今回は楠木正成について言及していくが、その前に拙稿「武士の時代 10 」で、「大塔政略」、「伏見宮」、「堀川政略」といった言葉がいきなり飛び出し、落合史観に不案内の読者には、何が何のことやらサッパリ分からなかったかもしれない。詳しくは落合莞爾さんの著した『明治維新の極秘計画』、そして『南北朝こそ日本の機密』に目を通してもらう他はないが、概略だけでも知りたいという読者は、藤井厳喜氏がアマゾンに投稿した、カスタマーデビューに目を通すといいだろう。解明された南北朝史の本質:現皇室は南朝正統の嫡流 ■今東光と落合莞爾の楠木正成観 最初に、今東光和尚の楠木正成観からいこう。和尚の楠木正成観を最も的確に示していたのが、『毒舌日本史』の以下の行だ。ズバリ、和尚は楠木正成をゲリラの元祖 としている。文藝春秋編集部 チェ・ゲバラですな。 今東光 ゲバラなんかに感服してるんだから日本の大学生なんて甘っちょろいもんさ。ちゃんと日本には楠木正成てえゲリラの親方が在るんだ。ゲバラの最後は民衆の支持を喪ったからです。ゲリラ戦の要項は民衆の支持を取りつけることです。中共の八路軍てえゲリラが成功したのは民衆の支持があったからです。正成は河内ばかりではなく近畿を走り廻って民心を摑んでいたから眇たる河内兵の一隊だけで天下の大軍と拮抗することが出来たんです。ゲリラ教程は楠木流軍学を学べばわかる。尤もゲリラ戦術を勉強してぶち殺されるのも悪くねえが。 前にも出ましたが当時の「悪」は強いのを意味して悪いというんじゃない。悪源太(義平)とか悪七兵衛(景清)という使い方でも解るように、この悪党というのは北条執権ぺったりの主流ではなく、武士階級の底辺にあって反体制のチャンスをねらっていたエネルギッシュな反主流派です。だから武士だか山賊だかわかりません。 『毒舌日本史』p.216
小生も今東光和尚の楠木正成=ゲリラの親方説 に同感だ。太平の世にすっかり慣れきった、立派な鎧甲で身を固めた北条軍の大将が、籠城している正成の河内軍を前に、「吾こそは桓武天皇後裔・・・」だのと長々と名乗りあげていると、頭上に糞尿をまき散らされてピカピカの鎧甲が糞まみれになったり、大岩を落とされて大けがをしたり時には死に至ったりと、さんざんな目に遭わされて戦意喪失、多くの北条軍の兵士が逃げ惑ったという。 ここで、少し横道にそれるが、正成の「民衆を味方に引きつける 」という戦法、今のトランプを彷彿とさせるではないか。掲示板「放知技」にも書いたが(>>73 )、民衆を味方にすることは先手必勝だと、心から思う。 今和尚の上掲の発言、「悪党というのは北条執権ぺったりの主流ではなく、武士階級の底辺にあって反体制のチャンスをねらっていたエネルギッシュな反主流派です 」にも関連することだが、DSぺったりの一人として、たとえば「トランプは人権問題に無関心だった」と、大嘘をついた池上彰のような輩がいるが、DSに対抗する主流派の親分 トランプが耳にしたら、どう思っただろうか・・・。 次に落合莞爾さんの楠木正成観だが、『南北朝こそ日本の機密』第十四章「南北朝偽史を禊祓(みそぎはら)う重要性」の冒頭の小節、「後南朝に対する感傷 地家(じげ)氏・大室寅之祐は大塔宮の子孫」に書かれている、以下の楠木正成評を紹介するに留めておこう。大塔宮に協力を惜しまず、よく似た運命を辿った楠木正成にも、むろん同じ感情が湧きます。親王と正成が余りにいたわしく思えた私は、以来湊川神社に参ったことはなく、鎌倉宮に近寄ったことも、いまだにありません。可哀そう過ぎて見たくないのです。
お二方の楠木正成観を較べるに、落合さんの場合は「可哀そう」と感傷的になっているのに対して、今和尚の場合は「ゲリラの親方」と剛毅な正成評であり、小生は和尚の正成評の方が気に入っている。■出でよ、令和の悪党 ここで、和尚は「悪」について語っているのに注目していただきたい。実は、今の世の中ほど楠木正成のような、「悪」が求められている時代はないのだ。平成22年(2010年)7月22日、まほろば会で故山浦嘉久さんは以下のように語った。これから迎えようとする大転換期(乱世)は、婆娑羅が頭角を現す時代であり、平成版の楠木正成のような「悪党」の出現が望まれる。
