「武士の時代 02」では、飯山一郎さんの第五回外圧説、すなわちアテルイについて書き、続いて平安時代末期に誕生した平氏政権(1167~1185年)を取り上げると約束しておきながら、あちこち道草をしていたこともあり、今日にいたるまで遅々として筆が進まなかった。一段落した今、本来の飯山史観の流れに戻すべく、平氏政権の時代から再開しよう。最初に、掲示板「放知技」に投稿した伯家神道・・・。
伯家神道とは平安時代から明治維新に至るまで、宮中祭祀を司ってきた古神道を指していますが、この800年というタイムスパン、現在筆を進めている「武士の時代」の800年と、時期的に重なっています。つまり、日本列島が武士の時代に突入した頃と時期を同じくして、伯家神道が台頭してきた・・・。貴族の時代から武士の時代への移り変わり、何か大きな時代精神の変化が当時の日本列島で起きたはずです。このあたり、次稿「武士の時代」シリーズで書き表せればと思っています。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16711142/143/
本題に入る前に、上掲の投稿で小生は「800年」と書いたが、正しくは「700年」である。お詫びして訂正させていただく。
さて、「貴族の時代から武士の時代への移り変わり、何か大きな時代精神の変化が当時の日本列島で起きたはず」と書いのは、伯家神道と武家政権(平氏政権)がほぼ同時期に始まり、明治維新を迎えるに及んでともに歴史から消えていったからだ。これは単なる偶然の一致だったのか、それとも何等かの深い関連性(原因)があったのだろうかと、投稿後に調べてみたが、特に関連性はないという結論に至った。
そのあたりは、ウィキペディアの「伯家神道」項の小項「前史」を一読すれば分かるので、以下に引用させていただく。
律令制のもとで、神祇官の長官である神祇伯には、当初は大中臣氏が任ぜられ、後に藤原氏や源氏など他の氏族も任じられるようになった。花山天皇の皇子清仁親王の王子延信王は万寿2年(1025年)に源姓を賜り臣籍降下すると、永承元年(1046年)に神祇伯に任ぜられた。神祇伯は延信王の後、その子康資王、三条天皇の皇曾孫敦輔王、大中臣親定、村上源氏の源顕房の子顕仲、顕仲の甥顕重と補任された。康資王の孫の顕広王が永万元年(1165年)に神祇伯に任ぜられて以降、その子孫によって神祇伯は世襲されるようになり、後にこの家系は「白川家」や「伯家」、「白川伯王家」と呼ばれるようになった。
よって、藤原道長の時代にピークを迎えた貴族政権の衰退に合わせて、次第に武士が力を持つようになり、最終的に平氏政権の誕生に至ったというのが自然な考え方と云えそうだ。ちなみに、「平氏政権」項の小項目の「意義と評価」には、貴族政権から武家政権へ移行した原因の一つとして、以下のように書かれており、「貴族社会の対応能力の無さ」が原因とする解説に、小生は同意するものである。
『平家物語』や『愚管抄』など同時代の文献は、平氏滅亡後に平氏政権に抑圧されてきた貴族社会や寺社層の視点で描かれてきたものが多い。従って、後白河法皇が自己の政権維持のために平氏を利用して、高い官職を与え知行国を増やさせてきたという経緯や当時の社会問題に対する貴族社会の対応能力の無さという点には触れず、清盛と平氏一門がいかに専横を振るい、「驕れる者」であったかを強調している。そのため、以後の歴史書もこの歴史観に引きずられる形で「平氏政権観」を形成していった。
ただし、貴族政権の衰退から一気に武家政権になったわけではなく、段階を踏んで武家政権へと移行したことが分かるのだし、治承三年の政変(1179年)に平氏が国家機構の支配権を掌握した時点を以て、真に平氏政権が成立したとする見方もあるようだ。
それから、40~50年ほど前、すなわち1970~80年代あたりまでは、平氏政権は武家政権ではなく貴族政権だったとする見方が、多くの歴史学者の間にあったことを指摘しておきたい。そのあたりの詳細は、上掲のウィキペディアの「平氏政権」項の小項目、「意義と評価」を参照のこと。
平家物語 祇園精舎/岩佐鶴丈
ともあれ、平氏政権が終わり、時代は鎌倉時代へと突入していった。次稿では、その鎌倉時代を取り上げる予定である。
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