■豊臣秀吉

拙稿「武士の時代 16」で、信長・秀吉・家康・光秀という四傑の人物を一霊四魂に照らし合わせ、「和合・友好の力を持った秀吉は和魂」と小生は書いた。
つまり、秀吉は人誑しだったというわけだ。そのあたりは、小名木善行氏の動画を観れば納得してもらえると思う。
豊臣秀吉が出世した本当の理由|小名木善行
小名木氏が、「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」を引き合いに、「努力で、人格で、徹底的にサービスして、ホトトギスを鳴かせてみせた」のが秀吉だったと、8:35あたりから語っているが、いかにも小名木氏らしい物の言い(解説)だと思った。
今東光和尚の秀吉評も面白い。自著『毒舌日本史』で和尚は、信長と秀吉の関係について以下のように述べているが、信長に人誑しの秀吉が気に入られていたあたり、まさに面目躍如たるものがある。
秀吉がいかに信長に信任されていたかわかりますね。どうも信長は、わざと或る程度の気ままをさせていたんではないでしょうかね。そして満座の中で「このドブ鼠」だの「禿げ鼠」だのとやっつけている。秀吉の女房に与えた信長の手紙にも平気で、貴様のところの禿げ鼠は浮気者で仕様がないが、少し位は我慢しろなんて書いている。 『毒舌日本史』p.293
この秀吉の人誑しという性格についてだが、上掲の動画で小名木氏は秀吉の腰の低さを語っており(29:00~)、現代人に喩えるなら明石家さんまだと謂うものだから、思わず小生もつられて笑ってしまった。加えて、そうした秀吉の性格を如実に示す二つのエピソードとして、蓑笠および鶴にまつわる出来事について小名木氏は語っていた。
それから、上掲動画の題は「豊臣秀吉が出世した本当の理由」となっているが、単に秀吉が出世した理由について述べているだけではなく、今を生きる若者への貴重なアドバイスにもなっている。その意味で、若い人は見ておいて損はない動画だと思った。

ところで、小名木氏が秀吉を取り上げた動画は他にも何本かあるが、小生が最も注目したのは以下の動画だ。
学校では教えない豊臣秀吉が朝鮮に出兵した本当の理由|小名木善行
秀吉の朝鮮出兵は、日本を護るためだったとする小名木氏に対して、『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』(奈良静馬 大日本雄弁会講談社)は、異なった見解を述べている。そのあたりを示す意味で、少々長くなるものの、『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』の一部を以下に引用させていただく。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉が国内統一の大事業を完成し、彼が外に向かって日本を代表して立つ事になってから、それまで地方の諸大名との間に個々に行われていたフィリピンとの関係は、主として秀吉という大きな手一つに掌握される事となった。フィリピンでは新太守ゴメス・ダスマリナスが強大な権力を振るって外交関係の矢面に立つようになり、日比の関係は一気に繁雑となってきたのである。
英国では有名なエリザベス女皇が、鉄石の意思と、驚くべき判断力と、巧妙なる政策とをもって、従来の第二流国をして欧州最強国に名乗りをあげ、スペインではフェリペ二世がいまだにその世界征服を夢見、世界最強君主という矜恃を棄てなかった時代であるから、これらの強大なる君主や英雄の出現によって、当時の世界は緊張状態にあった。
以前から外国攻略の大望を抱いていた秀吉にとっては、今やその時が来たのである。彼は自分が支那、朝鮮を攻略する前に海上自由発展者のために、支那、朝鮮を荒らされる事を好まず、1589年7月8日、諸大名に厳命を下してこれを禁じ、支那・朝鮮方面における日本人海上発展者の跡を絶ったが、残党はあえて南洋、インド方面にその足を伸ばす事となった。
野心家の秀吉は、早くも1592年には朝鮮征伐を始めた。朝鮮を攻め、支那を攻略し、続いてインドに侵入し、ついでに南洋をも征服しようというのが彼の志であった。支那の寧波に都を移し、東洋を一丸として、この総帥になろうという壮大なる計画を立てた。 『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』p.56~57

朝鮮出兵とは、「日本を護るため」だったとする小名木氏に対して、「東洋の総帥になる」のが秀吉の狙いだったとする、上掲書の奈良静馬氏の主張との間には大分隔たりがあるが、同書が刊行されたのが昭和17年だったことを思えば、今から80年も前の話だし、その間に朝鮮出兵についての研究も大分進んだことを思うに、朝鮮出兵の見方が異なってきても致し方ないと思った。ちなみに、小生は小名木氏の主張に軍配を上げるものである。
そう思う理由の一つが秀吉の皇室観にある。何となれば、「日本を護る」ということは國體、すなわち皇室を護るということに他ならないからである。以下は『皇室と日本精神』に記されていた、信長と秀吉の皇室観を示す格好の行である。
安土桃山時代は、一般に国民精神の旺盛なる時代であった。百有余年に亘る戦雲が、信長・秀吉の力によって漸く攘われ、国内統一の業が成ると共に、国家的概念を著しく発展した。信長が父信秀の遺志を継いで、皇室の復興に努め、禁裏を造営し御料を復した事などは申すまでも無い。その足利義昭と結んだ約定の中には「天下静謐の為には、朝廷の事を万事粗略に致さざゞること」という一箇条を、特に載せて居る。秀吉に至っては、尊皇主義の殊に顕著なるものがあった。秀吉は微賤より起って遂に位人臣を極め、天正十三年に関白になり、十四年に太政大臣となった。その時にその栄誉を深く心に感じて、皇室の為に何とか致して、幸あれかしと考えた。 『皇室と日本精神』p.337
ところで、上の引用で奈良静馬氏は、「当時の世界は緊張状態にあった」と記していたが、それに関連して以下の行も引用しておこう。
秀吉は1587年、彼に反抗した最後の大名、薩摩の島津氏を征服し、国内平定の事業が一段落つくと共に、長崎の治外法権地に目をつけ、伝道師から長崎及びその付近の抵当地を回収した。元来秀吉は宗教について好悪は持たず、今目の前にキリスト教伝道師を手先とする侵略が日本で始まったのを見て、キリスト教絶対厳禁の挙に出た。しかしながら朝鮮征伐などのために忙しかった秀吉は、ひそかにキリスト教を信じる者があっても、それは黙認しておいた。 『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』p.171
「彼(秀吉)に反抗した最後の大名」という記述に注目していただきたい。その島津家は後にイギリスの影響下に入り、そのイギリスは鹿児島の地に「薩摩ワンワールド」を形成している。
ここで思い出すべきは、秀吉が1587年に「薩摩の島津氏を征服」した翌年、スペインの無敵艦隊がイギリス艦隊に敗れたという史実である(アルマダ海戦)。

1587年頃のイギリスは、未だ〝黒い貴族化〟されていなかったことを思うに、その後島津家に浸透していったイギリスの動きが、母国の〝黒い貴族化〟に至る経緯と、どのように関わっていたのか・・・。どうやら、『悪の遺産ヴェネツィア』を再々読すべき時がきたようだ。
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