観を持とう」という記事を亀さんはアップしているが、その中で以下のように書いた。

年金の支給開始は70歳からでE-


これは、へっぴりごしさんの言葉を借りれば、「健康に自信」がまぁあり、「生活できる年収」を70歳までソコソコ確保できると判断したからだ。亀さんは20年近く英日翻訳で生計を立てており、事故に出遭ったり、病気にでもならない限り、70歳まで現役を続けていく自信はある。尤も、流石に五十代の頃のように、睡眠時間を除く一日16時間仕事に没頭するという集中力はなくなったものの、「語彙力」は少しずつだが、伸びているのではと何となく思っていたんだが、最近、それを証明してくれる記事に出会った。それが以下の記事だ。
「能力のピーク」が40代以降に来る人の思考法

同記事には、以下のようなイラストが掲載されている。

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イラストを見ると、「語彙力」のピークは67歳とある。だから亀さんの場合、これから「語彙力」ピークを迎えるということらしい。この語彙力を磨く上で亀さんが必ず目を通しているのが、「山岸勝榮の日英語サロン」というブログだ。山岸先生は大学の元教授だが、定年後の今でも、毎日精力的にブログ記事を書き続けておられ、そのバイタリティーには頭が下がる思いだ。そして、先生のブログ読み続けることでブラシュアップできるのは、何も英語だけではない。 ナント! 日本語もブラシュアップできるのでR。

語彙力? 俺(私)はブログをやっているわけでもねぇし、関係ネーなどと言わないでいただきたい。過日の拙稿「スピーチは自己啓発の原点」で紹介した、『話す力が身につく本』という本にも書いてあることだが、相手に理解してもらえるように話すには、相手に自分の思いや考えが確実に伝わる文章力が必要だ。つまり、話す・書くという能力は両輪の関係にある。

最後に、拙稿「死生観を持とう」にも書いた以下の真実、この機会に改めて噛み締めてみようではないか。

・人は必ず死ぬ
・人生は一回しかない
・人は何時死ぬか分からない


洞察歯観のすすめ(35)
冬の里からの便りが、歯科&音楽ウォッチャーさんから届いた。

今回は安田純平氏のことが取り上げられていて、興味深く読んだが、同氏の歯の状態から〝監禁状態〟を推測するあたり、流石はウォッチャーさんだと思った。

ニュース映像を見る限り「普通に元気ジャン!!」という様子でした。解放後から、なめらかに良く動いてました・・・下顎が!声が出ることが不思議でなりませんでしたが。声にかすれ一つ無く、発音もスムーズ。過酷な環境下で、電動歯ブラシでも使っていたのでしょうか?口元わずかに見られる歯の様子も問題なさそうで”汚れ”が確認出来ない。


亀さんも掲示板「放知技」で安田氏のことを書いている。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/122/

師走に入ったが、ウォッチャーの言うSTEPHEN PETRUNAK の「INFANT HOLY」を初めて聴いた。クリスマスか…、今夏訪れたアルゼンチン、今頃は庭のプールで真夏のクリスマスを迎えていることだろう。

秋も深まり・・・とは言え、もう師走ではありますが、紅葉を楽しもうと山歩きした帰り道、ショッピングモールへ立ち寄り、イートコーナーで100円コーヒーを飲みながら一休みしていたところ、近くのテーブルに、ミニスカ女子高生6人グループがやってきまして、ハンバーガー、ポテトチップ。たこ焼きに、ピザ。ジャンク・グルメをテーブル一杯に広げ、賑々しく女子会が始まりました。これは喧しくなりそうだ・・・早々に引き上げるかと思った瞬間、ポテトを口に放り込んだ茶髪ロングヘアーの女の子が、
「マジ やばいよ 私!今日のテスト全然出来なかったよ・・・」
と、雄叫びを上げ、それをゴングに、テーブル上で、ジャンクフード飛び散るバトルロイヤルが繰り広げられることに・・・。
飛び交いますね・・・「ウソ~!」「マジ!」 「やばいじゃん!」
この三つの言葉。ミニスカ女子高生たちには、とても重要な、スリーコード(三つの和音)で、会話を進めるには欠かせないもの。このスリーコードを丸っきり外してしまうと、コミュニケーション・ブレイクダウンになります。とは言え、ミニスカ女子高生や、ヤング・ジェネレーション(ちょっと、オールド・ファッションな表現でしょうか)だけでは無く、われらおっさん世代も意外と使っております。このスリーコード!結構な感染力です。効果的なワクチンは、今のところ無く、治療不可!といったところでしょうか。
つい先日も耳にしました。
「おい、やばいぜ!カルロス・ゴーンがしょっ引かれたらしい・・・」
「うそっ・・・えっ、マジかよ!」
スーツ姿の50代半ばとみられるおっさん二人の会話です。(日産ゴーンの報道を耳にしたとき、何となく思い出したのが、マツダのロータリーエンジン・・・)
この「やばい」・・・は意外なことに、川端康成が仕掛け人だったそうな・・・
***もともと隠語だった「やばい」を小説で使ったのが川端康成。浅草で生きる不良少年少女を描いた「浅草紅団」(1930年)で、
「私と歩くのはやばい(危ない)からお止しなさい」
とカッコ付きで使われていた。***
「恥ずかしくない おとなの語彙集が 身につく本」・・・というタイトルの本に、小ネタとして紹介されております。

