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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
立正安世論II
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過日の拙稿「小野田寛郎の実像に迫る」で紹介した、玉井禮一郎さんの『立正安世論II』を手にとって読んでみた。まだ、4分の1しか読み進んでいないが、同書の要と思える、第二章の「第一回霊山会講話」は読み終えることができた。

第二章を読み終えた時点で、小野寺某が著した新刊本『もうひとりの天皇』などは、もうどうでも良いと思うようになった。その理由の一つに、小野寺某についてなら、『立正安世論II』p.193~265の「阿部日顕(日蓮正宗法王)師に答える(1)-平成3年8月29日の講義への論駁- 玉井日禮」で、玉井さんが徹底的に小野寺某を論破しているので、今さら玉井さんにお聞きするまでもないと悟ったからだ。なお、「阿部日顕(日蓮正宗法王)師に答える(1)-平成3年8月29日の講義への論駁- 玉井日禮」の一部は、以下にPDFファイルで公開されているのでご確認いただきたい。また、『立正安世論II』そのものについては、亀さんの作成した「たまいらぼ出版」のこのページに簡単な紹介を載せている。
月刊ムー 自称南朝天皇特集 宗教デビュー失敗! 小野寺直

もう一つの理由、寧ろこちらの方が本音に近いのだが、第二章の「第一回霊山会講話」は僅か42ページに過ぎない小章とはいえ、宗教についてのエッセンスが集約されていると感じたのであり、小野寺某の話よりも、寧ろ宗教の本質に迫る話を聞き出すつもりで、今春の暖かい一日を選び、久方に玉井さんの光寺を訪れたいと思うようになった次第だ。だから、日蓮宗、さらには上次元である仏教、キリスト教、イスラム教について、欲張りだが半日ほどかけて徹底的に聞き出してきたいと思っている。

以下は、第二章で印象に残った行であるが、量的に多くなりそうなので、「石田次男」、「創価学会」、「本尊」という三つのキーワードに引っ掛かったもののみ羅列しておこう。なお、口語体になっているが、すべて玉井さんのことばである。

宗教で一番大切なことは何が本尊か?ということです。(p.45)

なんでも自分の所にあるものを本尊にしていいのかというと、日蓮聖人という人はそうはおっしゃっていない。本尊はこれ一つしかないんだよとおっしゃっている。(p.47)

15031502.jpg

                      大本尊


石原次男さんといいまして創価学会の第三代会長になるはずだった人、この方がやはり大変な問題提起をされているわけですね。それは「現代諸学と仏法」という本……。これは全四巻になるはずです。いま一巻と二巻しかでておらんですけどね。
これは主に、日蓮正宗、いわゆる創価学会員にむけて書かれた本なんですけどね。つまり日蓮正宗というより、創価学会は昭和35年以来皆間違った仏法をやっていると。それは仏法ではなくて、仏法以前の外道だと。六師外道という、つまりインドですでにお釈迦様によって打ち破られた婆羅門哲学を仏教の装いをこらして説いているのにすぎないんだと。痛烈に批判しているわけですね。
具体的にいえば、池田大作の教学を批判しているわけです。あれは仏法ではないといっているわけです。それを延々と一巻から四巻までをそのために論証に費やしている本なんですね。
(p.52)

仏教の存在論、認識論はそれとはまったく別世界で自分というものは有るとも云えない、無いとも云えない。また有るとも云えるし、無いとも云える。実に、禅問答のような一見へりくつみたいな理論で成り立っている不思議な存在論であり認識論であります。

この四句分別が解らない以上仏教を論ずることはできないというのが石田さんの説なんですね。ところが池田大作が説いている仏法なんてものは全部存在論や認識論で説いている。西洋哲学の認識論で説いているから、あれは仏法ではない。あれはすでに釈尊の時代に打ち破られて、もうそれはとうの昔に弊履(へいり)の如く捨てられたものでしかない。

