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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
西行法師の繋累
落合(莞爾)さんの著書、『月刊日本』および『みち』の記事は欠かさず目を通している。ところで、この落合秘史の世界を彷徨っていると、幾本かの目立つ樹木(キーワード)が目に付くようになる。そうしたキーワードの一つとして、気になっていたのが「西行法師」であった。そんな折、10月21日にNHKの「知恵泉」という番組で、「人脈力~西行 派閥を超えたネットワーク」を放送するというので、録画しておいた。仕事から解放された今日、漸く観ることができたのだが、残念ながら随所にNHKの限界を感じさせる番組であった。

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実は、この西行について落合さんが書いていた記憶が、朧気ながら残っていたので、『月刊日本』、『みち』、そして最新刊の『京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘』(成甲書房)と確認してみたが、西行の記述が何処にも見あたらない。やむを得ず、落合さんに直接尋ねてみたところ、以下のように丁寧に回答していただいた(括弧は亀さんの追記)。

(西行について)拙著では以前から書いています。内容は『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』が最も詳しく、その他『国際ウラ天皇と薩長新政府の暗闘』にも少し書いたかな。

『奇兵隊の・・・』では、岸・佐藤兄弟の家を説明する際に、佐藤甚兵衛のところで、明らかにしました。

國體天皇の現形が三上皇で、北面を使って荘園管理のネットワークを作り、鳥羽天皇⇒美福門院領⇒八条院領になりそれが大覚寺党の財源になりました。

西行は佐藤氏の本家で、紀伊国那賀郡の鳥羽上皇領の預所となり、一門からは佐藤甚兵衛基治(湯ノ庄司)が出て奥州藤原氏の軍事部門となります。

この佐藤氏のネットワークが「甚べえ」なのです。


早速、久しぶりに『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』を紐解き、直ぐに西行を取り上げている、「大室家を保護した佐藤甚兵衛とは」(p.66)という小節を見つけた。この小節を一読すればよく分かることだが、西行法師すなわち佐藤義清は、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三の遠祖なのである。参考までに、以下に小節「「大室家を保護した佐藤甚兵衛とは」を転載しておくので、関心を持たれたら同書を直に紐解いて欲しい。西行法師の実像を本邦で初めて公開した貴重な小節だ。

大室家を保護した佐藤甚兵衛とは
興良親王が田布施に潜入したのは、この地に鎌倉初期から佐藤甚兵衛が入り、隠然と支配していたからです。甚兵衛については、拙著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』に述べましたが、その後もいろいろ歴史情報が集積したので、以下に要領だけを述べます。

佐藤義清(1118~1190)は上皇(院)に仕える北面の武士で、紀伊国那賀郡田仲荘の預 (上級荘官)だったのですが、鳥羽(1103~1156)と後白河(1127~1192)の二世にわたる上皇の命を受けて、1140年に出家します。佐藤義清が出家したのは、通説がいうような個人的ないし宗教的理由ではなく、院政を支えるための山林管理を主とする荘園管理人のネットワーク作りにあったのです。

法体に身をやつした義清が法号を西行と称し、歌詠みとして世間を韜晦しながら全国を周回して作り上げたのが、「甚兵衛」と称する荘園管理職で、今も全国に六十人ほどいると聞きます。

全国の「甚兵衛」の本家は、陸奥国信夫郡を領して「信夫庄司」と呼ばれ、飯坂温泉に住んでいたことから「湯の庄司」とも呼ばれた佐藤甚兵衛基治(1122~1180)と言われますが、家系からみて、西行こそ甚兵衛の本家筋で、「湯の庄司」は同族として他の甚兵衛と対等ではなかったか、と思います。

西行の同族で5歳年上の佐藤基治は、奥州平泉の王者藤原秀衡の参謀として知られ、子息の佐藤継信・忠信の兄弟が源義経(1159~1189?)に仕えて奮戦する忠誠に満ちた軍談は、『平家物語』によりよく知られております。

