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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
◆舎人家紋講座24
「◆舎人家紋講座24」は、“●通説の氏姓制度”と題する24番目の小節である。

●通説の氏姓制度
皇紀暦(こうきれき)以前の年代記(ねんだいき)を読む前に要するのは、世界各地の遺跡(いせき)情報を知ること、遺跡発掘(はっくつ)研究が遅(おく)れている支那においては、偽書混淆(ぎしょこんこう)の文明記録を誇(ほこ)るが、皇紀元年頃は春秋戦国時代に当たり、来日の移住も盛んとなり、不飽和状態(ふほうわじょうたい)の日本に飽和をもたらし、大いなる迷惑を及ぼしたことは疑いあるまい。ここでは、支那文献の渉猟に(しょうりょう)迷い込んで飽和状態も透(す)かせない時空は省(はぶ)いて、同じ通説でも氏姓制度を述べる段に歩を進めたい。以下通説は全国歴史教育研究協議会すなわち全国高校で使う教科書を参考とするが、その理由は大学受験の基礎とされるため、日本社会の実相を知るには、似非教育下に巣立つ信徒の位相を知る必要があり、それを改良しなければ、日本の未来に期待は託せないからだ。
 国土統一は西暦四世紀ころ、以後、律令国家(りつりょうこっか)成立までは、大王家(おおきみけ)を中心に諸豪族の連合政権で運営され、これを大和王権(やまとおうけん)また大和朝廷(やまとちょうてい)という。初め王(きみ)と呼ばれた首長は五世紀に及ぶころ大王(おおきみ)と呼ばれるようになり、七世紀後半の天武天皇の頃から天皇の称号が使われ出したという。倭(わ)の五王(ごおう)を記す支那『宋書(そうしょ)』の訳し方では、讃(さん)を仁徳(にんとく)、応神(おうじん)、履中(りちゅう)の歴代天皇の何れかに比定しており、以下同様に珍(ちん)(彌(み))は反正(はんぜい)か仁徳、済(せい)は允恭(いんぎょう)、興(こう)は安康(あんこう)、武(ぶ)は雄略、(ゆうりゃく)の諸天皇に当たるという。氏姓制度は大和政権における政治・社会制度、大王家を中心に中央・地方の豪族を支配下に組み入れるため、政治的身分秩序を設けたという説き方が採られている。それは、氏(うじ)、姓、(かばね)豪族(ごうぞく)、大臣(おおおみ)、大連、(おおむらじ)伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、屯倉(みやけ)、田荘(たどころ)などの地方任官制度とともに、中央を司る朝廷においては、大夫(まえつきみ)、稲置(いなぎ)、部(べ)、奴((やつこ)奴婢(ぬひ))、舎人(とねり)、采女(うねめ)など直轄の(ちょっかつ)下働きを配置したという。以下この職制に関する説き方についてチェックしておきたい。
★氏(うじ)とは、血縁(けつえん)を中心に構成された擬制的(ぎせいてき)同族集団のこと。氏上と(うじのかみ)氏人(うじびと)を主(おも)な構成要因と定め、多くは部民(べのたみ)や奴婢を隷属(れいぞく)させており、氏の名は蘇我(そが)、葛城(かつらぎ)、紀(き)のように居住地名を名乗りとしたり、大伴(おおとも)、物部(もののべ)のように職名を(しょくめい)名乗りとする形式がある。氏の首長を(しゅちょう)氏上と呼び、氏上は(うじのかみ)氏人を統率(とうそつ)し氏神(うじがみ)の祭祀(さいし)を司り、土地や部民を私有するとき、姓が与えられ政治上一定の地位を世襲するようになる。氏上以外の氏一般構成員を氏人といい、氏人(うじびと)は多くの家族に分かれて生活したが、氏や姓を名乗る場合は氏上と同一とする。
★姓と(かばね)は、家柄や地位を示す称号に用いたが、大王家中心の身分序列も示すがゆえ、中央政権を支える豪族には臣(おみ)や連が(むらじ)、地方豪族には君(きみ)や直が(あたえ)、渡来有力の者には忌寸(いみき)や史(ふひと)や村主(すぐり)などの姓が与えられた。臣(おみ)は大王家出自の皇別氏族(こうべつしぞく)の姓として、多くは大和の地名を名乗り、葛城、平群(へぐり)、和邇(わに)、巨勢(こせ)、蘇我の氏が政権に参画(さんかく)し、地方では吉備(きび)、出雲(いずも)の氏(うじ)が特別に臣の姓を称した。連は大王家と祖(そ)が異なる神別氏族(しんべつしぞく)の姓であり、多くは職名を使い大伴、物部、中臣(なかとみ)、忌部(いんべ)の各氏が名乗りとした。君は大王家支流で地方有力の豪族となる小氏(しょうし)で上毛野君(かみつけぬのきみ)や筑紫君(つくしのきみ)が相当する。直は服属の国造に統一的に与えられ、品部(しなべ)や子代(こしろ)や名代(なしろ)が首長となり、首は(おびと)伴造や渡来の子孫など首長に与えられ、史は村主と並んで渡来の文筆奉仕のことを指すが、東漢氏の(やまとのあやうじ)文直(ふみのあたえ)と王仁子孫(わにしそん)の文首(ふみのおびと)は東西史(やまとかわちのふひと)といわれた。村主は渡来子孫のことを指すが韓語で村長を意味する。
★豪族(ごうぞく)とは、ムラやクニの支配者を指すが、土着の地に権勢を持つ一族のこと。
★大臣(おおおみ)とは、臣のうち最有力者となる平群氏や蘇我氏らの地位を指し、政治の中枢を司り政権を左右し得る実力者に与えられた。
