前回の「落合秘史 1」では〝しらす〟について書いたが、『古事記』を偽書と思っている読者、あるいは伊藤哲夫著『教育勅語の真実』(致知出版社)等に未だ目を通していない読者の場合、いきなり〝しらす〟と書いたところで、何のことか分かっていただけないと思う。よって、落合秘史の要である〝しらす〟を理解してもらう意味で、もう少し『教育勅語の真実』から引用させていただこう。
漢学・洋学から国学へ 「うしはく」と「しらす」
こうした猛烈な国史古典研究の結果、井上はあることを突き止めます。それは『古事記』にある「しらす(しろしめす)」という言葉に込められた重要な意味でした。
これにはもちろん、きっかけがありました。『古事記』の中に出てくる大国主神の国譲りの一節に、たまたま井上の眼が向いたのです。
このエピソードは、高天が原の支配者であるアマテラスオオミカミ(天照大神)の命を受けたタケミカヅチノカミ(建御雷神・鹿島神宮の御祭神)が、出雲を治めていたオオクニヌシノカミ(大国主神)に「この葦原中国は本来、アマテラスオオミカミの御子が『しらす』ところの国であるから、この国を譲るように」と国譲りの交渉をするお話です。
その中の一説に、「大国主神が『うしはける』この地」と、「天照大神の御子が本来ならば『しらす」国である」という二つの謎の言葉が出てきます。そこで、井上はこの「うしはく」という言葉と「しらす」という言葉はどう違うのだろうか、という疑問を抱き、それを調べてみることにしたのです。
すると、天照大神や歴代天皇に関わるところでは、「治める」という意昧で「しらす」という言葉が使われ、大国主神をはじめとする一般の豪族たちのところでは「うしはく」という言葉が同様な意味で、使い分けられていることがわかったのです。二つの言葉は明確に違う使われ方をしていました。
では、この「うしはく」と「しらす」は、どこが違うのか?
井上は『言霊』という彼が書き残した文章の中で、こう説明しています。
「うしはく」というのは西洋で.「支配する」という意味で使われている言葉と同じである。すなわち、日本では豪族が私物化した土地を、権力をもって支配するというような場合にこれが使われている。
それに対し「しらす」の意昧は、同じ治めるという意昧でもまったく違う。「しらす」は「知る」を語源にしており、天皇はまず民の心、すなわち国民の喜びや悲しみ、願い、あるいは神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すように、わが心に写し取って、それと自己を同一化し自ら無にしようとされるという意味である。 『教育勅語の真実』p.77
そして、次小節の「天皇治世の要〝しらす〟の思想」(p.79)へと続き、冒頭で井上毅は以下のように結論づける。
〝しらす〟の理念こそが国体の根本である。
この〝しらす〟を理解すれば、落合莞爾著『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』の根底に流れているものも、やはり〝しらす〟であることに気づくのである。

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