7月31日を最後に、一ヶ月近くブログ記事の更新が滞ったが、その間にも国際情勢は刻一刻と目紛るしく変わり、書きたいと思った米中衝突シリーズのテーマが次々と出てきた。だが、今や個人的に最も関心を抱いているのは、二ヶ月後に迫った大統領選だ。だから、数日前に行われた民主党大会と共和党大会の諸スピーチ、自分的には一通り聴いてみたいとは思っていたが、時間的な余裕がなく、忸怩たる思いをしていた。そんな折、ケント・ギルバード氏が民主党大会で行われたスピーチを、一通り聴いた上での感想を述べた動画をアップしていたので、以下に紹介しておこう。米国大統領選挙の行方を占い、今後の米国における潮流を掴む上で優れた動画であり、かつ民主党の正体を白日の下にさらした動画だと云えよう。
ケント・ギルバートが感じた『恐ろしい米民主党大会の裏側』
さて、今回のテーマとして、過日の河野太郎による皇室発言を取り上げたい。詳しくは、以下の産経新聞の記事を参照のこと。 河野防衛相が女系天皇容認論 次の天皇「内親王のお子さまも」

掲示板「放知技」では、同テーマについての投稿は今のところないが、小生が登録している「世界のかわら版」の場合、以下のような感想を述べていた。
河野防衛大臣、女系天皇容認発言以上の発言
概ね、エドワード氏の意見には賛同するが、河野防衛相が斯様な発言をするのも、同氏の過去の歩みを鑑みれば、これは致し方ないことだと思う。そのあたりについて理解しておくことは、実は大変大切なことなので、以下に簡単な解説を試みておきたい。

