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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
◆舎人家紋講座25
「◆舎人家紋講座25」は、“●通説の律令国家成立”と題する25番目の小節である。

●通説の律令国家成立
大化改新(たいかのかいしん)は乙巳(いっし)の変に端を発するが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇(てんじてんのう))と中臣鎌足を(なかとみのかまたり)中心に蘇我氏打倒を果たすと、氏姓制度の弊(へい)を打破(だは)し、唐(とう)の律令制を基(もと)に天皇中心の中央集権国家の建設を目指したという。改新後、鎌足は内臣と(うちつおみ)なるが、その職掌は(しょくしょう)令制にないため、天智天皇の下で重要政務を協議のちの内大臣(ないだいじん)かといい、臨終に際しては、天智天皇から大織冠(たいしょくかん)と藤原の姓を賜るとされる。旧豪族の長老阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が左大臣に、右大臣には蘇我入鹿(そがのいるか)の孫石川麻呂(いしかわまろ)が就くが、異母弟の讒言で自殺に追い込まれる。高向玄理と(たかむこのくろまろ)旻(みん)は渡来の子孫で前者は遣隋(けんずい)留学生のち遣唐使(けんとうし)となり、後者は学僧(がくそう)として隋・唐に留学しており、共に政治顧問となり、唐の諸制度を輸入のち国博士(くにのはかせ)と呼ばれた。改新後、諸国の国学教官は国ごと一人任命され国博士と称する。天智天皇の大友皇子(おおとものみこ)は太政大臣と(だいじょうだいじん)なり、近江(おうみ)に朝廷を肇も(ひらく)大海人皇子(おおあまのみこ)(天武天皇(てんむてんのう))と対立し、天皇崩御の翌年、壬申(じんしん)の乱で破れ自殺という。吉野を発つ天武天皇は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位すると、皇族を重用する八色の姓(やくさのかばね)を制定、また新冠位48階を定め、国史の編纂に着手した。これ皇親政治と称している。
★八色の姓(やくさのかばね)とは、真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連、(むらじ)稲置(いなぎ)の身分(位)を天皇から賜姓される制度であるが、実際は道師以下の賜姓はないという。
★真人(まひと)は、第26代の継体天皇(けいたいてんのう)から五世以内に入る大王家子孫を指すが、旧姓が(きゅうせい)君(公(きみ))の姓(せい)を称していた者に限られた。
★朝臣(あそみ)は、天皇あるいは皇子の子孫でも、疎遠(そえん)な皇別(こうべつ)と考えられていた臣の姓氏族(せいしぞく)に限り授与された。
★宿禰(すくね)は、神々の子孫とされる神別(しんべつ)から、連の(むらじ)姓氏族に限り授与された。
★忌寸(いみき)は、国造で直の姓氏族にあたるものと、渡来系の有力氏族に授与された。
★道師(みちのし)は、授与の例が見当たらないと不詳(ふしょう)にされている。
 教科書では、天皇、現人神(あらひとがみ)、皇后、皇太子(東宮(とうぐう))、日本などの呼称を正式に使い出す時期とは、天武朝(てんむちょう)と考えられるとしている。また天香具山(あめのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の大和三山(やまとさんざん)に囲まれた聖地の造営は、天武朝に始まり、持統天皇(じとうてんのう)が完成させたといい、このころ法相(ほっそう)宗創設の道昭が(どうしょう)初めて火葬(かそう)(七〇〇)されたことにより、のち貴族層に広まり、古墳文化は急速に消滅したともいう。さて律令の律(りつ)は刑法を指しており、令は(りょう)行政法や民法のことを指すが、律令官制は太政官と(だいじょうかん)神祇官(じんぎかん)を最高官庁とする。とはいえ、太政大臣、(だいじょうだいじん)左右大臣や大納言(だいなごん)などの公卿(くぎょう)(議政官(ぎじょうかん))で成る国政審議部門を網羅(もうら)する太政官部門に対して、神祇(じんぎ)官部門は祭祀(さいし)を司るだけの如く同列と見ていない。さらに、大嘗祭は(だいじょうさい)天武・持統朝ころから開始されたと考えられる、という教育現場の実態を鑑み(かんが)れば、如何(いか)に認知症(にんちしょう)の似非(えせ)教育が現下の社会一般に浸透(しんとう)しているかの証左(しょうさ)ともなる。

 皇紀(こうき)二五二八年(明治元年)、開国の思潮(しちょう)に漂流し(ひょうりゅう)たときでさえ、太政官制(だじょうかんせい)は翌年二官(にかん)六省制に改められ、神祇官は教部省((きょうぶしょう)神祇省)→文部省へと移り変わるなか、学校制度は国家百年の大計(たいけい)と位置付けられ、寺社(じしゃ)部門は内務省(ないむしょう)に組み込まれたのだ。これさえ粗末(そまつ)な政策でしかないが、肝心(かんじん)なのは教育が百年の大計ということ、教育現場が自ら国家の原理原則たる歴史を歪(ゆが)めて何とする。似非を見抜けないまま、進学率向上に狂う政策に生じる結果は、現下のサギ社会が証明するところで言うまでもあるまい。現存する皇紀暦(こうきれき)および万世一系(ばんせいいっけい)これ皇統譜(こうとうふ)に遵え(したが)ば、神格天皇は競わず争わず、競い争うのは神格を奉じる偽装(ぎそう)政権の為(な)せるところ、その歴史を究(きわ)めず何で教育といえるのか。もとより人格の内奥(ないおう)では善悪葛藤(ぜんあくかっとう)のダブル・スタンダードが働いており、共時性を伴う場の歴史が乱れるとき善悪葛藤は、第三局も在(あ)ることを察知(さっち)するのが閃き(ひらめ)であり、このとき問題となるのが、普遍(ふへん)の心がけで要諦(ようてい)はひとえに不断(ふだん)の禊祓を(みそぎはらへ)欠(か)かさないことに尽(つ)きるのだ。
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