前稿「貴族の時代 05」で小生は、日本書紀が百済三記のコピーというだけではなく、中臣鎌足も〝コピー〟であると書いた。ここで読者は、では中臣鎌足は〝誰〟のコピーだったのか? という点に関心を抱いたことだろう。

最初に、民間の歴史家・関裕二氏の場合、中臣鎌足の正体は余豊璋(百済最後の王となった義慈王の王子)であるとしており、題名もそのものズバリ、『豊璋―藤原鎌足の正体』(河出書房新社)という本を著している。2019年11月19日の刊行とあるから、比較的新しい本だ。残念ながら、小生は未だ同書に目を通していない。また、同氏の他の著作のいずれにも目を通していないのだが、息子が同氏の書籍に数冊目を通しているというので、どのような内容の本なのか、今度訊いてみたいと思っている。

その他に、藤原鎌足の正体を「金庾信(新羅の将軍)」+「郭務悰(唐の官吏)」と説く、やはり民間の歴史家がいる。故飯山一郎さんが晩年に取り組んでいた、『天皇系図の分析について』の著者・藤井輝久氏だ。ここで、上掲の関氏の著作の刊行は2019年秋と比較的新しいことから、それよりも14年前に出版された、藤井氏の本を関氏が参考にした可能性はある。ともあれ、両者とも中臣鎌足コピー説で一致しているのは面白い。できれば関氏の著作に目を通した上で、藤井氏の本と比較してみたいと思うのだが、近く本業(翻訳)が以前のようなペースに戻ることから、当面はお預けになりそうだ。
ところで、どのていど関氏が史料として百済三書を参考にして、『豊璋―藤原鎌足の正体』を書いたのかは分からないものの、藤井氏の『天皇系図の分析について』の場合、百済三書を重要な史料として徹底的に分析しているのが分かる。そこで、百済三書について簡単な解説を書いておこうと思ったが、その前にネット検索をかけてみたところ、百済三書と日本書紀の関連性について言及した論文、「『日本書紀』編纂史料としての百済三書」と出会ったので、両国(百済・日本)間の史書の比較論について、関心のある読者は同論文に目を通すと良いだろう。参考までに、同論文の「要旨」を本稿の最後に転載しておいた。
次に、藤井氏の『天皇系図の分析について』の場合、中臣鎌足の正体について詳細に書いてある章が無いものかと確認してみたところ、同書の第六章「大化の改新は架空の物語」に目が留まった。同章の第三節「中臣鎌足は、藤(唐)のGHQの郭務悰」で、鎌足を多角的に取り上げていたのである。ご参考までに、同章の第三節は以下のように六項で構成されている。
(1)『善隣国宝記』所引の『海外国記』にある「唐」の人の郭務悰 (2)郭務悰への疑義--この「壬申の乱」の仕掛け人は、やはり合成人間だった (3)謎の将軍・郭務悰の正体は新羅使の金押実か (4)外国の記録に見えない「大化の改新」 (5)藤原不比等の正体 (6)倭国の古代年号の大化(丙戌)六八六年を、日本国は「新」大化(乙巳)六四五年に移動してしまった
どのような内容の節なのかを読者に知っていただきたく、(1)『善隣国宝記』所引の『海外国記』にある「唐」の人の郭務悰」項を、本稿の最後に転載しておいた。関心のある読者は、一読されるとよい。
繰り返しになるが、ここで改めて書いておこう。小生は天武天皇の御代を以て、「日本の歴史が始まった」と過去に幾度か書いているが、ここで忘れてはならないのは、当時の日本の支配層のほとんどが渡来人であったということだ。藤井氏の場合、確か98.5%の支配層が渡来人であったと、上掲書の何処かで書いていたのを朧気ながら覚えている。
それにしても、日本列島は実に摩訶不思議な処で、天皇を一人だけ立て、残りの住民全員が平等という、他にはない構造に収斂されていった列島なのである。どうして、そのようなことが可能だったのかについては、拙稿「貴族の時代 03」で述べた、「日本列島」、「天皇」、「日本人」の三つのキーワードに深く関与してくるのであり、ここでは繰り返さない。
ともあれ、藤原氏は娘を天皇の后にするという外戚戦略をとり、摂政や関白を務め、政治を代々独占、貴族型政治を実現させた。そして、藤原道長の時代に藤原氏は絶頂期を迎えたが、その後は衰退、今では嘗ての栄光は無きに等しいとは云え、今日でも名家として続いていることは、拙稿「天武天皇 17」にも書いたので詳細は割愛させていただく。
ところで、次回の飯山史観についてだが、「米中衝突」シリーズにも目を通していただいている読者は先刻承知のとおり、6月30日に香港国家安全維持法の再審議で同法が成立、本格的な米中衝突に向かうことは避けられなくなってきた。よって、当面は「米中衝突」シリーズに力を入れていくこと、予めご承知のほどお願いしておきたい。
【参考史料01】 以下は、『日本書紀』編纂史料としての百済三書」という論文の要旨である。
本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。
なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。
【参考史料02】 以下は、『天皇系図の分析について』の第六章「大化の改新は架空の物語」の第三節・一項である。
第三節「中臣鎌足は、藤(唐)のGHQの郭務悰」
(1)『善隣国宝記』所引の『海外国記』にある「唐」の人の郭務悰 しかも、更に重要なことは、この「大化の改新」と「毗曇の乱」とで当事者までもが全く同一だったということなのです。少し難しくなりますので、必ずやアナタは末巻の図表を指で示して見ながらこの間題をお考え下さい。
