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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
◆舎人家紋講座26(最終回)
「◆舎人家紋講座26」は、“●通説平城京の行政機構”と題する、26番目にして最後の小節である。実は、今までに栗原(茂)さんが執筆した「舎人家紋講座」の半分のみを公開したに過ぎず、まだ半分ほど残しているのだが、本シリーズの連載を開始した際にお断りしたように、後半は栗原さんをはじめとする舎人の個人情報を扱っているため、公開は控えさせていただこう。なお、舎人家紋講座を巡る記事は、次回以降から時折書いていくつもりなので、家紋に関心のある読者に目を通してもらえたら幸いだ。

●通説平城京の行政機構
 眼前(がんぜん)の家名と家紋を照らし合わせても、それが自身の生活に影響しなければ、たいした意味もない話がゆえに、ここでは生活に最も影響力を及ぼす存在に焦点を合わせる。幾ら足掻(あが)いても、通常の生活を支える究極の(きゅうきょく)保障(ほしょう)は国籍(こくせき)であり、その国籍に伴う戸籍(こせき)なくして自らの分量を(ぶんりょう)補完(ほかん)するものはない。つまり、現下の社会的構造を知らなければ、明日をも計(はか)れないのが現実であり、その現実は連続性に成り立っており、そこには必ず原型(げんけい)となる過去が存在している。それが歴史の重みであり、現下の社会的構造を探(さぐ)れば、そこに浮き出される通説の律令制は平城京である。
★神祇官(じんぎかん)は、神事(しんじ)・祭礼(さいれい)の際に祝詞(のりと)を唱(とな)えるが、それを文体(ぶんたい)にすると助詞(じょし)・助動詞(じょどうし)を万葉(まんよう)仮名(がな)で小さく記す宣命体に(せんみょうたい)なり、内容は『延喜式(えんぎしき)』の中に朝廷祭祀の祝詞27編(へん)が収録さ(しゅうろく)れ現代に通じている。また神前に供えるものは総称して幣帛(へいはく)というが、その型示しは布帛(ふはく)や神饌(しんせん)など日常生活に伴う教養の成果を奉(ほう)じている。
★布帛(ふはく)・神饌(しんせん)とは、前者が織(お)り込(こ)んだ布(ぬの)また絹(きぬ)の布地(きれじ)のこと。後者は稲、米、酒、鳥獣(ちょうじゅう)、魚介(ぎょかい)、蔬菜(そさい)、塩、水などのことで「みけ」と称した。
★祈年祭(きねんさい)は「としごいのまつり」と称したが、年初に五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈(いの)り、朝廷では旧暦二月四日に米、麦、粟(あわ)、豆、黍(きび)または稗(ひえ)の豊作と国家の安寧(あんねい)を祈願する政(まつりごと)のことをいう。★月次祭(つきなみさい)は「つきなみのまつり」と称したが、毎年六月と一二月に朝廷と伊勢神宮で行う政のこと、朝廷では、神祇官が畿内三〇四座の神の祝部(はふりべ)に祝詞を宣(の)り、班幣(はんぺい)つまり幣帛を配り、夜には天皇が中和院(ちゅうかいん)の神嘉殿(しんかでん)において、旧穀を(きゅうこく)神と共食す(きょうじき)る神今食(じんこんじき)を行い「かむいまけ」と称した。
★相嘗祭は(そうじょうさい)「あいなめのまつり」と称したが、毎年一一月の卯の日に、その当年(とうねん)の新穀(しんこく)を神に供える政のこと。
★新嘗祭は(しんじょうさい)「にいなめのまつり」と称したが、当年の収穫を感謝する政のこと、朝廷では毎年一一月一三日か二四日の何(いづ)れかに、天皇が新穀を神々に供えて収穫を感謝し、自らも食することで、国家の安寧と民の健勝を念じた。
★大嘗祭は(だいじょうさい)「おほにあへのまつり」と称しており、詳しくは拙著『真贋・大江山系霊媒衆』を参照されたい。

 これらの通説は必ずしも意を尽くしていないが、国家百年の大計という教育制度を司る政治の呼吸であり、その簡潔(かんけつ)きわまる型示しこそが政治の養分(ようぶん)なのだ。それを貪欲(どんよく)な体力増強こそが政治と勘違いし、結果、消化不良のメタボとダイエットを繰り返し、お粗末な政権たらい回しを行うのが太政官の体質を呪縛(じゅばく)している。冒頭(ぼうとう)すでに記しているが、人の生命メカニズムは呼吸と消化にあり、骨格(こっかく)を整えるのは呼吸であり、その骨(ほね)が造血(ぞうけつ)を行い消化機能を促す(うなが)のであり、幾(いく)ら食(た)べても養分を吸収し(きゅうしゅう)なければ意味はない。また食せ(しょく)ずにダイエットを行うなどは論外(ろんがい)である。

