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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
隠岐島に残る悪政の烙印
以下は、掲示板[みち]の「コーヒーブレイク」というスレッドNo.138で約束した、後鳥羽院と後醍醐天皇に関する今東光の原稿である。『おれも浮世がいやになったよ』(p.237)から引用した。

隠岐島に残る悪政の烙印
後鳥羽院のこと
昨年八月二十四日、思い立って隠岐島に行った。『太平記』を書いているので後醍醐帝の行在所跡を見学するためだ。
実は昭和十八年に「順徳帝」という歴史研究を脱稿したが、帝の流謫地佐渡島へは行ったが、御父君の後鳥羽院が隠岐島へ流され給うたので、隠岐島へも渡ろうとして境港まで行ったが生憎の時化で思いを果すことができなかった。畏友保田與重郎君『後鳥羽院』という名著があるが、この稀有の大歌人であられた承久帝の膝下から俊成、定家、西行法師等の優れた歌人が輩出し、画家としては信実を逸することができないし、刀工では隠岐島にさえ刀鍛冶を召し連れられ粟田口からは助国・景国・国綱、備前福岡からは宗吉、信正、助則などで、このような文化的であらせられ後鳥羽院を、何にもわからない東夷の北条氏は実に十九ヵ年も島守りとして追放したのである。
『承久物語』は古今に絶する日本の残酷物語だが、御自ら新島守りと御自嘲あそばされた後鳥羽院の御生涯を想うと、やくざな政治家と心温い芸術家では喧嘩にならなかったと想わざるを得ない。戒心すべきことである。その後鳥羽院の跡を拝みたく波荒い日本海に行ったが、残念ながら欠航のため渡島することができなかった。思えば当時は戦争中であり、夜船に乗って十時間の航海は危険でもあったので欠航になったのかもしれない。

後醍醐帝行在所の本家争い
それから悠々として二十有余年を経過した。今日では大阪から米子まで、米子から隠岐島まで簡単に飛行機で行けるのだ。米子からは追風に乗って僅かに二十分で波静かな隠岐に飛べた。
島に渡って面白いことは島前に島後とが、共に後醍醐帝の行在所の本家争いをしていることだ。ところが僕の見るところではどちらも本当だと思う。あの小さい島では島前にも仮りの御夢を結ばれたであろうし、島後では都をしのんで眠れぬ幾夜かを御送りになられたであろうと拝察する。勿論、警固の武士佐々木次郎左衛門尉清秀はこの大切な御囚人を寸刻も目を放さなかっただろうとは思うが、帝が御脱出に御成功なすったのを見ると案外にも彼等もまた安心して油断が多かったのではあるまいか。
昔、隠岐国といい道前、道後と古文書にあるのを見ると、今日、島前島後を同じに発音して、この島の人々は一国と信じているのである。これは佐渡島でも同じで、この島の人々は島人と言われるのを嫌い、佐渡国は自給自足できると傲語して一国と称えているのである。共に島人の感情とは独立自尊の精神に富み、誇り高い自由人をもって任じているのだ。その証拠には隠岐にも佐渡にも共に国分寺並びに国分尼寺があり、隠岐には現に国分寺(再建)が存在する。これを以ても彼等は島でなく国だと主張するのだ。
この隠岐の国分寺が後醍醐帝の行在所だったというのは文部省でも認定した史蹟だ。当時、七堂伽藍を完備した国分寺が貴人をお迎えする格好の御殿であったに相違ない。
然るにこの隠岐の国分寺は明治初年に焼き討ちに遭って焼亡し、大切な古文書類を焼かれ、漸く近年に再建する運びとなったのだ。