小生が二十代の頃、河野氏の父親である河野洋平の政治活動に、大変期待していた一時があった。河野洋平を熱烈に支持していた福島の親友に勧められて、『拍手はいらない―新しい政治を求めて』(河野洋平 PHP研究所)を入手して目を通したこともある。その親父の息子ということで、小生は河野太郎氏の政治活動のニュース等に時々目を向けてはいたが、所詮はその程度であった。だが、果然同氏の言動に注目し出したのは、2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣において、国家公安委員会委員長、そして内閣府特命担当大臣として初入閣を果たした時からである。その後の同氏の言動については、概ね小生は好意的に捉えていたものの、一方で何処か「引っ掛かる」ものがあった。それは、同氏がジョージタウン大学卒(国際学部比較政治学)だったということである。
同大学のOBにビル・クリントン前米国大統領(民主党)の他、ロバート・ゲーツやジョージ・J・テネットといった、歴代のCIA長官が目に留まる。日本人では河野氏の他に、国連高等難民弁務官だった緒方貞子女史、前衆議院議員で現在は群馬県知事の山本一太氏らも、同大の卒業生であることはつとに知られている。加えて、拙稿「米中衝突と媚中派」で小生は、CSIS(戦略国際問題研究所)というシンクタンクを取り上げているが、CSISは1962年にジョージタウン大学が設けたシンクタンクであり、後に学外組織としてスピンアウトして今日に至っている。
その意味で、ジョージタウン大学卒である河野氏の言動については、なんとなく「引っ掛かる」ものがあったのであり、そのため一歩距離を置いて同氏の言動に注目していた次第だが、今回の発言(上掲の産経新聞記事)を読み、漸く今までの「引っ掛かり」の正体が明確に浮き彫りになった形だ。
その正体とは、ズバリ、河野氏の天皇観、すなわち日本観の底の浅さである。小生は拙稿「貴族の時代 03」で以下のように書いた。
この「平等」という思考行動様式が、日本人の民族気質になったのも、日本列島が北半球では唯一の温帯に属する列島だったからだと武田氏は語っていたが、このあたり、上掲のブログ記事で小生が主張した、「日本列島に答えを求めるしかない」と根底で繋がっているのだ。そうした他の地域にはない、「平等」という民族的気質を醸成した、日本列島に住む人たちの間から世界唯一の「天皇」が誕生した。つまり、世界の他地域で誕生した「王様」とは、根本的に異なるのが天皇なのである。
今でこそ、上掲のような天皇観を持つに至った小生だが、嘗てはそうではなかった。寧ろ、五十代前半あたりまでは今の河野氏と同様な天皇観の持ち主だったのである。ちなみに、河野氏は1963年1月10日生まれと、1953年生まれの小生とはちょうど十歳の年齢差がある、しかし、五十代後半以降の小生は、次第に河野氏のような天皇観から脱却できたわけだが、それは個人的な人脈が国際派の人たちから民族派の人たちへと、変わりつつあった時期と一致している。
ここで、河野氏と小生の若い頃について述べてみたいと思う。
河野氏も小生も十代の頃、アメリカでの留学生活を体験している。河野氏の場合は1981年(昭和56年)4月に慶應義塾大学経済学部経済学科に入学するも二ヶ月で退学、その後は渡米し、最終的には1985年12月にジョージタウン大学を卒業している(河野氏は途中でポーランド留学もしているのにも拘わらず、僅か三年ちょっとで同大を卒業しているのは意味深長だ)。小生の場合は卒業こそしなかったものの(貧乏だった上、卒業するだけの学力もなかった)、サンフランシスコ大学での留学を体験した後、帰国して民間の会社数社に務めた後、45歳を境にサラリーマン世界から足を洗い、独立開業の世界(翻訳)に飛び込んでおり、爾来二十年以上の時が流れた。
神計らいで、その後は民族派ジャーナリストの山浦嘉久さん、世界戦略情報誌『みち』の天童竺丸編集長といった、民族派とでも云うべき人たちとの知遇を得たことで日本文化に覚醒、今日に至るわけだが、一方の河野氏の場合はウィキペディアの「河野太郎」項に目を通せば分かるように、民族派の人たちとの交流は殆どなかったことが分かるのだし、今でも国際派の人たちとの交流が中心であること、容易に気づくはずだ。
個人的な体験から云えば、一度は多くの民族派の人たちとの交流の体験を持たないことには、その人の持つ日本観、ひいては天皇観が底の浅いままで終わってしまう恐れが高く、今の河野氏もその例外ではない。よって、河野氏の場合、外務大臣といった要職までは任せられるものの、とてもではないが総理大臣を任せたくない人物であると、今回の発言でつくづく思った次第である。
では、来年の九月に任期を終える安倍総理の後継者に、誰がいるかと改めて問われれば、一人だけいると今のところ答えるしかない。それは、安倍晋三その人である。そのあたりは、日本の大手マスコミが決して取り上げることのない、最近のインドとの交渉に向けた成果からもそのように確信できるのだし、日本観・天皇観についても、安倍総理のそれは本物なので、安心して日本を任せられると云えよう。 2020年9月にモディ首相と日印首脳会談
ちなみに、安倍一族は現在の皇室よりも格が上であること、脳裏に刻んでおこう。 安倍晋三のルーツ