★太政官(だじょうかん)は「だいじょうかん」と称したが、前記および、その秘書部門の少納言局、(しょうなごんきょく)その事務・執行部門の左右弁官局(さゆうべんかんきょく)の三つで構成された。後(のち)これに中納言(ちゅうなごん)や参議(さんぎ)が加わるも朝廷自壊により、幕政傘下の辛酸(しんさん)を経(へ)たのち、大政奉還(たいせいほうかん)が起こり、明治維新で復活その亜流(ありゅう)が現在の仕組みに転じている。
★太政大臣は(だいじょうだいじん)、律令官制の最高責任者であるが、常任にあらず、有徳(うとく)の適格者(てきかくしゃ)がいなけば闕(か)(欠)けるも厭(いと)わないとした。
★左大臣(さだいじん)・右大臣(うだいじん)は、大化改新時に設けられ、令制で整備され太政官の政務を統轄、太政大臣が常置(じょうち)と限らないため、平素は左大臣を政府の最高官職としていた。
★内大臣(ないだいじん)は、中臣鎌足に任じられ、のち久しく置かれていないが、光仁天皇のとき復活し右大臣に次ぐ地位とされた。
★大納言(だいなごん)は、左右の大臣に次ぐ官職であり、天皇に近侍して庶政を議し、天皇への奏上や天皇宣下を担当これ定員四人を配した。
★中納言(ちゅうなごん)は、文武(もんむ)天皇のとき設置され大納言に次ぐ官職とされた。
★参議(さんぎ)は、文武天皇のとき置かれたが、正式な設置は聖武(しょうむ)天皇のときで、大臣・各納言に次ぐ重職で公卿会議に参加した。
★少納言(しょうなごん)は、太政官の秘書部門を管轄し、天皇の印(いん)・太政官の印を保管し、駅鈴(えきれい)の官吏と共に官吏任命や位を(くらい)授(さず)ける事務に働いていた。
★外記(げき)は、少納言管轄下の太政官書記局のこと、詔書、(しょうしょ)論奏(ろんそう)、太政官符(ふ)などの作成を担当その定員は大外記(だいげき)二人、少外記(しょうげき)二人が配置されていた。
★左弁官(さべんかん)(局)・右弁官(うべんかん)(局)は、太政官事務局として、左局は中務以下四省を、右局は兵部以下四省を事務的に統轄その文書を審査した。定員は左右それぞれ大中小弁官一人で配下の書記官に史((さかん)大史(だいし)と少史(しょうし))を置いた。
★公卿(くぎょう)は、太政大臣、左右の大臣、内大臣を公(こう)と称し、大・中納言、参議など階級が三位(さんみ)までの上級貴族を卿と(きょう)称し、両者を併(あわ)せて公卿その別称を上達部(かんだちめ)というが、参議以上は議政官(ぎじょうかん)とか現(見)任公卿(げんにんくぎょう)とも呼ばれた。
★貴族(きぞく)は、律令下の支配階層で階級が五位までを指すが、そのうち階級が三位以上の上級貴族を貴ともいい、中(四位)・下(五位)の下級貴族は通貴ともいわれた。
★八省と(はっしょう)は、太政官の下で働く政務分担機構をいうが、教科書では、中国の尚書省六部を(しょうしょしょうりくぶ)モデルに編成したと教えている。
★中務省は(なかつかさしょう)、天皇側近で臣下の上奏を伝え、その詔勅を起草する最重要の省とされた。
★式部省(しきぶしょう)は、文官の人事に携わり、学校などを司る省とされた。
★治部省(じぶしょう)は、喪葬(みもそう)・陵墓(りょうぼ)、雅楽(ががく)のほか、朝貢な(ちょうこう)どの外交も司る省とされた。
★民部省(みんぶしょう)は、戸籍、租(そ)・調・(ちょう)庸(よう)、田畑(たはた)を司り、国家財政を担う省とされた。租は田租(でんそ)ともいい、田地(でんち)に課(か)す税をいうが、上田一(じょうでん)段の公定収穫量72束(そく)に対し、2束(にそく)2把(にわ)だから3%に相当する。のち束を大きくして50束に対し1束5把とした。租は大部分が各国郡家(かっこくぐんけ)などの正倉に(しょうそう)貯蔵(ちょぞう)されたが、一部は春米と(しょうまい)して中央に送られ、中央官吏の食事を満たした。調は諸国産物のうち朝廷に納めるもの。絹(きぬ)、糸、綿(めん)、鉄、鍬(くわ)、海産物など品目34種が規定され正丁(せいてい)、次丁(じてい)、少丁の(しょうてい)各クラスに課す税で中央政府の主要財源とされた。庸は労働力提供を税に替える意味があり、それぞれ調に換算する方式がとられた。
★兵部省は(ひょうぶしょう)、武官(ぶかん)の人事や軍事を司る省とされた。
★刑部省は(ぎょうぶしょう)、刑罰や良賤の訴えを決する省とされた。
★大蔵省は(おおくらしょう)、出納や度量衡また物価を決する省とされた。
★宮内省(くないしょう)は、宮中の庶務一般を司る省とされた。