正に・・・。※婆娑羅 : 南北朝の動乱期の美意識や価値観を端的にあらわす流行語で,華美な服装で飾りたてた伊達(だて)な風体や,勝手気ままな遠慮のないふるまいなどをいう。語源はサンスクリット語の vajra(金剛・金剛石)の音訳バザラにあるとされる。近江(おうみ)の大名佐々木高氏(道誉)とその一族のような熱狂的〈ばさら〉愛好の武家も続出した。百科事典マイペディア電子辞書版
■和田家の正体 小生は拙稿「武士の時代 10 」で、以下のように書いた。志布志の戦争で北朝に敗れた南朝が下甑島に逃れ、同島の和田家に囲われつつ、南朝系の血筋を細々と繋いできたのであり、その子孫が後の大室寅之祐ということになる。
南朝の繋累を囲ったという、下甑島の和田家の正体は何者かと、読者は訝ったことだろう。実は、この和田家は楠木正成の直系なのである。このあたりは、拙稿「青州で思ふ(6) 」でも紹介した、飯山さんによる掲示板「放知技」への投稿の一部を参照されたい。●下甑島の和田家は、楠木正成の弟、正季系(近畿系)ではなく、楠木正成(大楠公)の嫡男、正行(まさつら、小楠公)の直系を自認しているようだが、伝説!というのが通説。 しかし、下甑島(しもこしきじま)の和田家は、楠家の直系の子孫であることを(一切公言せずも)自認しており、今に至るも徹底して後醍醐天皇側。 300年近い北朝の天下では、南朝は逆賊。その逆賊の謗り(そしり)を耐えぬいてきた! という強い「誇り」を持っている。 600年前、北朝側が南朝側を「根絶やし」にすべく、南九州は志布志まで追討してきた「証拠」(石の板碑)を見ると、下甑島の和田家こそが楠木家の本流・直系であるとの「自認」が正しい! と、私は思っています。
飯山さんも仰せのように、下甑島の和田家は楠木正成の直系と思って差し支えないだろう。こうした視座で改めて眺めると、下甑島に逃れた南朝系の子孫から、後の明治天皇(大室寅之祐)までの流れ、「薩摩ワンワールド(英国)」と「島津家」の存在、それらが複雑に絡んで現皇室にまで繋がっている裏史は、飯山史観でしか解くことはできないはずだ。 斯様に、下甑島には実に多くの謎が秘められているだけでなく、日本史の秘密を解くキーが隠されている可能性すらある。実現には至らなかったものの、一時は志布志市で勉強会をやろうという話も出たほどで、その辺りの事情は以下のPDFファイルに詳しい。 1月18日(水)、下甑島(しもこしきじま)で楠木正成家の墓守りを代々務める和田家の総代が、グルンパ運動家の飯山一郎氏に電話、「元日本郵便副会長の稲村公望先生をお呼びし、古代から中世にかけての日本の歴史について、語り合う勉強会を今春あたり志布志市で開催して欲しい」という内容だったという(具体的な日時および場所は未定)。さらに総代は電話口で、「菊の御紋を家紋とする和田家の秘話を勉強会で披露する。それにより、南北朝の争いの謎、天皇家の金塊の謎等も全て明らかにする」と飯山氏に語った…http://www.nextftp.com/tamailab/etc/study session in 2017.pdf
蛇足ながら、上掲のPDFファイルの最終行には、実に興味深いリンクが三本張られているので、この機会にアクセスしていただければと思う。■楠木正成と世阿弥 楠木正成と観阿弥・世阿弥は血縁関係にあったと、今東光和尚が『毒舌日本史』(p.210~211)で述べている。伊賀の上野に上島家と名乗る旧家があるんです。その上島家に河内国の玉櫛荘に楠木入道正遠の女が嫁に行っている。これで想像がつくように表向きは両家とも地頭の下司職ぐらいの家柄同士というところ。裏へ廻れば堂々たる悪党です。この正遠がどうやら正成の父親に当たるようです。 ・・・中略・・・ この女(正成妹)が上島家に嫁いで清次という子を産んでいる。この清次が後の観阿弥すなわち観世流祖になった。だから観阿弥は楠木正成の甥です。この観阿弥の子こそ能の大成者となった世阿弥であります。
