
「国を磨き、西洋近代を超える」と題したブログのオーナーは、『月刊日本』編集人の坪内隆彦氏である。同氏とは様々な会合で時折お会いしているが、昨日、以下のような(1月2日)ツイートを流していた。
早速アクセスしてみたが、これは有り難い文献のデータベースである。早速「お気に入り」に加え、「アジア的価値観」、「古神道」「アニミズム・汎神論」、「シャーマニズム」、「岡倉天心」、「田中正造」、「神風連」、「占領期の言論統制」といったページにアクセスしてみた。特に気に入ったのが、渡辺勝義氏の「日本精神文化の根底にあるもの(七)」と題する論文であった。同論文の内容については、以下の冒頭に集約されている。
本論はこれまで記紀などの古典を基として日本及び日本文化、神道の本質について数回に亘って書き及んできた「日本精神文化の根底にあるもの」シリーズのまとめとして、現代日本人がいつしか失ってしまった尊貴ともいうべき神道にとって最も大切な神霊との邂逅-「始原への回婦」の道について、幕末・明治に生きた神道学者・本田親徳が遺した霊学(鎮魂法・帰神術)を概観しながら考察してみたい。それは同時に、日本にとって明治維新とは、また近代とは一体どういう選択であったのかについて顧みることにもなろう。
 『神道と日本文化』
ところで昨夜、布団の中で『死ぬときに人はどうなる』(大津秀一著 致知出版社)という本を読んでいた。すると、病(胃穿孔)のため間もなく逝くことを悟り、死装束を身に付けた山岡鉄舟の許に勝海舟が訪れるというシーンが描かれていた。
勝:いよいよご臨終と聞き及んだが、ご感懐はいかがかな。 山岡:現世での用事が済んだので、お先に参ることにいたす。 勝:さようか、ならば心静かに参られよ。
このやりとりは、二十代の頃に読んだ勝部真長の本に登場していたと記憶するが、その行を目にして思わず背筋を伸ばしたものである。そして今回、改めて山岡と勝の時代の死生観と現代人のそれとは、大きく異なっているのを再確認した次第である。つまり、昔は死はタブーではなかったのだが、現代は死をタブー扱いしているのだ。だから、『死ぬときに人はどうなる』を読み進めながら、改めて「日常に死を取り戻す」必要を感じた次第である。
亀さんの場合、余生は「本当の自分と出会う」ための暇潰しをやっていきたいと思う。ここで云う本当の自分との出会いについては、上記の「日本精神文化の根底にあるもの(七)」を参照されたい。
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