 以下これらに詳述を(しょうじゅつ)加える必要あるが、進化論を唱える筋(すじ)の決定的な間違いは、先駆(せんく)の仮定に拘る(こだわ)あまり、自らの発見こそ知性の力と勘違いし、仮定と仮説の置き換えに禍根(かこん)を遺(のこ)す点にある。たかが人独(ひと)りの歴史など知れたもの、流行(はや)り廃(すた)りに便乗す(びんじょう)るだけの仮説に惑(まど)わされ、歴史の根源(こんげん)を見誤(みあやま)る教育は現時の政治が証明している。人は酸素を養分として植物は炭素を養分とするが、それは生命メカニズムの原理原則に係(かか)る問題であり、顕著(けんちょ)な違いは色(いろ)の濃淡(のうたん)に関(かか)わってくる。その濃淡を子細(しさい)に観察のうえ、黒と白の無彩色(むさいしょく)に妙法を(みょうほう)見出(みいだ)したのが神格である。派手(はで)な色調を好(この)む文明と異なり、地味(じみ)な気風(きふう)を信条と(しんじょう)する日本文明の本義は、無彩色の濃淡を究(きわ)め神々を奉ずる豊(ゆた)かさに潜(ひそ)んでいるのだ。
★中宮職は(ちゅうぐうしき)、中務省に属し、太皇太后(たいこうだいごう)、皇太后(こうたいごう)、皇后(こうごう)(中宮)の総称を三后(さんごう)といい、その三后に関する事務を扱う官司((かんのつかさ)役所)をいう。
★主計寮は(しゅけいりょう)、民部省所管の官司をいい、調・庸の納税監査などを職掌と(しょくしょう)し、諸国の財政を管理する仕事が主体となる。なお、寮は(りょう)職(しき)に次ぐ官司の等級一つ。
★主税寮は(しゅぜいりょう)、民部省所管の官司で主計寮と並立し、諸国からの進上帳簿の(しんじょうちょうぼ)監査を行い諸国財政の管理にあたる。
★弾正台は(だんじょうだい)、太政官とは別に設置した役人の監査官(かんさかん)を指すが、嵯峨天皇(さがてんのう)時代に設置された検非違使(けびいし)の出現で実権を失うことになる。
★五衛府(ごえふ)は、内宮(ないくう)の中の警護(けいご)など主な任とする軍事組織であり、諸門守護(しょもんしゅご)と出入の(しゅつにゅう)検閲(けんえつ)を行う衛門府(えもんふ)のほか、小門警衛や(しょうもんけいえい)市中巡検ま(じゅんけん)た追捕(ついぶ)など担(にな)う左衛士府(さえじふ)・右衛士府(うえじふ)、内門(ないもん)また車駕(しゃが)を警衛する左兵衛府(さひょうえふ)・右兵衛府(うひょうえふ)の五つを指したが、のち近衛府(このえふ)が成立すると、左右の近衛府、左右の兵衛府、左右の衛門府の六つとなり、これも検非違使の設置以後は実権を失うことになる。
★左京職(さきょうしき)・右京職(うきょうしき)は、特別地域たる司法警察以下の庶政(しょせい)を司る官職をいい、朱雀大路(すざくおおじ)では左右に分かれて任にあたり、これも検非違使設置後に権限が縮小する。
★坊令(ぼうれい)は、条令ともいわれるが、条は四つの坊に分かれており、京職の下に置かれ、条内各所を司る官職を指した。
★市司(いちのつかさ)は、左右の京職に所属し、市の監督官庁を指すが、東西に設置された。
★摂津職(せっつしき)は、摂津国(せっつこく)の内政を担う官職で各国司(こくし)と変わらないが、聖武(しょうむ)天皇の難波宮(なにわぐう)そして難波津(なにわつ)が置かれたときは、外交上も重要なため京職に準じる職の設置が設けられた。
★太宰府(だざいふ)は、律令政府が九州に設置した出先機関であり、遠の朝廷(とおのみかど)ともいい、九国三島(きゅうこくみしま)の支配と外国使臣の(とつくにのしおみ)接待なども任じられ、その政庁は都府楼(とふろう)と呼ばれ、長官は太宰帥(だざいのそち)、次官は太宰大弐(たざいだいに)と呼ばれた。現在は福岡県太宰府市の史跡公園になっている。
★防人司(さきもりのつかさ)は、五畿七道(ごきしちどう)の一つ西海道(さいかいどう)を守る防人(さきもり)を支配する役所で太宰府に属する。
★畿内(きない)は、天子(てんし)の住む都を(みやこ)京師(けいし)といい、大和(やまと)、山城(やましろ)、摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)の五ヶ国が畿内で五畿といわれ、畿内の課丁(かてい)(課役(かえき)の負担者)は調が半分また庸は不課(ふか)(負担なし)という優遇措置(ゆうぐうそち)が敷(し)かれた。
★七道(しちどう)は、古代の行政区で東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の各街道を総称し、畿内を除く各国は、この何れかに属して都を起点とする主要幹線道路とされた。
★三関(さんげん)は、都で(みやこ)謀叛(むほん)を企て(くわだ)た者の東国方面(とうごくほうめん)への逃亡(とうぼう)を防止(ぼうし)したり、外敵(がいてき)の都への侵入な(しんにゅう)ど防(ふせ)ぐために設けられた関所(せきしょ)のこと。前記のほか、天皇や上皇の譲位(じょうい)あるいは崩御(ほうぎょ)などある場合には、固関使(こげんし)を遣(つか)わし、三関を警護する固関の儀(ぎ)が行われる。その三つとは東海道の伊勢国(いせのこく)(三重県)鈴鹿関(すずかのせき)、東山道の美濃国(みののこく)(岐阜県)不破関(ふわのせき)、北陸道の越前国((えちぜんのこく)福井県)愛発関(あらちのせき)とされたが、のち愛発関は近江国(おうみのこく)(滋賀県)逢坂関に(おうさかのせき)変えられた。