このあたりについては、最近ではネットでも知られつつあるようで、一例として上掲の家系図を載せた「観阿弥・世阿弥は楠木正成の血族 」がある。そーみなさん、いつも投稿ありがとうございます。 太平記は黒須氏か今和尚のいずれかを読めば十分かと思います。和尚の東光太平記は確か全六巻でした。 和尚に纏わるエビソートには色々とありますが、一昨日お会いした栗原茂氏との語らいの中で、和尚は歌舞伎役者のパトロンの末裔ということを初めて知りました。そこから話が発展して、世阿弥のパトロンであった佐々木道誉にまで話が及んでいます。黒須紀一郎氏の『婆娑羅 太平記』にも、佐々木道誉が準主役の形で活躍しますのでご期待ください。 世阿弥と云えば、恥ずかしながら『風姿花伝』を未だ一度も目を通したことがないことに、今気が付きました。読みたいけど、当面は読む時間がなさそうだな…。でも、子ども達には是非に読んで欲しいので、源氏物語の現代語訳を最近出した林望氏の『風姿花伝』を手に入れ、読ませようと思います。世阿弥の『風姿花伝』は、日本の誇る最高の芸術の書であると、大勢の識者から直接間接聞き及んでいます。 投稿: サムライ | 2010年4月 8日 (木) 午前 08時07分 『真贋大江山系霊媒衆』
次回は、足利尊氏について言及する予定である。【追記 1】黒須紀一郎 旧ブログで取り上げた黒須紀の作品。『覇王不比等』 『役小角』
現ブログで取り上げた黒須紀一郎の作品。『天保蘇民伝』 『真言立川流』
【追記 2】皇居前広場の正成銅像 過日、ある読者から以下のような質問 が拙ブログに寄せられた。皇居の一角の公園に皇居を向いた楠正成公の銅像が、建てられたのも誰かが意図しての事なのでしょうか?
それに対して、小生は以下のように回答している。当時(現在も)は北朝と信じられていた皇室の公園に、何故に南朝の楠木正成の銅像が建立されたのか? このあたりは明治政府の富国強兵策と深く関与してきます。つまり、当時の政府が狙っていた民意の高揚(統一)です。
ところで、上掲の写真は皇居前広場にある楠木正成像だが、如何にも楠木正成は立派な武将という印象を受けるのではないだろうか。ところが、実際の正成はそうではなかったようだ。そのあたりは、今東光和尚が『毒舌日本史』(p.208)で以下のように語っている。宮城前広場に建っている高村光雲作の正成さんは大将軍の姿で本物とは大違い。ありゃ足利尊氏将軍にさも似たりで。本物の正成さんは大して風采もあがらねえ、河内のおッさんやね。
【追記 3】今東光×奈良本辰也対談 今東光と奈良本辰也による、実に興味深い対談がネットで公開されているので、歴史に関心のある読者に一読をお勧めしたい。今東光×奈良本辰也対談 1 今東光×奈良本辰也対談 2 今東光×奈良本辰也対談 3 今東光×奈良本辰也対談 4 今東光×奈良本辰也対談 5 今東光×奈良本辰也対談 6 今東光×奈良本辰也対談 7
【追記 4】文観 落合さんの『南北朝こそ日本の機密』で個人的に収穫があったのは、文観の人物について深く知ることができたことだ。そのあたりは、拙稿「真言立川流と今東光 2 」に書いている。 文観については、後醍醐天皇と楠木正成の橋渡しを行った人物、程度にしか小生は思っていなかったのだが、同書のp.94にある以下の記述に久方ぶりに接し、明治維新時の薩長に都合の悪い存在だったことを思い出した次第である。文観の実跡を調べると明治維新後の政界を支配した薩長政体にとって、極めて都合の悪いことが出てくる恐れがあったことです。 『南北朝こそ日本の機密』p.94
こうなると、「大塔宮の偽装弑逆を企画したのはおそらく文観 」(p.187)と、断言する落合さんの言葉が不気味に響いてくるから不思議だ。
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