
読者の皆様、新年明けましておめでとうございます。
ちょうど六年前の2016年1月3日、「門松は冥土の旅の一里塚」と題する記事をアップ、同記事の冒頭で小生は以下のように書いている。
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という、一休の狂歌に使われている「冥土」は拙ブログ名の一部にもなっている。亀さんは拙ブログを開始して間もなく還暦を迎えたこともあって、正月を迎える度に人生の終わりに近づいているという、何とも言えぬ寂寥感を感じる身となった。
爾来、六年もの歳月が流れたことになり、改めて「光陰矢の如し」という諺を思うのだし、来年は古希を迎えることもあって、この世で〝暇潰し〟をする時間も、残り少なくなってきたと感じる今日この頃だが、ここは気を取り直して、今年こそは飯山史観を完成させるべく、ラストスパートをかけたいと思っている。
■日本の中世・近世・近代 前稿「武士の時代 15」で近世の時代に入ったこともあり、ウォーミングアップのつもりで光秀=天海説について書いた。よって、いよいよ今回から本格的に日本の近世について筆を進めていこう。ただ、その前に日本の中世・近世・近代を、明確に区別しておく必要があると思ったので、最初に手許の大辞林(電子版)に載っている、各時代区分の定義を見ていくことにしたい。
中世 歴史の時代区分の一。古代に続き、近代に先行する時期で、封建制を基礎とする。西洋史では、五世紀のゲルマン民族大移動から、一四~一六世紀のルネサンス・宗教改革までの時期をさす。日本史では封建制の時期を前期と後期に分け、後期は近世と呼び、前期のみを中世と呼んで、鎌倉・室町時代をこれに当てる。
近世 歴史の時代区分の一。中世と近代の間の時期。(ア)日本史では、後期封建制の時期の安土桃山・江戸時代をいう。(イ)西洋史では近代と同義に用いられることが多いが、特にそのうち市民革命・産業革命までの時期を近代と区別していう場合がある。(ウ)中国史では明末・清初以後、辛亥(シンガイ)革命までをいうのが普通。
近代 歴史の時代区分の一。西洋史では、ルネサンス、新航路の発見、宗教改革以降の時代、特に市民革命・産業革命以後の資本主義社会の時代をいう。日本史では一般に、明治維新から太平洋戦争終了までの時期をさし、それ以降を現代というが、一九一七年のロシア革命以後を現代、それ以前を近代とする考え方もある。
以上が、世間で謂うところの中世・近世・近代の時代区分だ。では、どうして鎌倉時代から大東亜戦争終了までが、中世・近世・近代という時代区分になったのか? このあたりについてだが、大辞林で定義されているような、統一した見解が未だに我が国では定まっていないのが現実だ。たとえば、近世という新しい時代が始まった切っ掛けとして、「YAHOO!知恵袋」のベストアンサーの場合、近世の始まりには諸説あるとしている一方で、そうした諸説に共通して見出せるものこそ(最大公約数)、「土地制度と兵農分離」だとしている。
そこで、幾つかの歴史関連のサイトにアクセスし、近世をどのように捉えているかを確認するに、たとえば「日本史論述ポイント集」というサイトの場合、「近世社会の礎を築いた大閤検地」と言い切っている。このあたりについては、YAHOO!もベストアンサーで近代の礎は「土地制度」、すなわち大閤検地であるとしているし、小生も同感だ。何故なら、大閤検地は天下人でなければ為し得ないことであり、その大閤検地については「日本史論述ポイント集」の「近世①」でも詳述している。
ただ、YAHOO!のベストアンサーで主張している、もう一つの近代日本の礎となった「兵農分離」については、「日本史論述ポイント集」では特に述べてはいないものの、豊臣秀吉の刀狩り令(天正16年(1588))を以て嚆矢とできよう。それは、日本全土で刀狩り令を確実に進めるには、天下が統一されていることが大前提となるからだ。この天下統一こそが日本の中世と近世を分けたものであると思うし、上掲の「日本史論述ポイント集」も以下のように解説している。
ズバリ言うと〈権力のあり方〉の違いです。
中世には統一的な権力は現れませんでした。鎌倉時代は公武二元支配でしたし、室町時代も分権的な状況で、そうした中からこそ〈自立〉的な存在が生まれたと言えます。
これに対して、近世には、豊臣秀吉が天下を統一して一元的な権力者となります。徳川家康は征夷大将軍への任命によって全ての大名に対する指揮権の正統性を認められました。「天下人」の登場です。
これで、中世日本と近世日本の違いが明確になったと思う。続いて、近世日本の礎を築いた信長・秀吉・家康・光秀の四傑について言及していこう。
■四傑と一霊四魂
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀の隠された恐るべき関係性|小名木善行×羽賀ヒカル
この動画は、一霊四魂という視座から四傑の人物を評価した内容となっている。一霊四魂思想は神道家の本田親徳が編み出した独特の霊魂観であり、明治に入ってから体系化されたものだ。ちなみに、この一霊四魂をテクノロジー化し、「個性認識学」(四魂の窓)を開発した人物がおり、それが出口王仁三郎を曾祖父に持つ出口光氏だ。
ところで、人は身体と霊魂から成ると言われている。この霊魂だが、「一つの霊「直霊(なおひ)」と、四つの魂「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」「幸魂(さきみたま)」「奇魂(くしみたま)」から出来ている」と、神道ライターの紺野うみさんは語っている。
ここで、小名木善行氏との対談動画において、北極流占い継承者の羽賀ヒカル氏が、本来は一人の個人に備わっているはずの四魂を、信長・秀吉・家康・光秀の四傑に振り分けるという試みに、正直なところ最初は戸惑ったものの、同氏の説明を聞くに及んで、四傑の一人一人には最も強く顕れる四魂が一つだけあり、それが四傑各々の思考行動様式を決定付けているというのが、羽賀氏の主張だと分かった。つまり、羽賀氏によれば、直感力すなわち先見の明があった信長は奇魂、和合・友好の力を持った秀吉は和魂、忍耐力・諦めぬ心を持った家康は荒魂、幸せを祈る力を持った光秀は幸魂とのこと。四傑の人物の違いを考える上で、一つの面白い見方だと思った。
 和魂カウンセラー協会
次稿では、四傑の一人一人を取り上げていこう。

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