★大連と(おおむらじ)は、連のうち最有力者の大伴氏や物部氏などに与えられた地位、大臣と並び政権中枢を占めて政治を司った。
★伴造(とものみやつこ)とは、世襲的職業に任じられ、朝廷に奉仕の官吏団体を伴、伴を率いて朝廷に奉仕する首長を伴造という。
★国造(くにのみやつこ)とは、現在の郡に相当する地域を支配した官吏、多くは地方豪族に任じられていたが、大化改新(たいかのかいしん)後は郡司(ぐんじ)と呼ばれる。
★県主(あがたぬし)とは、朝廷の直轄領で倭国六県(やまとのくにのむつのあがた)ほか、九州北部などの要地(ようち)に設(もう)けた小地域を県といい、それを支配する地方官を県主という。
★屯倉(みやけ)とは、収穫物を納める倉庫(御宅(みやけ))から転じており、広く朝廷の直轄地で、初めは近畿(きんき)の大王家領だったが、五世紀頃から畿外(きがい)の開発地や叛乱後の接収地を編入し、公的な政府直轄領として拡大した。
★田荘(たどころ)とは、大化改新前の豪族私有地であり、部曲(かきべ)によって耕作された。この氏が営む農業拠点は宅(やけ)と呼ばれた。
★大夫と(まえつきみ)は、大臣、大連の下で政務最高の審議・決定にあずかる地位のこと。臣また連の有力者の中から任じられた。
★稲置(いなぎ)とは、国造、県主と並び地方を支配したが、のち姓のようになり、八色(やくさ)の姓のうち最下位に組み込まれる。
★部(べ)とは、大王家や豪族に隷属して生産に従事する労働集団のこと。大王家や朝廷に所属するのが子代・名代、品部であり、豪族所属が部曲と呼ばれ、部の構成員を部民という。★子代(こしろ)・名代(なしろ)とは、大王家その一族の生活資源を貢納(こうのう)する部民をいい、国造の民を割(さ)いて設定されたが、長谷部(はせべ)・春日部(かすかべ)のように后・(きさき)皇子(みこ)らの名を付けたり、舎人部(とねりべ)のように大王近侍の職名も冠したりした。他に穴穂部(あなほべ)や刑部(おさかべ)もいた。
★田部(たべ)とは、屯倉を耕作する部民のこと。地方豪族の私有民や渡来人を集団的に移住させ編成そして朝廷の管理下においた。
★部曲(かきべ)とは、豪族の私有民で大体は自然の村落を単位に編成され、所属する豪族の名から蘇我部あるいは大伴部のように呼ばれた。
★品部とは(しなべ(ともべ))、伴造に従い、それぞれの職能を以(もっ)て奉仕した部のこと。宮廷官的な(きゅうていかんてき)ものには馬飼部(うまかいべ)、犬飼部(いぬかいべ)、鞍作部(くらつくりべ)、史部(ふひとべ)、忌部(いんべ)など、生産に携わ(たずさ)る錦織部(にしこりべ)、鍛冶部(かぬちべ)、韓鍛冶部(からかぬちべ)、玉(たま)造部(つくりべ)、陶(作)部(すえつくりべ)、土師部(はじべ)、弓削部(ゆげべ)、画部(かきべ)などが置かれた。
★奴((やっこ)奴婢(ぬひ))とは、家っ子の意で氏人の家々に隷属し、家内奴隷として使役(しえき)された。
★舎人(とねり)とは、地方豪族の国造や県主などにより、大王家に貢進される雑益奉仕者のこと。★采女(うねめ)とは、舎人と異なり、朝廷に貢進される女性の雑益奉仕者をいう。
 
以上おおまかに通説の氏姓制度を述べたが、これら通説の拠り所(よりどころ)は支那の文献を主体に組み立てられた説であり、その源流とする旧石器文化も外来説に始まるため、以後、記紀編纂(へんさん)に及ぶまでの通説は仮説にすぎないという認識が重大となる。それが証拠に日本列島各地から遺跡が発掘(はっくつ)されるたび、史書(ししょ)の改めは必須(ひっす)となり、その都度(つど)莫大(ばくだい)な税金(ぜいきん)が湯水(ゆみず)の如(ごと)く費消(ひしょう)されている。それも改めるを惜しまずなら許されようが、改めるに徹しきれない前述の歴史教育が現在も進行中なのである。何ゆえ改めるを躊躇す(ちゅうちょ)るのか、それは簡潔(かんけつ)も極(きわ)まる事由であり、歴史の原点たる仮説を改めると、以後の通史一部始終を見直す必要が生じてくるからである。それがゆえ、歴史教育に記紀を採(と)り入れず、採り入れても平然と誤訳を盛んとし、結果の丸呑みこそが教育と嘯く(うそぶ)始末となる。
 本講の義ここに存する。過去と未来の連続性を保つものには、何事も前段があり、その原点を幼稚(ようち)と思うのは大間違いであり、その原点が付加価値(ふかかち)をもつからこそ、未来に及ぶ技芸(ぎげい)の磨錬(まれん)に通じて、その労働の成果が潜在力となり、それら遺伝情報が培わ(つちか)れるがゆえ、現在という場を乗り越える力が発揮(はっき)できるのだ。家紋も同位相であり、通説は縄文時代に土器が出現したといい、一万二〇〇〇年前説から一万六五〇〇年前説まであるが、無文と別に、豆粒文、(とうりゅうもん)爪形文(つめがたもん)、隆起線文(りゅうきせんもん)、磨消縄文な(すりけしじょうもん)どの出土があるという。これこそ後に氏が家紋を用いる原点であり、それは草木(そうもく)の自生種観察(かんさつ)と稲類の栽培(さいばい)に端(たん)を発するのだ。
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