さて、ミニスカ女子会もスリーコードの会話で盛り上がり、話題がテレビワイドショーへと変わり、あの帰国ジャーナリストのことを取り上げ・・・
「私だったら絶対むり。でも、よく帰ってこられたよねぇ~」
長らく過酷な環境下で捕らわれの身となっていたジャーナリストが無事解放され日本に帰国したというニュースが大きく取り上げられましたが、ミニスカ女子の一人は、私ならそのような状況下では耐えられず、とうてい生き延びて帰ることは出来そうもないわ・・・ということを、スリーコードを巧みに織り込んで話したわけですが、ところが、その次に口を開いたクレオパトラ・カットのミニスカ女子が、意外なことを・・・
「えっ!あの人ってさぁ-、普通に元気ジャン!!」
聞いていて、思わず「ナイス・プレイ!」と声をかけたくなりました・・・まさにその通り。解放されてから飛行機で移動し帰国。そして記者会見。ニュース映像を見る限り「普通に元気ジャン!!」という様子でした。解放後から、なめらかに良く動いてました・・・下顎が!声が出ることが不思議でなりませんでしたが。声にかすれ一つ無く、発音もスムーズ。過酷な環境下で、電動歯ブラシでも使っていたのでしょうか?口元わずかに見られる歯の様子も問題なさそうで”汚れ”が確認出来ない。
このジャーナリストの話題も、”東西南北から集められた「ニュースでショー」の一つなのでしょうが、映像には奥さんが登場し、両親が登場し、そしてジャーナリスト本人と、三つの音の組み合わせで作られて作品でした。
ちょっと、余談ですが・・・帰国ジャーナリストのニュース映像を見たときに、ふと心に浮かび上がってきたのが、タレントの川口浩。と言っても、川口浩本人では無く、
「行け 行け 川口浩!どんと行け!」
という歌詞を歌ったシンガーの嘉門達夫。
ジャーナリスト無事帰還のニュースの謎解きは意外や意外にも・・・嘉門達夫が歌う、「行け行け川口浩!」に、あるのかも知れません??

さてさて、意外なことは身近でもありました・・・

今年、幼なじみのK君が仕事リタイヤ。
「仕事から解放されて、気分も落ち着いてきたので遊びに来ないか」
と誘いがあり、少々遠出をして会いに行ってきました。K君とは4~5歳の頃からの付き合いなので、もうO十年になりますが、子どもの頃彼とは家も近く、学校からの帰り道、二人でよくスーダラ節を歌ったものです。年末になると思い出しますが、小学校時代、大掃除の時にぞうきんを振り回しながらスーダラ節を二人で歌い騒いでいたところを担任教師(当時、三十代後半の女教師)に見つかり、こっぴどく叱られたものでした。
「こら!そこの二人。何をしてる。ふざけてないで、ちゃんとしなさい。それに、いま歌っていた歌はなんですか。あなたたちが歌うような歌ではありません」
この叱りかたは昭和の味すね。
また、幼い頃といえば、冬の寒いなかでも青っぱなシャツの袖にこすりつけてはチャンバラごっこをしたものでした。K君とは沢山の想い出がありますが、なんとも可笑しかったのは彼はコーヒー牛乳が苦手で飲めない。よく、「おまえ、コーヒー牛乳
飲めないのかよ~」とからかったものでした。そのK君は高校生になるとスモーキン・ブギ
が愛聴盤となり、学生生活も目覚めの一服で始まる「スモーキン・ブギ」ライフを満喫しておりました。その後、意外なことに勉強することに目覚め、技術屋になり、長年技術畑で仕事をこなし、今年退職。
今でも、スモーキン・ブギが愛聴盤かと聞いたところ・・・これが意外や意外、クラシック音楽愛好家に大変身しておりました。
驚いたことに、ミケランジェリのピアノに酔い、ヒラリー(ヒラリー・ハーン)のヴァイオリンに胸躍らせると言うから、魂消てしまいます!
そこで、K君へのお土産は、CDを数枚選んで持って行きました。一部紹介します。

先ずは、チャイコの一番(チャイコフスキー ピアノ協奏曲 )ピアノは、ゲザ・アンダ。
ピアニストは、鍵盤に指を走らせるだけでは無く、足先もピアノ演奏をしています。足下にあるペダル。ペダル演奏の達人がゲザ・アンダ!
ゲザ・アンダは、K君ではありませんが、朝から晩までスモーキンブギなヘビースモーカーだったようです。ただ残念なのは、フルトベングラーから、「ピアノの吟遊詩人」と賞賛されたピアニストでありながら、五十代半ばで亡くなったことです。

