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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
遠祖を求めて
亀さん家のルーツは、埼玉県飯能市の観音寺(真言宗智山派)で見出すことができる。平成元年9月、本家の従兄弟(実際には叔父甥ほどの年齢の開きがあるが、血縁上は従兄弟)が墓石を新しくするということで、取り壊す前に墓石から「推定系譜」なる一覧表を遺してくれている。それを見るに、最も古い年代で「眞了浄言禅譲尼が宝永五年(1708年)没、施主久三郎」という記述が目にとまった。そして、残念ながら宝永五年以前を遡ることはできなかったようだ(過去帳も同様)。

そこで2012年8月20日、京都の大学で学業とアルバイトに追われている、上の息子の陣中見舞いに京都を久しぶりに訪れる。その数日前、他用で〝さる筋〟と電話で語り合っていた時、中世のころの亀さん家のルーツは京都にあるという話を、昔日さる筋がしていたのを思い出し、「京都でルーツを求める旅をしたいので、何かヒントになることを教えていただきたい」と問うと、「伏見宮家縁の土地および八坂神社」を訪ねると良いとのアドバイスであった。さらに、中世における亀さん家直接のルーツは綾部市にあるとのこと。残念ながら、時間的に無理なので今回は諦めざるを得なかった。その代わり、旧堀川御所に足を運んでみると良いというアドバイスがあった。仕事に追われていたので、「伏見宮」および「八坂神社」のデータをインターネットで調べてプリントし、行きの新幹線の中で目を通した。

8月20日午前9時過ぎに京都着。その足で西本願寺に向かう。目指すは、西本願寺と京都東急ホテルに挟まれた場所にある、旧堀川御所だ。到着後、今ではコンクリートで敷き詰められて駐車場になっている跡地の休息所に腰を下ろし、『月刊日本』に連載中の落合莞爾著「擬史」の一節を暫し思い浮かべていた。

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堀川辰吉郎は明治十三年、孝明帝の血統を享けて京都の堀川御所に生まれた。明治二年、西郷・吉井・大久保の薩摩三傑が宮中改革を図り、孝明帝の女官を京都に留めたことは周知であるが、その女官たちは、維新後も京都堀川御所に住した京都皇統に仕えたのである。堀川御所は明治天皇の行在所を名目に設けられた施設で、堀川通り六条の日蓮宗本圀寺旧境内にあった。足利尊氏の叔父・日静上人が鎌倉本勝寺をこの地に移し、皇室鎮護の霊場として本国寺と称したが、水戸光圀により本圀寺と改めたこの名刹は昭和四十六年に山科区に移転したが、旧境内は実に広大で、現在の西本願寺もその一部を割譲されたものである。堀川御所は昭和三年に廃止されたと聞くが、皇統の本拠としての意義を果たし終えたからであろう。(『月刊日本』「疑史 第68回」落合莞爾著)
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芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」ではないが、慶応2年12月25日に孝明帝が崩御、以降睦仁親王と共に旧堀川御所にお隠れになり、10年後の明治13年、睦仁親王を父として堀川辰吉郎が誕生したのが、此処であったことを思うと感慨深いものがあった。

 その後、息子と待ち合わせを約束していた、今出川駅まで炎天下の古都の道を歩く。一緒に昼食をとった後、近くにある二ヶ所の伏見宮邸宅を訪問した。

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伏見宮御所北部の邸宅跡?(左)と伏見宮御所東部近傍の妙音弁財天(右)

【伏見宮家邸宅】
江戸時代の伏見宮家は京都御所周辺に2ヶ所の邸宅を有しており、その時の当主の都合で、どちらかを本邸として使用していた。御所東部と御所北部に、その邸宅は存在した。御所北部の邸宅は現在、同志社女子大学の敷地の一部となっている。周囲には桂宮家と五摂家の二条家と近衛家の邸宅があった。

御所東部(出町北鴨口)の邸宅跡地付近には、「妙音弁財天」を祀る伏見宮家の鎮守社が今も残る。


訪れた同志社女子大学の守衛所で確認したが、御所北部の邸宅らしき場所は上左の写真の狭い場所しかないとのことだった。守衛さんは墓地と言っていたが、それにしては珍しい形をした“墓石”だ。近くに行き確認してみたかったが、周囲を塀で囲まれていたため諦めた。次に行った「妙音弁財天」は御所東部の邸宅跡地付近にあり、境内に以下のような案内板があった。

本殿の本尊は、青龍妙音弁財天画像で西園寺寧子(やすこ)(大光明院殿・広儀門院)が、 第九十三代後伏見天皇の女后に輿入れされた折に、西園寺家第二伝の念持仏として持参さ れて以来、伏見離宮に祀られ、光巌(こうげん)、光明(こうみょう)、崇光(すいこう)天皇と伝承されてきた霊像である。

その後、享保年間、伏見宮家第14代貞建(さだたけ)親王に至って伏見邸が河原町今出川下がる出町北鴨口に移転され、同時に本尊も奉遷され、更に明治初年に東京へ遷座の後、 京洛の旧信徒のよる再三の請願によって、再び現在の地に堂宇を建てて奉安された。

世に伏見御所の弁財天と称され、「京都七福神」の一つとして、特に技芸上達、福徳円満の勝益(しょうえき)をもたらすものである。


 翌日は八坂神社を訪れ、神主さんに素戔嗚尊および牛頭天王について色々と問い合わせてみた。以前、さる筋から聞いた、亀さん家のルーツは鈴鹿市にあり、素戔嗚尊が深く関与するという話を思い出した。そこで、皇大神宮に皇祖神である天照大神を奉る伊勢神宮と、伊弉諾尊を奉る八坂神社とは、何か関係があるのかと神主さんに尋ねてみると、「天照大神(姉)と素戔嗚尊(弟)という、姉弟神社だ」という回答であったが、どうもピンと来ない。

ともあれ、亀さん家の遠祖が従事していた先が伏見宮家か同家に関係していた“組織”であると思われ、かつ亀さん家の直接の祖先が祭っていたのが素戔嗚尊であるとさる筋は言いたかったのだろう。

なお、直接の祖先が居たという綾部市は大江山に近く、あの大本(長生殿)がある。同市には綾部市資料館があり、戦国・室町の中世から江戸初期あたりまで(宝永年間以前)を調べる時には、貴重な情報源になりそうだ。

さらに遠祖を遡っていくと、最後は鈴鹿市の亀さん一族にたどり着き、そこから枝分かれした一派が隣の亀山市に移り、やがて綾部市に移動したのだろうと大雑把に推測している。その意味では、取り寄せた『鈴鹿市史』の第一巻(室町・戦国時代あたりまで記述)に十分に目を通した後、亀山市の『亀山地方郷土史』に進み、最終的には綾部市の『綾部市史』へと進んでみたいと思う。その間、さる筋が著した『家紋講座』と『古事記』は幾度か目を通す必要がありそうだ。

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八坂神社       

牛頭天王で思い出したが、先週の土曜日に用事があって上京した折り、久しぶりに本屋に寄って以下の本を入手した。

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『牛頭天王と蘇民将来伝説の真相』 長井博著

蘇民という言葉に接すると咄嗟に脳裏に浮かぶのが、丹波篠山で起きた未曽有の飢饉と酷税に蜂起する義民たちを描いた、黒須紀一郎の著した『天保蘇民伝』であるが、『牛頭天王と蘇民将来伝説の真相』と結びつくものがあるだろうか…。もし、何か感じるものがあったら、読後感を簡単に述べてみたいと思う。
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