 大和(やまと)(奈良)平城京に栄えた興福寺(こうふくじ)は、北近江(きたおうみ)(滋賀県)山階寺(やましなてら)(鎌足(かまたり)の寺)が前身で不比等(ふひと)が移し藤原の氏寺(うじでら)とされた。同じ領域の東大寺(とうだいじ)(華厳宗大本山(けごんしゅうだいほんざん))は、総国分寺(そうこくぶんじ)とも称され、広大な荘園を(しょうえん)持つ天下三戒壇(てんかさんかいだん)の一つで知られる。弥生前期~後期の遺跡(いせき)で最大級環濠(かんごう)集落といわれるのは、唐古(からこ)・鍵(かぎ)地区(田原本町(たわらもとちょう))にあり、前期の古墳郡(こふんぐん)では、纏向(まきむく)や箸墓(はしはか)(桜井市)が、また飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)(高市郡明日香村)周辺には、板蓋宮((いたぶきのみや)蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺場所で皇極天(こうぎょく)皇の皇居)、浄御原宮(きよみはらのみや)(天武(てんむ)天皇即位の遷宮(せんぐう)場所)、飛鳥寺(あすかでら)(蘇我馬子(そがのうまこ)建立別称法興寺(ほうこうじ)ともいう)、山田寺(やまだてら)(蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)建立)、高松塚古墳(たかまつづかこふん)などある。他に斑鳩(いかるが)の法隆寺(ほうりゅうじ)、旧藤原京の橿原宮、(かしはらのみや)信貴山(しぎさん)の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)(平群町(へぐりちょう))、女人高野(にょにんこうや)の別称もつ室生寺(むろうじ)(宇陀郡室生村(うだぐんむろうむら))など、まさに大和は国の真秀間(まほらま)(まほろば)これ体認すべし。
★国(こく)・郡(ぐん)・里(り)は、律令下の里は50戸、郡は2~20里、国は数郡で編成しており、国の遷り変わりは激しく起こり、淳和(じゅんな)天皇時代に66国2島に固定するも、郡は約六〇〇に及び里は約四〇〇〇にまで達している。そして、国は大・上・中・下の順で四つに分けられ、郡は大・上・中・下・小の順で五つに分けられた。因みに、大化改新以降から大宝令施行(だいほうりょうしこう)(七〇一)までの地方行政組織は、評((ひょう)こおり)と呼ばれており、各地に派遣された惣領下に旧来の国造が組み込まれ、その従来の支配地「クニ」が分割などされている。大化以前の倭国六県とは、高市(たかち)、葛城(かつらぎ)、十市(といち)、志貴(しき)、山辺(やまのべ)、會布(えのふ)の六つを指し、天皇へ蔬菜など献上奉納する直轄領とされていた。大化元年は東国とともに、人口や田地を調査する遣使(けんし)らが出向いており、のち評が(こおり)郡に改字されるまでは、長官を評督(こおりのかみ)または評造(こおりのみやつこ)といい任は国造などに与えられている。また里(り)も後(のち)に郷(ごう)と改められ里長(さとおさ)は郷長とされている。
★国司(こくし)は、中央政府から派遣される地方官で一国の民政・裁判を司るが、守(かみ)(業務統括の長官(かみ))・介(すけ)(補佐役の次官(すけ))・尉((じょう)官司内の非違検察(ひいけんさつ)と文書審査の判官(じょう))・目((さかん)文書作成を行う主典(さかん))の四等官(しとうかん)に分かれ、任期六年に始まり、のち四年に短縮されている。定員は国の大小で差が生じており、国司以外の四等官は官司((かんのつかさ)役所)ごと違う文字を使い、その制度を四等官制と呼んでいたが、漢字がルビの証でもある。
★神祇官四等官の文字は伯(かみ)・副(すけ)・祐(じょう)・史(さかん)と書き、八省四等官は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、八省下寮(かりょう)の四等官は頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)、五衛府の四等官は督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)、太宰府の四等官は帥(そち)・弐(に)・監(げん)・典(てん)、鎮守府(ちんじゅふ)の四等官は将軍(しょうぐん)・副将軍(ふくしょうぐん)・軍監(ぐんげん)・軍曹(ぐんそう)と書いた。
★国府(こくぶ)は、諸国の役所と所在地を指し、国衙(こくが)は国司が政務や儀礼を行う国庁で(こくちょう)役所群、倉庫群、国司の館な(やかた)どからなり、近くに国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)、総社(そうじゃ)、国府津(こうづ)など置かれた。
★郡司(ぐんじ)は、国司の下で郡の民政・裁判を司るが、その四等官は大領・(だいりょう)少領・主政(しゅせい)・主張と(しゅちょう)呼ばれ、旧来の国造ら在地豪族が任命され終身官とされた。また郡衙(ぐんが)は郡家(ぐうけ)と呼ばれ、郡司が政務や儀礼を行う郡庁のこと、正倉や館などあり、その下の里長(郷長)は税の取り立てなどを主な職務とした。
★官人(かんじん)は、官吏(かんり)一般を指すが、狭義(きょうぎ)には官位相当をもつ諸司(しょし)の主典(さかん)以上を指し、広義(こうぎ)には諸司の史生(ししょう)(書記)など雑任(ぞうにん)と呼ばれた下級官吏まで含まれる。ただし、天皇の后妃(こうひ)らが住む後宮((こうきゅう)宮中の殿舎)に仕(つか)える女性は、女官(にょかん)という制度のもと区別されている。
★位階(いかい)は、序列を示す等級で諸王・諸臣に与えられ、聖徳太子以来の冠位制は律令時代に30階となり、正一位(しょういちい)から従三位(じゅさんみ)まで6階、正四位上か(しょうよんいのじょう)ら従八位下(じゅはちいのげ)まで20階、大初位上か(だいそいのじょう)ら少初位下まで4階とされており、親王(しんのう)は一品(いっぽん)から四品(よんほん)まで4階の品階(ほんかい)が設けられた。
★蔭位の制(おんいのせい)は、位階五位以上の蔭子(おんし)をいい、同三位以上の孫は蔭孫(おんそん)といい、成人二一歳に達すると、父祖の位階に伴い一定の位に就く制度で上級貴族の独占を生じている。

