ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航したのは嘉永6年、西暦で言えば1853年だ。小生は百年後の1953年生まれなので、黒船の来航年が頭に入っている。 さて、幕府がペリーの砲艦外交に腰を抜かし、開国したというのが我が国の通説になっているが、それは全くの嘘デタラメであると主張しているのが、政策コンサルタントの室伏謙一氏であり、YouTubeでも動画として公開された。残念ながら、5月3日までの限定公開ということで、室伏氏のYouTubeを観ることは最早できない。 しかし、何を室伏氏がYouTubeで語ったのかについては、「室伏謙一の霞が関リークス 」に掲載されている講座案内で大凡の見当がつく。
PART 1から3に分けられているので、本稿でもそれに倣うとする。■PART 1 小生は5月3日までの限定公開だった動画(34分強)を観ているが、室伏氏が語っていた主な話の内容は、黒船来航時において幕府が優れた外交能力を発揮したことの実証であり、その論拠として室伏氏は、『墨夷応接録』を下敷きにしていた。その『墨夷応接録』には、幕府の外交能力が極めて高かったことが明記されているのだ。 ところが、明治維新以降の日本は『墨夷応接録』を完全に無視、そのため、今日に至っても幕府の外交力はお粗末だったと広く信じられているのが実態で、ペリーの砲艦外交に幕府が震え上がったといった大嘘が、未だに罷り通っているのである。 蛇足ながら、PART 1のもう一つの小テーマである、「世界に冠たる清潔都市・江戸」については、竹村公太郎氏が著した、「日本史の謎は地形で解ける」(全三冊)の一読をお勧めしたい。■PART 2 このパートは「幕末の英雄3人の有能さと功績」についての話で、以下の三者を取り上げている。徳川慶喜 小栗上野介 榎本武揚
落合莞爾さんの落合史観を直接ご本人から学んできた身として、小生は三者の業績について詳細に知ることができた。 最初に徳川慶喜公。拙稿「高麗神社と皇室 」で小生は以下のように書いており、また、『徳川慶喜公伝』(全四巻)も十年前に入手した。「落合莞爾さんが著した『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新 』、「第七章 慶喜と大政奉還」にある、「渋沢栄一の衷情が滲む『慶喜公伝』」に目を通せば、自ずと納得いただけよう。
次に、小栗上野介。通説では、小栗は慶応4年(1868年)閏4月4日、烏川の水沼河原(群馬県高崎市)において斬首された(享年42歳)というのが通説だ。しかし、落合史観によれば、実はそうではなく、小栗は密かに渡米し、アメリカから祖国日本のために貢献したということになっている。これについての真偽はともかく、関心のある読者は落合秘史シリーズ本、殊に『国際ウラ天皇と数理系シャーマン 』を参照されたい。張成沢の〝処刑〟 最後に榎本武揚だが、拙稿「榎本武揚と〝八百長戦争〟 」を参照のこと。■PART 3 PART 3は、「西洋思想を植え付けられた現日本の没落」というタイトルになっているのに注目していただきたい。「属国の時代 02 」で明治維新前の日本人にはあった、時間の概念について書いたが、これはほんの一例で、明治維新以降の日本人は、どのような西洋思想を植え付けられたのかについて、今後も折りを見て取り上げていきたい。同書を読み進めながら、「明治維新(文明開化)は失敗だったな 」という言葉を吐いた、まほろば会の林廣同志を思い出した。 蘇るのか、逝きし世の面影
室伏氏は未だ49歳と若く、今後の一層の活躍を期待したいと思う。
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