【追補1】 以下は、某国際コンサルティング会社のホームページに掲載された拙稿である。14年前(53歳)当時の己れの日本観が赤裸々なのは恥ずかしい限りだ。
最終章 思い出のサンフランシスコ 西漸運動が盛んだった19世紀のアメリカ。当時の若者たちの血をたぎらせたスローガンに“Go West, young man.”(若者よ、すべからく西部へおもむけ)がある。その言葉を地でいくが如く、グレイハウンドのバスに乗ってニューヨークを発った私はひたすら西を目指した。4日目の朝、バスがベイブリッジを渡った時、一ヶ月ほど前に数日間滞在しただけの街なのに、妙な懐かしさを覚えたのは何故だったのだろうか。
そのサンフランシスコには一年半近く暮らした。最初はアダルト・スクールという、アメリカに移民して来た人たちを対象にした無料の英会話学校に通った。そのアダルト・スクールには世界中の国々から若者達が集まっていた。殊に中南米の若者が多く、半年間にわたって中南米を旅した私は瞬く間に彼らと友達になったのであり、今では良い思い出だ。当時の筆者はサンフランシスコの中心街に近いアパートに住んでいた。そして、折りあるごとに中南米の友人をアパートに招待しては、ニューヨークで覚えた日本料理の腕ふるいご馳走を振る舞ったのである。彼らとは喧嘩をしたこともあるし、情熱的な中米の女の子と恋に落ちたこともあった。
その後、ふとしたきっかけでサンフランシスコ大学の今村茂男教授と知り合い、同大学に通うことになった。同時に、新聞の求人欄を見てハウスボーイ(簡単な家の手伝いをする代わりに、部屋を提供してもらって学校に通う青年の意)の仕事を探した。何軒目かの家に電話を入れ、ようやくハウスボーイとしてアメリカ人の老夫婦の家に住み込むことが決まった。場所はサンフランシスコの街全体を眺望できるツインピークスにあった。サンフランシスコ大学へも近いので都合が良かった。講義のない日は家の回りの簡単な芝刈り、家の中の掃除を行った。老夫婦との日常会話は当然英語であり、ここでかなり英語力、特にヒアリングが伸びたように思う。その家の娘さん夫妻が時々里帰りしてパーティを開いていたが、その時に知り合ったアメリカ人の友人たちとは今でも毎年クリスマスカードの交換を行っている。
サンフランシスコ大学時代の今村先生は、残念なことに8年ほど前の1998年に姫路市で76歳の生涯を閉じている。その今村先生が遺した本に『神風特攻隊員になった日系二世』(今村茂男著 大島謙訳、草思社)というのがある。同著の書評を書いた他の読者も異口同音に述べていることだが、同書で一番印象的な下りが「命を賭ける価値のある争いなんて、どこにもない」という今村先生の「遺言」だろう。最近の日本は重苦しい閉塞感に覆われており、いつか来た道に戻りつつあるのではと危ぶむ声が多く、ブログ『きっこの日記』でも「このまま行けば、今の小学生が高校生くらいになったころには、韓国みたいに徴兵制度が導入されて、16才以上の国民には召集令状が届くようになるだろう」と書いている。 「トンデモ法案炸裂!」
また、国際政治コメンテーターの藤原肇氏も自著『小泉純一郎と日本の病理』の中で、「もし、中国と本当に衝突するようなことになれば、アメリカは近代装備した日本の軍事力を利用して、アジア人同士を戦わせるに決まっている」(P.260)と述べているのだ。
1970年代初期は日の出の勢いであった日本であったが、長引く平成不況のため今の日本は本当に元気がない。あの当時の輝きは何処に行ってしまったのだろうか。人々は不満の捌け口戦争に求めるのだろうか。これでは何時か来た道に逆戻りすることに他ならないではないか。街頭インタビューで、「戦争になった日本のために戦う」と簡単に口にする若者たちを見るたびに、やりきれない気持ちになるのは筆者だけだろうか。今後は己れの腕一本で生活の糧を得ていかねばならない時代に生まれた今の若者には、日本の通貨である円の信用が未だ残っているうちに世界を旅するなり、海外の大学で研鑽を積むなりして、広い世界で武者修行をして欲しいと切に願うのである。そして、そうした若者たちこそが戦争への歯止めとなってくれるような気がしてならない。筆者もブログ【教育の原点を考える】で清沢洌の『暗黒日記』の書評を書くなどして、ブログを訪れる一人でも多くの若者たちに日本脱藩のすすめを説き続けていきたいと思う。 「暗黒日記」
ともあれ、筆者は無事に1974年の暮れに日本に帰国した。一年間続いた拙稿をきっかけに、一人でも多くの若者が今の日本を「精神的」に脱藩し、清沢の云う「広汎なる総合的知識」を身につけてくれることを祈念しつつ筆を擱く。

2006年6月吉日
【追補2】

上掲の拙稿「最終章 思い出のサンフランシスコ」にも登場する、故今村茂雄先生はアメリカでこの世に生を享けているが、日米関係の悪化で両親と一緒に日本に帰国、若い頃は周囲よりも皇国少年だったという。今から思うに、小生が国際派から民族派に転向できたのも、ある意味、先生のお陰だったのではと今にして思う。以下はDuncan氏という人物のカスタマレビューだが、サンフランシスコ大学で大変お世話になった今村先生を思い出し、胸が熱くなったことを告白しておく。

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