何故ならば「奈良紀」(お手本は新羅史)における天智・中大兄のモデル(但し、今日の平安紀では二分の一。平安紀では合成人間とされてしまっておりますので)は新羅29武烈王・金春秋(在位六五四~六六二年)であり (二三7)、同じく「奈良紀」における中臣鎌足のモデル(但し、今日の平安紀では二分の一。平安紀では合成人間とされてしまっておりますので)は新羅(但し、もともとは、金官王家=倭王)の金庾信将軍だったからなのです。
しかし、日本紀によりますと、次のように、大化三年(六四七)十二月に、この金春秋が倭国に連れて来られたことになっております。
「新羅遣上臣大阿飡金春秋等……仍以春秋為質」(孝徳紀)
ところが、この年が国際的に見まして一体どういう年であったのかと申しますと、この金春秋が文正(子)と共に唐の太宗皇帝のもとに行っておりますので、金春秋自身が倭国へ来ているかどうかは大変疑問なのです。不可能に近かったのです。
しかも、そのことに加えまして、春秋はその帰途、海上で高句麗兵に見つかり、従者の温君解を身代わりとして小舟で命からがら帰国しているのです。
ですから、現行平安日本紀では、百済系の作者が、新羅が派遣した単なる使者を王子の金春秋と故意に「取り替え」て記してしまっていた可能性が大であったのです(奈良紀のレベルのモデルでは、素直に天皇として記載されていたからなのでしょう)。
ですから、実際には、この時は(この時も)金春秋は日本列島へは渡来していなかったのですが、しかし奈良紀での作文では既にモデルとして入れられてしまっていたのです。
*但し、このときの新羅王子は人質などではなく、逆に、新羅支配下の倭国の支配者としての大王・天皇(物語上のことですから)として記してあった筈です。
これらのことを、端的にマトメて申しますと、奈良紀におきましては、「天智天皇のモデル=新羅・金春秋」であり「中臣鎌足のモデル=新羅・金庾信」となっていたのです。
さて、そういたしますと、「大化の改新」での「中大兄(天智)と鎌足」との関係は、それは、とりも直さず、そのモデルとなった新羅の「毗曇の乱」におけます「王子だった頃の金春秋と将軍・金庾信」との関係と全くイコール(ピッタリ同じ)だったということが判ってまいりまして、両事件はその内容、時期のみならず当事者までも、つまり、その全てにつきまして、これまた全く同一だったということになってしまうのです(もう一度、巻末の図表をご参照下さい。今後も時々ね)。
次に、蘇我入鹿が「朝鮮人」に殺されたことと、その殺した彼の天智大王が百済人であったということは、日本紀自らの記載の分析からも明らかだったのです。
と申しますのも、日本紀が言うところの「韓人」とは百済人のことだからなのです。その証拠といたしましては、「言韓人者百済也」(欽明紀十七年十月割注)という日本紀の記載自らが、そのことを示していてくれたからなのです。
だからこそ、「大化の改新」の入鹿暗殺の現場を目撃した古人大兄が「古人大兄 曰 韓人 殺 鞍作臣(朝鮮人が蘇我入鹿を殺した)」(皇極三年六月十二日)と言ったと日本紀には記されております。この韓人とは、「百済人」のことを指していたことになるのです。
つまり、素直に文字通りに考えれば、目撃した古人大兄が「韓人が入鹿を殺した」と言ったということは、これは平安紀でのメルクマールにおきましては、百済人が入鹿を殺したと表現されていたことにならざるをえないのです。
そういたしますと、天智大王のモデルが、その前の奈良紀では新羅の太祖武烈王であったものに、「韓人=百済人」が二分の一加えられ、つまり、平安紀での改竄では「新羅・太祖武烈王+百済・王子余豐璋」とされてしまったということ--天智天皇(皇子の頃の中大兄)が殺した(後述)--とも、正に、ピッタリと合致して来るのです。
このように、後の「平安紀」(現行『日本書紀』)におきましては、この点が物の見事に改竄されてしまい、この奈良紀での「新羅王子」に「百済王子」がプラスされてしまったということが、これでアナタにもよーくお判りになられたことと思います。
ですから、古人大兄が「百済人が入鹿を殺した」と言っておりますこととも、平安紀上では整合性が見られるのです。
では次に、「大化の改新」のもう一人の立役者でもございます中臣鎌足の方について考えてみましょう。
平安紀でのこの合成人間の中臣「鎌足=カマソ」の残りの二分の一のモデルとは一体誰のことであったのか、ということについて考えてみますと、それは「唐=藤=トウ」人系の百済人と思われます「GHQ=占領軍最高給司令官」の郭務悰が、その「二分の一」のモデルだったのです。
では、何故、郭務悰が唐(藤)務憬なのかと申しますと、「郭務悰=カマソ」というその名に秘められた謎に加えまして、次のような証拠も存在しているからなのです。
それは、『善隣国宝記』(相国寺の僧瑞渓周鳳の外交史、文明二年(一四七〇)。三1)年〔二四七Q増三1)には、郭務悰のことを、何と!「唐務悌」(『善隣国宝記』所引の『海外国記』天智十年[六七一]十一月)と、ズバリ唐人の務悰であるとの表記が見られるからなのです。「唐=トウ=藤」でありますので、これは合成氏族の藤原氏の四族のうちの一部に唐人も入っていたこと(への繋がり)を示す紛れもない証拠の一つだったのですが、この「藤」が「唐」のことだったことにつきましては既に前述いたしました(三3)。
*右に加えますに、光明子の署名も、単に「藤三娘」(『楽毅論』奥書)とされておりますよ(フヂ=トウ)。 このように、「藤=フヂ=比自火」であり、かつ、「藤=トウ= 唐」ということをも、この「藤の字」は意味していたのです(別述)。 このように、平安紀におけます中臣鎌足の「二分の一」のモデルは、この郭(唐=藤)務悰だったのです。
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