お陰様で、拙ブログも3年目の正月を迎えることができた。最初の1年は1日1本のペースで記事をアップしていたが、昨年は2日に1本とペースが半分に落ち、今年も昨年並みの更新ペースになりそうだ。しかし、その分内容的に充実した記事をアップしていきたいと思っている。
さて、元旦らしいテーマを取り上げてみよう。亀さんは生まれも育ちも埼玉県飯能市だが、お隣の日高市で来年の2016年(平成28年)、高麗郡建郡1300年を迎える。
 高麗郡建郡1300年 記念事業委員会
高麗郡建郡と来れば高麗王若光だが、その高麗王若光の小説『陽光の剣 高麗王若光物語』が一昨年出版されている。著者は高麗文康氏で、若光の直系60代目の子孫にあたり、現在は高麗神社宮司である。

この高麗王若光と同じ時代の空気を吸っていた人物に天武天皇がいた。天武天皇とは一体何者だったのかについて、未だに多くの謎に包まれているのだが、その天武天皇と高麗王若光についての貴重な記事が昨秋、世界戦略情報誌『みち』(平成25年11月15日号)の「巻頭言」に掲載された。以下に一部を引用しておこう。
天武天皇による「複都制」の構想は、歴史的に突厥と渤海、そして遼の都城構想に連なるものであり、しかも恐らくはそのいずれに対しても歴史的に先蹤となる地位を占めている。ただ惜しむらくは、天武天皇がこの複都制構想に基づく都城を建設することなく崩御され、わが国において五京制が陽の目を見ることなく終わったことである。
もし、天武天皇がもう少し長生きをされ、わが国に「五京制」を実現されていたとすれば、難波京と飛鳥京の外に、信濃佐久京と能登福良(ふくら)京(石川県羽咋郡富来町福浦)、そして武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)という三京を置かれたのではなかろうか、と想像を逞しくしている。福良京は後に渤海使節のために「能登客院」が設置され(ようとし)た地で、武蔵高麗京は高句麗遺民の若光王のため高麗郡を置いた地(現在は高麗神社がある)である。
天武天皇が構想したという「複都制」を目にし、咄嗟に思い出したのが旧ブログで取り上げた、栗本慎一郎の『シルクロードの経済人類学』だった。つまり、天武天皇の出自は草原の民、すなわち遊牧民だったのかもしれないと思うに至ったのである。第一、そうでなければ草原の民独特の「複都制」構想が、出てくるはずがないではないか…。その天武天皇の寿命がもう少し長かったら、武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)が都の一つになっていたかもしれず、改めて幻(まぼろし)の古都に住んでいることの不思議さを感じた。
この正月休みを利用して、安西正鷹さんが10年以上前に『みち』に連載していた、「渤海国と今後の日朝関係」を再読してみようか…。
 http://grnba.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14758876
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