 上代の五畿は前記の通り、大和(やまと)(奈良県)、山城(やましろ)(京都府)、摂津(せっつ)(兵庫県と大阪府の主要拠点地域)、河内(かわち)(大阪府)、和泉(いずみ)(大阪府)であるが、平城京が平安京(山城)へ遷都(せんと)やむなき状況に至るプロセスには、通説の史観を鵜呑(うの)みにできない問題があり、これ安易(あんい)に見過(みす)ごすがゆえ、現在の歴史教育も歪(ゆが)みを正せないのだ。たとえば、皇紀暦(こうきれき)の成立元年をめぐり、大和説と九州説があり、騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)などに拐か(かどわ)されれば、支那を長男とし、朝鮮を二男(じなん)に準え(なぞら)日本を三男(さんなん)とする、莫迦(ばか)げた作り話を尤も(もっと)らしく考える幻想(げんそう)空間も生じ(しょう)てこよう。文献史家(ぶんけんしか)の粗末(そまつ)に共通するのは、もとより、ロードマップに対する設計に閃き(ひらめ)が欠けており、ほとんど生命のメカニズムに無知であること、アダムとイヴが戯れ(たわむ)るエデンの園(その)に憧れ(あこが)たり、何でも十把一絡げ(じっぱひとから)にしたがる性癖(せいへき)が見られる。氏姓鑑識に家紋との合一性が不可欠な要素とは、そうした罠(わな)を透(す)かす先見性(せんけんせい)の手続きがあり、基礎的条件に見合う必須の閃きを誘(さそ)い出すエネルギーがあるのだ。
★封禄(ほうろく)は、位階に伴う給与のこと。三位以上は位封(いふ)として封戸(ふこ)が、四位と五位には位禄(いろく)として布と綿が、加えて五位以上には位田(いでん)が給さ(きゅう)れた。位田は正一位80町~(ちょう)従五位8町まで段階があり、初めは輸租田(納税義務ある田)であったが、次第に私有化され高位者には大きな収入源となる。食封(じきふ)は皇族、上級貴族、寺社などに封戸(ふこ)一定数が納める、調・庸の全部および租の半分が支給され封主(ふしゅ)と呼ばれていた。改新の詔には、上級官人に食封また下級官人に布帛を与える規定があり、天武朝の改革さらに大宝令で整備され、位封、職封(しきふ)、寺封(じふ)、神封(しんぷ)などの制度が生じた。
★資人(しじん)は、上級貴族の位階・官職に応じて給される供人(ともびと)のこと。また親王と内親王へ給付手当てされるものを帳内といい、この資人・帳内と天皇を警衛するのが大舎人(おおとねり)・内舎人(うどねり)で総称を舎人と称した。
★職田(しきでん)は、官職に応じて与えられる田のこと。大臣・大納言などの高級官僚、太宰府官人、国司・郡司などの地方官に与えられ、大部分は不輸租田だったが、郡司レベルの地方官は輸租田とされている。
★班田収授法は(はんでんしゅうじゅほう)、男女六歳以上に口分田(くぶんでん)を班給す(はんきゅう)る制度のこと。条里制(じょうりせい)では、長さ一町が(いっちょう)60歩(ぶ)で約109メートル、面積一町四方が10段(だん)で三六〇〇歩、長さ一歩は約1.8メートル、同様面積一歩は約3.3平方メートルに換算する。戸籍の作成を造籍(ぞうせき)といい、造籍は六年ごと行う籍年(せきねん)を設け六年一造(ろくねんいちぞう)といい、その造籍に基づき班田も籍年の翌年(班年)に実施、それを六年一班といい、良男二段(一段360歩)とし、良女その三分の二(一段120歩)と定められ班給した。なお口分田は終身使用できる田のこと。条里制は後述する。
★公民(こうみん)とは、正規の課役負担者をいい、戸籍は男女を年齢区分し、一~三歳を緑、(りょく)4~16歳を小、(しょう)17~20歳を少、(しょう)21~60歳を丁(てい)、61~65歳を老(ろう)、66歳以上を耆(き)と分けている。うち丁が正規の課役負担者で男を正丁(せいてい)・女を丁女(ていじょ)といい、これに次ぐのが老と少その呼び名は老丁(ろうてい)が次丁(じてい)、少丁が(しょうてい)中男と(ちゅうなん)称した。課役負担の割合は正丁を1とするとき、次丁は約二分の一、中男は四分の一とされている。
★戸籍(こせき)(住民基本台帳)は、六年一造の規定、戸口の名・続柄・性別・年齢・課不課の別などを記載のうえ、五比(30年)の間、保存された。現存最古の戸籍は正倉院所蔵にある美濃、筑前、豊前、豊後の国の大寶元年(たいほう)(文武天皇)もの、養老五年(ようろうごねん)(元正天皇)(げんしょうてんのう)の下総国戸籍とされる。税徴収の台帳は計帳と(けいちょう)いい、神亀元年(じんきがんねん)(聖武天皇)の近江国志何郡(しがぐん)ものが現存最古といわれ、神亀三年(同)の山背国愛宕郡出雲郷(やましろのくにおたぎぐんいずもごう)ものも知られ、戸籍とあわせ籍帳ともいう。郷戸(ごうこ)は行政組織の最末端に編成された戸籍で班田や課税負担の単位を示す貴重(きちょう)な史料であり、戸主(こしゅ)の親族にかぎらず、異姓(いせい)の寄口(きこう)や奴婢(ぬひ)を戸口(ここう)に含んでおり、房戸(ぼうこ)複数の編成が組まれているからだ。なお郷戸一成員25人程度が普通という。