次に、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」
カレル・アンチェル指揮 。オケは、チェコ・フィルハーモニー。
シンフォニエッタのメロディーを聴くと、エマーソン・レイク&パーマーを思い浮かべたりしますが、指揮者のカレル・アンチェルは、あの・・・野生の王国指揮者、ヘルマン・シェルヘンの愛弟子。

三枚目 ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ 「第5番 春」「第9番 クロイツェル」
アルテール・グリュミオー ヴァイオリン。
クララ・ハスキル ピアノ。
クロイツェルは元々、ヴァイオリニストであるブリッジタワーのために書かれた作品で、初演はベートーベンとブリッジタワーで行われたものの、練習時間があまりなかったのか、両者の意思疎通がうまくいかなかったのか・・・ブリッジタワーは、ほぼ初見でステージに立ち、思うような演奏が出来なかったようです。ベートーベンとはウマが合わなかったのかも知れません。また、二人は、ある女性をめぐって仲違いをしたことがあったらしい・・・と、今で言えば美味しいワイドショーネタですが、お互いに、
「あんた あの娘の 何なのさ」
とばかり張り合ったのでしょうか?
その後、ベートーベンは、ルドルフ・クロイツェルに、「この曲、あんたに捧げるぜ」と贈ったところが、受け取ったクロイツェル、「マジかよぉ・・・」とは言わなかったでしょうが、「なにゆえ、私に??」
一度として演奏したことが無かったとのこと。
ピアニストのクララ・ハスキル。冥土へ行くまで・・・いや、冥土へ行っても聴き続けたいと思うピアニストです。クララ・ハスキルをいえば、ディヌ・リパッティも同じですが・・・。
クロイツェル・ソナタといえば、アルトゥール・ルービンシュタインとヤッシャ・ハイフェッツがタッグを組み、ステージに登場したことがありました。クラシック音楽界の超スーパースター。夢の共演といったところでしょう。
コンサート当日。先ずは、ルービンシュタインが登場。不思議なことにヴァイオリンを手にして。続いてハイフェッツがステージ上に現れたかと思ったらピアノの前に・・・。聴衆は驚きを口にする間もなく、イントロが始まり、なんと全三楽章を華麗なるプレイで披露。会場は拍手鳴り止まぬスタンディング・オベーション!聴衆のなかには、
「てやンでぇ-ベラボーめ。こんなものは、インチキじゃーねーか」
と、けちを付けるものもいたようですが、演奏後、ステージ上で二人は、
「コンサートのポスターをよーく見ましたか・・・クロイツェル・ソナタ。ハイフェッツ。ルービンシュタイン。としか記してありません。ポスターのどこに楽器の指定が書いてありましたか。そんなことはどこにも書いちゃーいねーぜ!」
書いちゃーいねーぜ!・・・遠山の金さんのような啖呵を切ることはしなかったでしょうが、ゴールデン・コンビのコンサート。聴いてみたかったですね。今となっては、タイムマシンにお願いするより他に手はなさそうですが・・・。

ーー番外編ーー
幼なじみのK君へのお土産として、CDの他に聴診器をひとつ用意しました。さて、どう使用するか・・・これは、この世界にたった一つしかない壮大なシンフォニーを鑑賞してもらうためもの・・・つまりは、自身の体内に響き渡る音を聴くためのものです。普段、色々な音楽に接していながらも、自分の音(おん)は、意外や意外にも聴いたことはなく知らない。K君には、
「検診などで、お金を払ってまで、お医者に聴かせてやることはない・・・自分が聴いて楽しめ」
そう言って渡しましたが、これを切っ掛けに、退職したおっさんが、よからぬ趣味?に走るのではないかと一抹の不安・・・無きにしも非ず!

聴診器をヘッドフォン代わりにして聴くシンフォニーは、意外なる世界(宇宙の旅)へと誘ってくれるかも知れません。

ーー追記ーー

ミニスカ女子会バトルロイヤルを楽しんだ後、モール内で暫くウインドウ・ショッピングしていると、「ホワイト・クリスマス」が流れてきました。ビング・クロスビーの甘ったるい歌声を聴いていると、砂糖てんこ盛りのシフォンケーキが目に浮かんできましたが、クリスマス定番の「ホワイト・クリスマス」は、アーヴィング・バーリンの作品。バーリンは、シベリア生まれのユダヤ人。アメリカの代表的クリスマス・ソングは、ロシアから愛を込めて贈られた一曲だったのかも・・・知れません!

そこで今宵は、クリスマスソング。

STEPHEN PETRUNAK のアルバム 「INFANT HOLY」 から、「SILENT NIGHT」

このアルバム、いまから十数年前のこと、ある中古レコード屋で見つけ買い求めた一枚ですが・・・以来、我が家の定番・師走アルバムとなってます。一年の疲れと汚れを洗い流してくれる、程よい甘さで口あたり(耳あたり)のよい美味しい音のデザートです。先ずは一曲、試食を・・・。
(国内盤アルバムは、どうやら発売されていないようです)