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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
プロパガンダ 2
22021504.jpg

拙稿「プロパガンダ 1」についての感想を、suyapさんが掲示板「放知技」に投稿してくれたことが切っ掛けとなり、『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』を巡って、suyapさんと多くを情報交換できた。
https://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/975-980/

ところで、小生は>>978で以下のように書いている。

どのようにケネディ大統領はキューバ危機を回避したのかについては、『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』に詳述してありますが、決め手になったのがアメリカ側に寝返ったソ連のスパイでした。彼は核兵器を専門としていたのですが、高空から撮影したキューバの写真を解析して、核兵器基地がキューバの地に、建設中であることを突き止めています。このスパイの情報が無かったら、本当に第三次世界大戦が勃発していた可能性大でした。


すると、suyapさんから>>979で以下のような問い合わせがきたのである。

そのスパイはペンコフスキーとは別人なのでしょうか?
ちなみにペンコフスキーは1962年10月のキューバ危機勃発直後にモスクワで逮捕され、翌年5月に処刑されています。『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』に出てくるペンコフスキー関連の記述に興味があります。


22021502.jpg


それに対して、小生は>>980で以下のように回答している。

ご推察のとおり、ペンコフスキーです。『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』も、p.176あたりからペンコフスキーについて、かなりのページを割いていました。


ここで小生は、「『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』に出てくるペンコフスキー関連の記述に興味があります」と、>>979で書いてきたsuyapさんに何等かの回答しなければと思った。また、ペンコフスキーを巡ってプロパガンダや諜報について、色々と考えを巡らすのも悪くないと思ったのである。

そこで、ペンコフスキーについて考えを巡らしてみたところ、以下の三つのポイントを解明してみたいと思うに至った。

1.ペンコフスキーが生存前後のソ連事情
2.ペンコフスキーが西側に寝返った理由
3.ペンコフスキーにとっての国益とは?


最初に、「ペンコフスキーが生存前後のソ連事情」だが、処刑されたのが1963年5月16日、フルシチョフがソビエト連邦共産党中央委員会第一書記(1953年9月7日 - 1964年10月14日)の時代であった。そのフルシチョフは、宮廷クーデターにより第一書記の座を1964年に追われている。フルシチョフが失脚した背景として、ウィキペディアは以下のように記している。

フルシチョフによる集団指導体制を無視した自らへの権力の集中(第一書記と首相の兼任)、さらには前述のように同志に対する叱責や暴言や外国での粗野な振る舞いを繰り返したため、ひそかにニコライ・イグナトフ、アレクサンドル・シェレーピン、ウラジーミル・セミチャストヌイ、レオニード・ブレジネフらが中心となった反フルシチョフ・グループがフルシチョフの追い落とし、あるいは暗殺を着実に準備していった。ブレジネフはフルシチョフの毒殺や専用機の爆破をも企んだとも言われている。


ここで、フルシチョフ前のソ連はスターリンが牛耳っていたわけだが、スターリンが何を行っていたかというあたりは、『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』に詳述してある他、多くの史料が書籍やネット記事として出回っているので多言は不要かと思う。ともあれ、端的に言えばスターリンが行った大テロル(恐慌政治)こそ、小生が>>976で述べたアンドロポフ〝限界〟の最大要因だったのだ。この大テロルのもたらしたものについて、明白に述べた箇所を以下に引用しておこう。

外国語に堪能な海外諜報担当者やスターリンに進言するような知見のある幹部は大テロルで軒並み処刑されてしまい、ソ連の国内政治闘争で何とか穏便に生き抜いていくことしか考えていないような人たちが次の世代を担うことになったわけです。
『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』p.177


次に、「ペンコフスキーが西側に寝返った理由」だが、suyapxさんが紹介してくれた「恩師と一冊の本の思い出(1)」を中心に言及してみよう。

22021501.jpg 22021500.jpg

上掲の記事を書いたのはワイン研究家の金子三郎氏で、『ペンコフスキー機密文書(The Penkovskiy Papers)』(1966年、集英社刊)の一部(50ページ)を分担翻訳した方である。その金子氏が以下のように書いている。

では何故、軍人としてエリートの道を歩み続け、出世を望む野心家でもあり、ソ連の権力の座に近い地位にあった一人の情報将校が、国を裏切ったのかという疑問が絶えず付き纏います。

ペンコフスキー大佐をしてソ連政府に対して積極的な反逆者に仕立てたものは、敢えて単一要因を挙げるとすれば、何よりも、恐らくフルシチョフ(1894-1971)の冒険主義によって触発されるかもしれない、突発的な核戦争への恐怖だったと考えるのが正しい答えのように思います。ペンコフスキーは、ソ連の核戦争準備だけでなく、フルチショフが核戦争の脅威を利用しようとする無謀さについても、その真相を知る数少ない一人だったからです。彼は明らかにフルシチョフとソ連の指導部を憎んでいました。そして「わが共産主義社会」と呼ぶものは、ひとつの欺瞞に過ぎないものだと信ずるに至ったのでした。何とかしてエネルギーを絞り出し、ソビエト連邦の偉大なる要素と生活力を平和的目的へと転換させることが必要である。大きな世界的闘争を引き起こさせないためにも ― これは私が、私の観察したことを、アメリカ合衆国とイギリス国の人々に対して書いた真の理由である、とペンコフスキーは述べています。