 山城(京都府)恭仁京(くにきょう)(相楽郡(そうらくぐん))は、聖武(しょうむ)天皇四年間の遷都先(せんとさき)とされるが、事由は藤原広嗣(ひろつぐ)の乱などの政治的不安、次に摂津(大阪府)難波宮(なにわぐう)(中央区法円坂(ほうえんざか)の孝徳(こうとく)天皇の長柄(ながえ)豊碕宮(とよさきぐう)跡地)へ遷(うつ)り、さらに離宮(りきゅう)の紫香楽宮(しがらきのみや)(滋賀県甲賀市)造営それらを経て平城京還幸(かんこう)という足跡が知られる。また山背国乙訓郡(やましろこくおとくにぐん)(向日市(むこうし))長岡京は、桓武(かんむ)天皇遷都(せんと)の地と知られ、和気清麻呂(わけのきよまろ)の献言(けんげん)で平安京(葛野郡宇太村(かどのぐんうだむら))へ遷都したとされる。奈良と大阪の県境に位置する二上山(にじょうざん)は、玻璃質(はりしつ)(ガラス状)安山岩(あんざんがん)(讃岐石(サヌカイト))を多く産出するが、石器石材として最もよく用いられ、名称は讃岐国(さぬきこく)(香川県)白峰山(しらみねやま)が最大の多産地にあるため由来する。河内(大阪府)は二上山のほか、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)(羽曳野市(はびきのし))が知られ、古市(ふるいち)古墳群の中心的存在であり、百舌鳥古墳群(もづこふんぐん)(堺市(さかいし))中心の大仙陵に(だいせんりょう)次ぐ規模で応神(おうじん)天皇の大前方後円墳(だいぜんぽうこうえんふん)とされる。なお摂津に食い入る兵庫県の領域は神戸市(こうべし)と伊丹市(いたみし)をいい、源平(げんぺい)騒動(そうどう)の際に平清盛が(たいらのきよもり)別荘地(福原)へ遷都した話が知られる。
★大別二階級(たいべつにかいきゅう)は、律令上の良と(りょう)賤(せん)の階級制をいう。良は位階をもつ貴族と官人、公民ほか品部(ともべ)と雑戸(ざつこ)を指すが、品部・雑戸は実際上が中間に位置しており、賤は陵戸(りょうこ)、官戸(かんこ)、家人(けにん)、公奴婢(くぬひ)、私奴婢(しぬひ)で五色(ごしき)の賤ともいわれた。調庸負担(ちょうようふたん)の公民は、班田農民(はんでんのうみん)・白丁(はくてい)・百姓と(ひゃくしょう)も呼ばれるが、諸々(もろもろ)の官司に隷属(れいぞく)し、手工業中心に(しゅこうぎょうちゅうしん)特殊な技芸労務を義務づけられた集団は雑色人(ぞうしきにん)と総称され、律令上は良民でも差別の対象とされ、後(のち)の戸籍解放あるまで差別から免れなかった。陵戸(りょうこ)は天皇家の陵墓を守護。官戸は官司の(かんのつかさ)諸役に駆使(くし)され、官人・良民の罪過者(ざいかもの)などの構成で一家は構えられた。家人は私有の賤でも戸(こ)をなす生活が可能で売買は免れた。公奴婢は官有の奴隷(どれい)で中央官庁の雑役(ざつえき)に使われ戸の形成は許されない。最下位の私奴婢は各氏の私有で経営拠点の宅(やけ)に隷属(れいぞく)し売買され、男は奴、女は婢と呼ばれた。
★条里制(じょうりせい)とは、土地区画制のこと。四方6町は360歩で約654メートルに相当し、南北に一条、二条、……、東西に一里、二里、……、と称し、何条何里と表示した。そのうえ一区画を36等分し坪と呼び、坪の数え方には、千鳥式坪並(ちどりしきつぼなみ)(蛇行式(だこうしき))と平行式坪並(並行式)とが用いられ、一町すなわち約109メートル四方の坪を10等分して一段に分けており、長池型(ながちがた)は一段を6歩×60歩とし、それを横10列に並べるが、半折型(はおりがた)は一段を12歩×30歩とし、それを横5列×2に並べており、現在は長池型が優勢と推定されている。
★租(そ)は、民部省の項に記したが、諸国正倉に貯蔵された官稲(かんとう)中にあり、最も代表的な税を正税と呼ぶも、本来、官稲には田租(でんそ)に由来する大税(たいぜい)と、出挙(すいこ)の本稲(ほんとう)や利稲(りとう)に由来している郡稲(ぐんとう)などの区別が設けられていた。聖武天皇時代の官稲混合で両者一本化され、正税との呼称が生まれ、官稲は、正税、公廨稲(くがいとう)、雑官稲という三本立てになる。
★出挙(すいこ)は、春に稲を貸し付け、秋に回収する利息付き貸与のこと。公私の別があり、正税出挙(公出挙(くすいこ))は元々が貧民救済を目的としたが、次第に強制的な租税化となり、出挙の利稲は国衙運用の重要財源になる。利率は公出挙5割、私出挙(しすいこ)10割程度という。
★義倉(ぎそう)は、凶作に備え毎年粟などを出させ、それを貯蔵した制度のこと。粟の負担額には戸の等級で差がつけられたという。
★調・(ちょう)庸(よう)も前記したが、調は正丁の半額が次丁、その半分が中男に課せられ、庸とともに中央政府へ運ばれ、正規の調に加えて染料など副も徴されたという。庸は正丁に歳役(さいえき)10日分として麻布2丈6尺を出させ、その半分を次丁とし、中男と畿内は免除している。
★歳役(さいえき)(労役)は、養老令に力役(りきやく)負担があり、正丁は年間10日で次丁は半分、中央で働く制度も実際は大部分が庸布を納め、それを政府は両替して土木事業を行ったという。
★雑徭(ぞうよう)は、農民を年間60日限度で労役に使役できる国司の権限。道路、池堤(ちてい)の修築などの公用ほか、国司の私用にも流用したため、のち30日ふたたび60日また30日と変わる。