歴史学者角田文衛は、「当時としては珍しい佐藤一族の義経に対する熾烈とも見える忠節は、君臣の関係だけでは説明がつきにくく、義経が平泉時代に迎えた妻は、佐藤基治の娘でなかったか」とする説を唱えているそうです。

角田が「義経と佐藤甚兵衛にはただならぬ関係があるな」と洞察したのは、さすがと思いますが、わが国の一流史学者の洞察力がこの程度とは思いたくありません。わが国の史学者は、時として奥歯にものの挟まった言い回しをする癖があります。ここまで書いたからには、角田はもっと奥を知っていたはずとみたいものです。

わが国の史学者が、知見を小出しにしながら瀬踏みをする特有の姿勢は何とも不思議ですが、これは日本社会に蟠る巨大な黒い影を意識しているからでしょう。史学の泰斗喜田貞吉も、「私の研究には、まだ奥があるが、それを書くとコレだからね」と言いながら、両手を後ろに回すそぶりをしたと、たしか著書『特殊部落研究』のチラシに書いてありました。その黒い影の正体はずばり長州藩閥で、これを明らかにするのが本稿の目的です。

大室家の保護を頼まれた田布施の甚兵衛は佐藤姓で、昭和の御代にその家から日本国首相を二人出しました。佐藤栄作の夫人寛子は実家が佐藤甚兵衛基治の直系であると、回想録にハッキリ書いています。逆に言うと、岸信介・佐藤栄作の兄弟が揃って首相に就いたのは、佐藤甚兵衛の家門によるところもあり、単なる個人的能力ではないとも言えます。

例えば、佐藤栄作が国鉄に入った経緯を通説は、鉄道省へ入省を希望した栄作を叔父松岡洋右が世話したとしていますが、真相は後藤新平の方から栄作に鉄道省への入省を命じたので、後藤新平がここに出てくるところが秘史なのです。

また、岸信介が渡来朝鮮人系ともっぱら噂される岸要蔵家の養子になるのも、将来日本が採るべき朝鮮半島政策を見据えた必然の理由があったのです。昭和40(1965)年6月22日に締結した日韓基本条約の締結時の総理は池田勇人ですが、実際には前首相の岸信介が矢次一夫の国策研究会と、椎名悦三郎の日韓協力委員会を通じて行っていた前交渉が実を結んだものです。

岸信介が韓国大統領の朴正煕と協力して行った、ソウル市地下鉄をはじめとする韓国経済・社会の近代化は、佐藤信介が岸家に養子入りする時に、すでに端を発していることを知る人は何人いるでしょうか。

平成の世になって信介の外孫安倍晋三が首相となりました。晋三氏の父晋太郎氏の政治資金の一部を面倒みていた故高橋治則君と私は親友と言っても良い仲でしたから、父の義治氏に紹介されて親しくしていました。

「なぜ、あそこまで安倍さんを応援するのか?」と私が問うと、義治氏は、「高橋家の先祖は平戸松浦藩士である。松浦藩の松浦党は嵯峨源氏の渡辺党だが、その中に安倍晋太郎さんの先祖がいる。だから応援している」と教えてくれました。

調べてみると、筑前国宗像郡大島に流罪となった安倍宗任の三男季任が肥前国松浦に行き、松浦氏の女婿となって松浦実任と称し、子孫の松浦高俊が平清盛配下の平家水軍として活躍したため、治承寿永の乱後に長門国に流罪となり、安倍氏を名乗ったということです。これが安倍晋太郎・晋三父子の家系です。

地家康雅氏は、学生時代に郷里で選挙のアルバイトをした実父が、佐藤栄作事務所に就職の斡旋を依頼したところ、電話一本で久保田鉄工所(現クボタ)に入れてくれたと語っています。たまたま久保田鉄工の上層役員だった友人に問い合わせたら、「自分の部下の課長が確かにその人」とのことでした。


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