昨日、亡母の一周忌を菩提寺で営んできた。事前に方丈様と追善法要の打ち合わせを行い、12月13日の午前11時開始で決定、その後は細かい準備等もあったものの、昨年の通夜式と告別式、あるいは忌明けの準備と較べれば、さほどの労力にはならなかったこともあり、法要の直前まで仕事に打ち込むことができたのは有り難かった。
親戚は殆どが90歳前後と高齢であり、かつ、寺の本堂は底冷えすることが分かっていた上、コロナ禍というご時世もあって、一周忌の参列を見合わせていただくよう電話したところ、幸い親戚の全員から快く承諾を得て安堵したものである。そのため、親戚として弟夫婦と息子夫婦だけの参列となったが、それなりの法要になったと思う。
無事に法要を済ませた後、それぞれの車に分乗して食事処へ向かい、そこで会食(お斎)を行った。弟夫妻と息子の新妻は初めての顔合わせ(コロナ禍が治まるまで結婚式は延期中)ともなり、母の思い出話を中心に、互いに打ち解けた流れとなったところで御開にした。幸い、ここ一週間では一番暖かい日(18℃)だったこともあり、過ごしやすい一日になったのは有り難かった。
さて、法要は各々の人生の節目というだけではなしに、さらに大切な二つの意義がある。そのあたりを具体的に語っていたのが、拙稿「長寿の秘訣」で紹介した大愚和尚である。
【なぜ法事をするの?】繁栄する家と、廃れる家の法則
動画で大愚和尚は法事の意義について二つあると説いている。一つは「感謝」、もう一つは「進化」、すなわち冒頭の追善法要という言葉にもある「追善」である。
最初に「感謝」。花祭といった法会を行って下さる寺への感謝とか、現在の方丈様だけではなく過去の方丈様が、我々に説いて下さった教えへの感謝などを意味する。そうした感謝の気持ちを持つこと、確かに人として大切なことである。例えば昨日の法要の場合、読経後に小生は方丈様に御布施を渡しながら、「(私の)読経後はお斎を行い、故人を偲んで戴ければと思います」といった方丈様の言葉を例に、「お言葉有り難うございました。お言葉に従い、これから近くの食事処でお斎を行いつつ、在りし日の母を皆で偲びたいと思います」と、心を籠めてお言葉に御礼を申し述べたところ、方丈様には満面の笑みを返していただき、お互いに心で通じるものがあったことが直感的に分かった。
次に、「追善」。御先祖様があってこそ今の自分が在るという、感謝の気持ちを片時も忘れてはならないということもさることながら、追善もそれなりに大切な言葉だと云えよう。つまり、亡くなった人、故人が声に出せるものなら、今を生きる我々に言いたかったであろう、「私の分まで生きて、日々を精一杯生きて欲しい」。そうした故人の声なき声を真摯に受け止め、悔いの残らぬよう日々を精一杯生きていこうと、改めて思ったことだった。
なを、「感謝」と「追善」についての大愚和尚による解説は、動画の10:02あたりから始まる。
法要を終えて家に戻ると、一周忌のことを聞きつけた隣のお婆さん(89歳)が拙宅を訪問、香典をいただいたので家に上がってもらい、数時間にわたって母の思い出話に花を咲かせた次第である。過日、掲示板「放知技」にも書いたことだが、二人の息子の躾けをしてくれた母についての小生の話も、隣のお婆さんが熱心に耳を傾けてくれたのは嬉しかった。
今週末に実母の一周忌がありますが、二人の息子が幼い頃は小生もカミさんも日々仕事で多忙だったこともあり、子どもたちの躾けどころではありませんでした。幸い、戦前生まれの母が元気だったこともあり、我々に代わって子どもたちの躾けをしてもらったようなものです。そして、「お天道様に恥じない行動」といった、「幼少のときから感覚で培われる宗教観」も、子どもたちは彼らの祖母から教わって身につけた、と今では思います。だから、実に有り難い母の存在でした。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/17267547/291/
来年の今頃、今度は三回忌がある。その頃にはコロナ禍も治まり、高齢の親戚に参列して戴ける状況になっていること、心から願う。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
|