幕末、川路 聖謨(かわじ としあきら)という名官吏がいた。
明徳3(1392)年の「明徳の和約」による南北朝合一以来、現皇室に至るまで北朝の男系子孫が連綿と続いている、というのが世の中の常識になっている。しかし、弘化4(1851)年10月11日、当時24歳だった奈良興福寺の塔頭一乗院の門主朝彦親王(当時は尊応入道親王)から伺った話を、奈良奉行川路聖謨が『寧府紀事』に書き遺していた。
わが実家は吉野の皇居の血筋なる故か、ことに盛にして、当時は禁裏も後醍醐帝の御血筋、近衛も鷹司も皆、わが実家のもの共が継ぎたり。不思議なることよと御意也
川路の書いた「吉野の皇居の血筋」とは南朝に他ならず、北朝系であるはずの伏見宮皇子である朝彦親王から、正反対のことを直に聞いた川路聖謨は、不思議なことに親王発言を聞き咎めなかったという。何故だったのだろうか…。
このあたりの解釈を巡って、『朝彦親王伝』を著した徳田武氏、『伏見宮─もうひとつの天皇家』を著した浅見雅男氏、そして『月刊日本』に「疑史」を連載中の落合莞爾氏と、それぞれ解釈が異なっている。詳しくは徳田氏および浅見氏の著書、ならびに『月刊日本の』に載っている落合氏の連載記事を読み比べて欲しい。

川路聖謨の人物については、落合(莞爾)さんの堀川政略第二弾が発売されたら、朝彦親王と絡めて本ブログで取り上げたいと思う。
なお、昨日以下のようなツイートがあった。

同ツイートで紹介している川路聖謨の記事は以下のとおり。 人物探訪: 川路聖謨とプチャーチン
この記事を読みつつ、道友が掲示板「みち」で鈴木宗男氏の発言を紹介していたのを思い出した。
なるほど、「競わず、争わず」の世界そのものだなと思います。そういう視点を持つと、先の大手町氏が「…つまり、アメリカは日本の円安を容認する代わりに米国債を購入させ、金利の上昇を押えようとしているのだ。……これはEUとの関係においても言えることである。麻生財務大臣は先日、欧州安定化メカニズム(ESM)が発行を始める債券について購入する意向を表明した」というのも、別の見方が出来るのですが、『月刊日本』の3月号の「運・命・に・挑・む」で鈴木宗男氏が以下のように書かれているのを見ると、暗澹な気持ちになります。
*********************************** 特定地域の専門家が現れ、その人物が特定の政治家と密接になって正しい情報を得るようになると、外務省がウソをついたときに、それが見破られてしまう。それこそが省益を害す、このように外務省は判断し、二つの決断をした。一つは、「専門家は育成しない」。もう一つは「情報(インテリジェンス)からは手を引く」という判断である。 ***********************************
このように、政官ともに「吾(あ)減(へ)る」ということにおいては、優秀な仕事をしているのでしょうが、これで国が成り立っていくのかと暗澹な気持ちにもなります。これでもし国が成り立っていくとすれば、だれかが別のところで和する方の「あへる」ということを行なっているに違いないので、そうなると皇統奉公衆という存在を仮定するしか他はないのではないわけです。その一つの現れが、落合氏の明治維新における朝彦親王ということになるのでしょう。 http://michi2672.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=4085988
川路聖謨が遺した辞世の句
天津神に 背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは

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