仏法っていうものはそんなもんじゃないんだというわけです。大変な苦労をしてお釈迦さまが発見された宇宙の、或るいは我々の存在と認識の真理であって、それを発展させるどころか、それをそれ以前の状態に引き戻そうとしているのがいまの創価仏教。具体的には池田大作が書いた論文だとか、聖教新聞だとかでだしている本などから文をひいてきて、メスを入れてますが、確かにそれはなるほどと思わせるところが沢山ありますね。

ですから、それが先程云ったもう一つのショックだったわけでね。といって私は石田さんを自分の先達にしようとは思わないんです。というのは.あの人はそうは云いながらこの本尊論ではまったく違うんです。この本尊論では、つまり創価学会が信仰している冨士大石寺の板漫陀羅が本尊だといってゆずらないわけですね。それぐらい漫陀羅の呪縛っていうのはきついんですね。あの人の一生を縛りつける大石寺の楠板に彫られたこういう曼荼羅があるわけですね。それが日蓮大聖人が大御本尊だよとおっしゃったというウソを創価学会の連中はいまだに信じているわけですね。そういう聡明な石田さんですらそれはそれで信じているわけです。だから私とまったく相容れないわけです。だけど仏教理念の面では非常に教わるところが多い。
(p70-72)

本尊がなくとも仏教は成立する。それが日蓮聖人が出現するまでは、法華系の仏教に共通した考え方だった。ところが日蓮聖人がでてはじめて境法なるものをたてたんです。境智の二法、つまり正しい対象がなければ、正しい智恵は湧いてこない。境智冥合ってことを云うんですがね。つまりいままでの智法、自分の内面というものだけにこだわり続けていた仏法というものを二遍ひっくり返して本来仏というものはこういうものだと目にみえる形であらわしたものが大本尊だったんです。そしてそういうものに題目を唱えれば境智が冥合して仏になれると。仏法というのは智法にかたよるものでも境法にかたよるものでもない。境智が冥合して、二つであって二つでないような、その境い目に仏界というのがある、というのが日蓮という人のたてた仏法の最大特色なんです。それはいままでの仏法に対する既成概念をいっぺんひっくり返すような大事件だったんですね。

ですから、なんでこんなものが現れたきゃいけなかったのか。なんでこんなものを拝まなきゃいけないのか。僕だって、十年ぐらいは抵抗を感じましたよ。だけど、とにかくこれに向かって題目を唱えればいいんだという結論だけは日蓮聖人という大智慧者によってはっきり出てるわけですから……。あとで理由づけというのは自分で勉強をしていく以外にはないんですね。私の場合勉強してきた結果、成る程という結論に到達しつつあるわけで、まだ到達しきったわけではないので、いまだに何でこれを拝まなきゃいけないんだという気は残っていますよ。それが完全になくなったときが、こっちが修行をある程度完成したときだというふうに、自分では思っていますけど。
(p.78-79)

大本尊と書いてあるのはこれ一幅なんです。あとは全部大漫陀羅なりと、大漫陀羅の場合は法華弘通の旗印として書き表したという文章があるんです。つまり旗印なんですよ。本尊ではないんです。その旗印をみな本尊だと思ってやってるから話がややこしくなってくる。しかし本尊というのはただ一体でなければならないということは一乗の法のみあって二もなく三もなしの大乗の仏法の当然の結論であって、幾つもあるわけないんです。大本尊はこれ一つしかないことは明々白々です。あとは全部この大本尊を弘めるための旗印なんです。旗印のほうを本尊だと云っているのが創価学会とかいろいろの教団なんです。(p.82)


ここまで羅列して思い出したのが、佐藤優氏の近著『創価学会と平和主義』(朝日新書)である。読むつもりで大分前に取り寄せたのだが、未だに完読していない。そこで久しぶりに目次を眺めてみたところ、第二章の「歴史的に見た創価学会、公明党、日蓮正宗」と題する、大変興味深い章があるのを見つけた。そこで、先に同書を玉井(禮一郎)さんに送り、どこまで正鵠を射た記述なのか教えを請うことにしたい。玉井さんの読後感はご本人の許可が得られた場合、拙ブログに公開したいと思う。なお、過去にも以下のようなことを書いている。
公明党の平和主義02

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