明治憲法最大の欠陥とは
僕は、多くの明治生まれが明治は良き時代といって懐しく回顧するが、決して明治時代はすべてよかったのではないと思っている。あの尊厳な明治憲法も実は最大の欠陥を持っていたと指摘したいのである。何故であるか。明治憲法は日本人民に対して言論、出版、結杜の自由を与えると共に信仰の自由をも与えたのだ。信仰の自由を与えたということは、論理的に言えば信仰せざるもまた自由という自由を与えてしまったのだ。このためにわが国には国教すなわち国家の宗教がないのである。それゆえ日本人には一筋のバックボーンが欠けていて、宗教的にはクラゲみたいな奴等が多くなってしまったのだ。
まして明治政府に参加した学派のオッチョコチョイが、明治二年に神仏判然令、明治五年に神仏分離令という悪法を制定し、仏教弾圧に乗り出した。そのために各地に排仏殿釈の馬鹿騒ぎが起こったのだ。奈良では天平仏を破壊して仏風呂などと称して入浴したり、興福寺の五重塔さえ入札で売り物に出たくらい。従って僕の住職している水間寺などを悪党に占拠され、その子孫どもが今もって僕に反抗しているなどもこの仏教破却の爪跡なのだ。
隠岐の国分寺の境内に可愛らしい石地蔵さんの首が、何百となく積み重ねて雨ざらしになっているが、このような無残な大人どもの血も涙もない所行を見せつけられては、日本の子供が虫や小禽を平気で殺すのは当り前、世界中から日本人の残虐性を非難されたことに及んで僕は暗然となった。明治初年の隠岐一島における寺院の破却は実に二百四十ヶ寺。この島で会った岡崎君の寺でさえ末寺十八ヶ寺のうち再興したのは僅かに五ヶ寺という。
無知文盲な神主を先頭に鬼のような島人が寺に火をかけ、仏教を破壊し、以て快哉を叫んだ姿は、イベリア半島でクリスト教徒とイスラム教徒が闘ったよりも無意味な暴行と愚挙なのだ。そういう愚劣な煽動者が明治政府を形成し、今日の日本人の宗教に対する不感性を植えつけてしまったのだ。隠岐の国分寺七堂伽藍の焼亡は、その文化財の喪失をも意味していること勿論だ。ある御堂に収容されている吉祥天は畑に埋没していたもので、寄木造りの大きな金剛と密迩の二尊は田圃にはまっていたという。およそ常識では考えられない暴力によって排仏殴釈が遂行されたのだ。明治政府は忠君愛国を強いるために後醍醐帝を明君とし、楠正成を大忠臣と表彰しながら国分寺行在所には能う限りの暴力を加えて焼き払い、そのために後醍醐帝に関する貴重な文献をも併せて永遠に喪っでしまったのだ。そんな阿呆な真似をしておきながら何の忠君愛国ぞやだ。今、島入が島前と島後において帝の黒木御所を争っているなどは、明治政府の悪政の結果すると
ころで、島人さえがもはや行在所を決定する自信と根拠とを失っているからだ。

離島に残る深い爪跡
その夜、隠岐国西郷若林町長の御招宴で、観光キャラバン隊による「どっさり」節の唄と踊りを見せて頂いたが、その一節は後醍醐帝の脱島御苦辛を歌ったものといわれる。
忍び出ようとすりゃ
鴉めがつげる
まだ夜も明けぬに
がさがさと
サアノウエノー
憎しや
コレワイ
ドウジャナ八幡のナア
チョイト
森がらす
サアノウエノー

(註-隠岐八幡宮は正和元年佐々木次郎左衛門尉清勝の建立)
こういう民謡の片鱗に帝の隠岐脱島の面影をとどめるに過ぎないとは、いかに排仏殿釈の爪跡が深いかを物語るものであろう。僕は隠岐を離れるまで西郷町の港になっている深い入江を痛々しい傷痕として眺めながら機上から振返って嘆息したのである。日本の離島には未だこんな情けない悪政の烙印が残っているのである。


13052401.jpg  13052402.jpg
後鳥羽院(左)と後醍醐天皇(右)

13052403.jpg
平田篤胤
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