
過日、6月15日に亡くなった叔父の四十九日の法要に行った折、やはり昨年亡くなったもう一人の叔父の義叔母と、席が隣同士だったので色々と語り合ったのだが、その時にしまむらのことが話題になった。しまむらとは遠戚にあたることは昔から知っていたが、叔母との話を通じてしまむらの社史などを詳しく知りたくなり、ネットで確認したところ『しまむらとヤオコー』(小川孔輔著 小学館)という本の存在を知った。
早速発注して届いた本を紐解いたところ、同書の口絵に島村家の簡単な家系図が載っていた。ちなみに、しまむらの創業者である島村恒俊の母はトメとあるが、そのトメにはもう一人の妹がいたことが以下の島村家の家系図から分かる。

実は、その妹こそ亀さんの母の母、つまり母方の祖母なのだ。だから、一年前に逝去した小山岩男は母の弟ということになる。このあたりは、「叔父との別れ」と題する拙記事の中で書いた。
叔父は中学を終えた15歳の春に、親戚の呉服店へ丁稚に出されたのだが、わずか15歳で社会に出る弟を見て、母は不憫でしかたがなかったという。
この呉服店が実はしまむらだったのである。ちなみに、遠戚の伯父にあたる島村恒俊とは30年ほど前、亀さんの母方の祖父の葬式で一度顔を合わせたことがある。
さて、『しまむらとヤオコー』の著者である小川孔輔氏はブログを開設しており、『しまむらとヤオコー』の中で叔父について言及した箇所を公開していた。 第12 回「しまむら、男子従業員9人、一斉退社事件」『チェーンストアエイジ』
小川氏は1951年生まれとあるから、亀さんより2歳年上だ。だから、山本直純の「大きいことはいいことだぁ~♪」で代表されるように、お互いに経済成長を良しとする社会環境の中で青春を送ったわけであり、それ行けドンドンという時代精神の申し子と云えよう。だから、しまむらを近代的なチェーン店へと舵取りを行った島村恒俊に対して、小川氏が好意的というか理解を示す理由も分かるのである。
ところで、小川氏のブログに以下のような記述がある(傍線は亀さん)。
その後、辞めた社員たちは、それぞれ自分が住んでいる場所に、婦人服の店を構えることになった。店舗の広さは、20坪から30坪だった。100坪の以上の繁盛店を構えていたしまむらの商売とは比べようもなかった。小山は東松山に、斉藤は小川に、野原は寄居に、もうひとりの首謀者だった比留間は行田に、婦人服の店を出した。
イタモト洋服店の島田茂が、4人に資金を援助したといううわさもあった。本当のところはわからない。しかし、いずれの店も成功することはなかった。
小川氏が何を以て「成功することはなかった」と書いているのか分からないのだが、少なくとも東松山の駅前に出した叔父の店や斉藤さんらの店は、小規模ながらも立派に続いたのであり、また互いに助け合っていた様子を亀さんは見てきた。その後、叔父も歳を取ったこともあり、10年ほど前だったか店を畳んでいるが、それまでに立派に二人の子どもを育て上げ社会に送り出している。だからこそ、義叔母も「お父さんに感謝している」という言葉が自然に出てくるのだろう。
だから、小川氏の書く「成功することはなかった」というのは、叔父らはしまむらのように店を大きく出来なかったから、「成功しなかった」と書いているのだと解釈するしかないのだが、それは可笑しいだろう。なぜなら、小川氏自身のブログにも書いてあるように、叔父らは身の丈にあった店を持つことで十分満足していたからだ。こうした考え方は、小川氏にとって物足りないというか歯がゆいように映ったかもしれないが、人にはそれぞれの生き方というものがある。しかも、バブル崩壊以降は寧ろ叔父のような生き方に倣う若者が増えてきているのだ。例として、数日前に放送されたNHKの「U-29」の「僕らの世代 僕らの仕事 スペシャル」を観てもよく分かろうというものだ。
なお、数日前に『しまむらとヤオコー』のことを電話で報告したところ、義叔母は同書のことを知っていた。しかし同書を持っていないと言うので、「では手配して本を送りましょうか」と尋ねたところ、即座に「要らない」と義叔母は断ってきたのだった。その辺りの理由も、小川氏の著書にサーッと目を通したり、小川氏のブログの一部に目を通してしたりしていたので、義叔母の言外のメッセージを瞬時に読み取れた次第である。
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