 碁盤目状(ごばんめじょう)の土地区画制度(古代の都城(みやこのじょう))に条坊制が(じょうぼうせい)あり、内(うち)は東西南北すべて四町すなわち約530メートルごとの大路(おおじ)で区画しており、その一区画を坊(ぼう)といい、左右の京内を(きょうない)何条何坊の形で表示していた。さらに坊は東西南北とも小路(こうじ)三本ごとに16区分され、その区分一つを坪(つぼ)(町)と呼んでいた。左京(さきょう)に東市を(ひがしのいち)、右京(うきょう)に西市を(にしのいち)設(もう)け、市司に(いちのつかさ)よる管理が施(ほど)されたのは平城京も平安京も同じであり、正午に開かれ、日没に閉じられたが、これら以外にも軽市((かるのいち)奈良県橿原市)や海柘榴市(つばいち)(同桜井市)も設けれていた。奈良時代の都は(みやこ)寧楽(なら)と書くこともあり、平安遷都後は田畑に変えられたが、外京付近の大寺院を中心に南都(なんと)の呼称が使われ、中世に門前町が形成され、座(ざ)と呼ぶ商工業も栄(さか)えだすと、筆墨(ひつぼく)ほか奈良晒し(ならさらし)を産(さん)するようになり、江戸時代には幕府直轄領にされている。平城京下の官道(かんどう)は第一等級の大路(おおじ)が山陽道、第二等級の中路(ちゅうろ)が東海道と東山道、第三等級の小路(こうじ)が北陸、山陰、南海、西海の各街道で駅路(えきろ)と伝路(でんろ)に結び付いていた。駅制(えきせい)は都と(みやこ)地方国府を結ぶ駅路約16㎞ごとに駅家(うまや)を置き、駅鈴(えきれい)の保有を許された駅戸(えきこ)が配(はい)され、公的に管理された。
★熟田は(じゅくでん)、耕作できて収穫ある田をいうが、輸租田(ゆそでん)、不輸租田(ふゆそでん)、輸地子田(ゆじしでん)、などの区別があり、輸租田には位田(いでん)、功田(こうでん)、賜田(しでん)、墾田(こんでん)など納税義務ある田のことを指していう。
★位田(いでん)は前記したが、功績者には大中上下の四等級に伴う功田が与えられ、大功田は永久私有で世襲も認められたが世代数に差も生じている。賜田は高位高職者へ恩勅が規定外に降され賜る土地で荘園成立の要因となる。墾田は本来公有であるが、未開地を開墾のうえ得る田地で聖武天皇時代に私有が認められ不輸租田化していく。免税の不輸租田には神社用に充(あ)てる神田(しんでん)、寺院用に充てる寺田(じでん)は寄進や開墾の急増を促すことになる。
★乗田は(じょうでん)、輸地子田また公田(こうでん)ともいい、田地のうち、位田、職田(しきでん)、口分田などに班給し(はんきゅう)た残りの田で乗は余剰(よじょう)の意味をもち、地子(じし)(賃料)をとる賃租(ちんそ)の意味も伴っている。
★賃租(ちんそ)は、乗田や初期荘園(しょきしょうえん)、位田、賜田など期限付きで貸し賃料をとることをいう。期限は原則一年で収穫の五分の一程度といわれ、春の耕作前に支払うのが賃、秋の収穫時まで賃料を待つのが租といわれる。
★初穂儀礼(はつほぎれい)は、収穫後に初めて神前に稲穂(いなほ)(初穂)を供える儀礼のこと。これを租や贄(にえ)の制度を興(おこ)す起源(きげん)とする説が有力とされている。
★贄(にえ)は、天皇が行う儀礼に貢納(こうのう)する食料品一般をいうが、稲穂のほか、魚介や海藻、鳥獣まで自然に対する畏怖、感謝の念を込めている。
★宅地(たくち)とは、令に(りょう)規定された居住用地で私有権の性格が強いために、売買も相続も可能で蔬菜(そさい)や桑(くわ)などを植える園地(そのち)ともされた。
★兵役(へいえき)は、正丁三~四人に一人の割合で兵士となり、各地軍団で交代服役する義務がある制度のことをいう。服役中は武事の訓練ほか、倉庫や関所の守備、犯罪者の追捕や護送に当たり、一部は庸や雑徭(ぞうよう)の免除のため、衛士(えじ)や防人(さきもり)になる者もいたが、食糧・武装は自弁するのが原則とされていた。
★軍団(ぐんだん)は、諸国に設置された兵士の集団をいい、管内の兵士は交代で勤務、地方豪族出身軍毅(ぐんき)が指揮した。桓武(かんむ)天皇時代これら軍団制は陸奥(むつ)、出羽(でわ)、佐渡(さど)、太宰府(だざいふ)の管内辺境地(へんきょうち)を除き廃止、その代わりは健児(こんでい)に引き継がれた。