要するに、本当にフルシチョフが核戦争を引き起こしかねないと思ったことが、ペンコフスキーが祖国ソ連を裏切った最大の理由だった、と金子氏は語っているわけである。確かに、小生も十代後半から二十代の頃にかけて、核による世界大戦勃発を恐れていた一時期があったし、関連の書籍や雑誌にも少なからず目を通した経験があるので、金子氏の言い分、分からないでもない。

しかし、本当に核戦争防止ということだけが、西側に寝返った理由だったのだろうか・・・。核戦争を防止したいという崇高な思いだけで、人は果たして死を賭してまで行動に移せるものなのだろうか・・・。思案に暮れていた時、ふと以下の金子氏の記述が目に留まった。

最後の危機が身に迫った時、彼の頭に浮かんだのは、自分の家族を何とかしてソ連の国外へ救出させることでした。ペンコフスキーは金銭欲のためにスパイを働いたとは到底考えられません。


家族・・・、そうなのだ! と思わず膝を打った。ここにペンコフスキーが〝裏切り行為〟に打って出た、原点があったと解ったのである。換言すれば、己を大事にできない者に、家族、地域社会、さらには母国への愛が持てないのは道理ということなのだ。無論、ペンコフスキーの個人的な思想など他の動機もあったと思うが、何よりも核心は、家族、地域社会、そして母国への愛だ。

ここで話は横道に逸れるが、小生が気になったのは上掲の金子氏の記事に、「先生宅にタス通信の現役の記者も集まって」という記述があったことだ。タス通信と云えばソ連の国営通信社であり、その通信社の現役記者との交流があったことを示す行なので、『ペンコフスキー機密文書』の監修的な立場にあった佐藤亮一氏の思想歴が気になったのである。念のため、同氏は他にどのような書籍を翻訳したのかネットで確認してみた。すると、確かに『ペンコフスキー機密文書』をはじめ、『フルシチョフ最後の遺言』といったソ連をテーマとした訳書もあるにはあったが、圧倒的にアメリカやイギリスといった西側を取り上げた書籍が中心だった。

佐藤氏は戦時中に毎日新聞の特派員として中国大陸に渡り、敗戦後は北京の収容所に投獄されている。投獄中、思想教育を受けたのか、受けたとすれば後の佐藤氏の思想に大きな影響を及ぼしたのだろうか・・・。そのあたりは、佐藤氏の自著『北京収容所―私の獄中日記』を紐解く必要がありそうだ。だが、その前に『ペンコフスキー機密文書』に目を通す必要があると判断し、同書の文庫版『寝返ったソ連軍情報部大佐の遺書』を申し込んだ。近日中に届く予定である。ペンコフスキーの考えていた国益を確認したいこともあるし、何よりもペンコフスキーの家族のその後を知りたいと思ったからである。

最後の「ペンコフスキーにとっての国益とは?」だが、上掲の金子氏の記事には以下のように明記されていた。

「わが共産主義社会」と呼ぶものは、ひとつの欺瞞に過ぎないものだと信ずるに至ったのでした。何とかしてエネルギーを絞り出し、ソビエト連邦の偉大なる要素と生活力を平和的目的へと転換させることが必要である。


ペンコフスキーの考えていた国益というものが読み取れよう。そして、国益とは巡りに巡って己を大切にする姿勢、そして、家族愛、地域社会愛、母国愛へと繋がるのであり、だからこそペンコフスキーは、「死を賭した」行動ができたのだと思った。
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続き
※字数オーバーで投稿できなかったことに、今さら気づきました(汗)
放知技にも投稿してしまいましたが、こちらにも続きを載せておきます。

ウィキによると、ペンコフスキーの父親は1917年のロシア革命後の内戦で白軍側について戦死、年代的にはペンコフスキーは生まれていたかどうかという時期です。幼かった彼の生育環境は不明ですが、赤軍=ボルシェビキ革命に骨の髄から賛同...という人ではなかったのかもしれません。軍人としてはキエフの砲兵学校を卒業、フィンランドとの冬戦争および第二次世界大戦に従軍して中佐に昇進しています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Oleg_Penkovsky

『寝返ったソ連軍情報部大佐の遺書』を注文されたとのこと、亀さんの読後感想を伺えるのを楽しみにしています。


[2022/02/18 18:16] URL | suyap #sSHoJftA [ 編集 ]


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