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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
武士の時代 09
今回より南北朝時代について筆を進めていく。最初に、南北朝という時代のイメージを大雑把に掴んでいただく意味で、百科事典「マイペディア」(電子版)の解説を引用しておこう。

南北朝時代
1333年鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の全国統一まで約60年間の時代。以前は政治史的時代区分として南朝と北朝とに分裂した1336年から1392年の両朝合一までをいった。建武新政は武士階級を失望させ,1335年足利尊氏は京都を占拠,持明院統の豊仁(ゆたひと)親王(光明(こうみょう)天皇)を擁立。後醍醐天皇は吉野に移った。1336年から京都の北朝は建武の年号を襲用,吉野の南朝は延元と改元,以後両朝は別々の年号を設けた。現実には南朝と足利政権との対立であった。1337年新田義貞ら北陸勢力の壊滅,1343年北畠親房指揮下の常陸(ひたち)関・大宝(だいほう)両城の陥落で南朝は決定的に敗北。その後は幕府内の足利直義と高師直(こうのもろなお)との勢力争いを発端として,20年間にわたり足利一族諸将が内争を続けた。足利義満が将軍となったのち政権が強化。1392年南朝の後亀山天皇が京都に帰還して足利政権は全国統一。この間の内乱を南北朝内乱といい,内乱のなかで山陽・山陰・北陸・畿内の伝統的豪族層が没落し,荘園制を基盤とする貴族・社寺が衰退。守護は任国を領国化して守護大名となった。


室町時代という時代区分の初期に、南北朝時代が組み込まれているのがお分かりいただけるだろう。

実は、落合莞爾史観と飯山一郎史観の深奥がよく分かる時代こそが、南北朝時代なのだ。だから、1333年に室町時代、すなわち南北朝時代に突入してから60年後の1392年、時の三代将軍であった足利義満が、南北朝動乱に終止符を打ったあたりまでを、定説に従って南北朝時代とし、これを数回に分けて述べさせていただきたいと思う。

■落合莞爾の南北朝観
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小生は前稿「武士の時代 08」で、「次稿より落合史観を縦糸に、飯山史観を横糸にして、南北朝という一枚の織物を完成させていく予定」と書いた。何故なら、落合莞爾さんは『南北朝こそ日本の機密』を著しているだけでなく、後醍醐天皇の皇子である護良親王(大塔宮)の血筋を引いてるからだ(同書p.274)。

ちなみに、小生はアマゾンに「サムライ」という旧ハンドル名で、「落合莞爾氏の熱い思い」というタイトルの書評を書いたことがある。

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加えて、数年前に小生は和歌山市に居を構える落合邸「狸庵」で草鞋を脱ぎ、数日間ほど泊めて戴いたこともある。その時は栗原茂さん、天童竺丸さんも前後して狸庵で草鞋を脱いでいたのだが、彼らから耳にした南北朝に関する秘話は膨大な量になった。中には、公の場であるブログ記事に出来ない内容の秘話も実に多いのだが、これから数回にわたり支障の無い範囲で、そうした秘話もさり気なく織り交ぜて書いていきたいと思っている。

■飯山一郎の南北朝観
一方、飯山一郎さんの南北朝観につい述べるにあたり、最初に取り上げなければならないのが肆部合の石碑だ。

21020201.jpg
志布志に南北朝の秘密が隠されていた!

読者は上掲の記事「志布志に南北朝の秘密が隠されていた!」で、以下の飯山さんの記述に目が釘つげになったことだろう。

私は、じつは、この2ヶ月間、この『肆部合の石碑』という文章にハマりにハマって、パラノイアみたいになってしまい、もう何百回読んだことだろう?


〝何百回読んだ〟とは、如何にも飯山さんらしい物の言いだ(笑)。このように、白髪三千丈的な物の言いは、山東省青洲の飯山邸でも幾度か耳にしているし、てげてげHPや放知技に目を通したことのある読者なら先刻承知のはずだ。

それはともかく、『肆部合の石碑』についてだが、実は小生も二年前にサンフラワー号で志布志市を訪問、同石碑を目の当たりにしている。同石碑の前で、吉野を拠点としていた南朝が命からがら九州へ逃れたものの、足利尊氏の下知を受けた北朝が志布志まで押し寄せ、再び戦火を交えた頃にタイムスリップしたような感覚に陥ったものだ。

なを、その後の経過については飯山史観の独占場となる(他の南北朝に関する史料や論文には一切出てこない)。

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長目の浜(上甑島)

ここで、飯山さんの南北朝観を敷衍するとすれば、滅亡の瀬戸際まで追い詰められた南朝の繋累は、東シナ海の下甑島に逃れ、同島で息を潜めつつ子孫を繋いできた。その南朝の繋累を匿まっていたのが和田家であり、今でも皇室とは深い繋がりがある。繋がりがあると云うよりは、現皇室の〝金庫番〟を仰せつかっていると書いた方が正しいだろう。

ともあれ、今の時代においても鹿児島という地で見え隠れする英国の影、島津家の正体、西郷隆盛大久保利通らの行動等々、実に鹿児島は歴史の秘話で満ちた地なのだが、このあたりは小生が飯山さんから聞き及んだ範囲で、折に触れて記事にしていく所存である。そのため、次稿以降は南北朝という時代を中心に、ブログ記事のテーマが彼方此方に飛ぶかもしれないが、そのあたりは予めご承知おき願いたい。
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[2021/02/02 22:27] | # [ 編集 ]

投稿多謝
投稿有り難うございました。

「皇居の一角の公園に皇居を向いた楠正成公の銅像が、建てられたのも誰かが意図しての事なのでしょうか?」というご質問ですが、最初に以下のサイトをご覧下さい。
https://fng.or.jp/koukyo/2020/02/27/nankozo/

これで銅像建立の経緯はご理解戴けたかと思いますが、当時(現在も)は北朝と信じられていた皇室の公園に、何故に南朝の楠木正成の銅像が建立されたのか? このあたりは明治政府の富国強兵策と深く関与してきます。つまり、当時の政府が狙っていた民意の高揚(統一)です。

だから、当時という時代において楠木正成が仕えていた、後醍醐天皇を批判しようものなら、不敬罪の廉で即逮捕され、大変な目に遭ったはずです。しかし、当時、そして今でも後醍醐天皇への評価が低いのが天台宗です。そのあたりは、次回の「武士の時代」シリーズで近く簡単に言及する予定です。

亀さん拝
[2021/02/03 06:21] URL | 亀さん #FlJCcfGk [ 編集 ]

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[2021/02/04 19:23] | # [ 編集 ]


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