 以上★印の(ほしじるし)要略は、全国歴史教育研究協議会編『日本史B用語集』改訂版に述べられる記事を整えて、現下の大学受験に要する認識を示したが、この程度の知力しかない信徒が現在進行形の経世済民(けいせいさいみん)を担(にな)うのだから、国土(こくど)が枯(か)れ、水や空気を売買するのも当たり前の世(よ)となる。記紀を教科に組み込まないまま、皇紀暦と日本文明の成り立ちをぼかし、外(と)つ国(くに)の制度を真似(まね)たかのように、似非教育を施せば、宜(むべ)なるかなとも思えるが、まほろばに根ざす大和の神髄はそんな柔(やわ)ではない。政体構造がいかなる様変(さまが)わりを見せようと、万世一系の国体は変わらず、聖地に根ざす潜在力は決して失われない。
 植物に見られる突然変異も人の発想であり、日本史歪曲の(わいきょく)思想もキメラ・マウスと同じ果樹(かじゅ)栽培(さいばい)の繁殖法ゆ(はんしょくほう)えに、単なる千切り取りは自然に駆逐(くちく)される。ここに家紋講座の真価本領があり、個々のコミュニティーが、自ら拠(よ)って立つ生活基盤の形成に励(はげ)めば、時勢(じせい)が勝手に衰え(おとろ)ようと、競わず争わず、必ずオピニオン・リーダーは生まれる。それら理由を以下六行の余白(よはく)に書くよう舎人の宿題とする。
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コメント

亀さん
栗原様の「舎人家紋講座」のご掲載、ありがとうございました。感謝致します。

未だ全てに目を通させては頂いていない状態ですが、本稿には巷間の書物では決して考察することも認識することもできない、非常に深遠かつ豊穣な内容を孕んでいるであろうことを感じます。自身の知見と洞察力を一層真剣に錬磨しなければ、本稿を理解することは困難であることを自覚させられる一方、膨大な植物に関する論考からは、本当の意味での「宇宙と人間の連関」というものを思考する契機を頂いております。

栗原様のご著作と致しましては「真贋・大江山系霊媒衆」も繰り返し拝読させて頂いておりますが、日本に生きる人間としての無限の可能性を感得するための大切な書として、今後も読み込んで行ければと思います。
[2013/06/18 15:25] URL | tantan #- [ 編集 ]

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
tantanさん、コメントありがとうございました。

栗原茂稿の「舎人家紋講座」、取り敢えず一般公開できる範囲の公開が終わりました。今後は「舎人家紋講座」の後半部について、小生が進めているルーツ探しと絡め、時々書き連ねていきますが、栗原さんの「舎人家紋講座」と比較すれば、迫力のないことおびただしいものがあると思います。その点、予め御承知おきください。無論、栗原さん本人が時折語って聞かせてくれる、家紋の話も織り込んでいくつもりです。

未だ、栗原さんの未公開の文書が大量に小生の手許にあります。最近まで『みち』に掲載されていた「アッシリア文明史論」はいずれ刊行されると思うので公開はできないものの、それ以外で一般公開出来そうなものがあれば、大勢の読者に一読してもらうべく、順次公開していきたいと思います
http://michi01.com/kurihara/assiria_index.html

今後ともよろしくお願い申し上げます。
[2013/06/18 17:50] URL | 亀さん #FlJCcfGk [ 編集 ]


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