「貴族の時代 03」では、日本史を俯瞰する上で不可欠な三つのキーワード(日本列島・天皇・日本人)、「貴族の時代 04」では、武田(邦彦)史観について言及、本来の飯山史観の内容から大分横道に逸れてしまった感があったが、今回より再び本来の飯山史観の記述内容に戻したいと思う。よって、藤原氏の出自あたりから飯山史観を再開することとしたい。
さて、この藤原氏だが、始祖の中臣鎌足は中臣氏の一族とされている。通説によれば、中臣氏は忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、始祖は天児屋命(あめのこやねのみこと)という神とのことだ。
しかし、天皇(天武天皇以前は大王)を頂点とする日本列島の支配者たちは、大方が渡来人(3~7世紀にかけて、主に中国大陸や朝鮮半島から、日本列島に移住してきた人々)であり、それ以前に日本列島にいた原日本人とは異なる人種だった。
ここで、原日本人と書いたが、元々彼らの遠祖も遥か昔に、日本列島に流れ着いた〝渡来人〟であったことに変わりはない。
尤も、原日本人といっても、脱アフリカを果たした人類が、日本列島に到着して棲み始めた遥かな昔を考えるに、我々の祖先という祖先は全員、朝鮮半島を含むユーラシア大陸から渡来、あるいは南方から黒潮の流れに乗って日本列島に辿り着いた、〝渡来人〟だ。 天武天皇 17
上掲の拙稿「天武天皇 17」で中臣氏の出自について、ソグド人説・南方系説という具合に諸説があることを紹介、小生自身は中臣氏の出自について以下のように書いた。
中臣氏は原日本人という可能性も僅かだが残っているので、今の時点での判定は控えたい。
その後の小生は、古墳時代に豪族たちが渡来する前、日本列島にいた原日本人の民族性を多角的に考察してみた。それで改めて思ったことは、原日本人は外来のもの(人・物)を一旦は受け容れ、やがて自分たちのものにするという、寛容性を持っていた人たちで、同時に人としての優しさを兼ね備えた人たちあったということだ(「貴族の時代 03」参照)。
だから、拙稿「天武天皇 19」で紹介した、「多武峰縁起絵巻」(一部)に描かれている中臣鎌足は、クーデター(乙巳の変)を起こした側だったが、蘇我入鹿の首を刎ねる側にまわった中臣鎌足、原日本人が本来持っていたはずの「優しさ」というものが欠片もない人物、ということが容易に想像できよう。確かに、原日本人のDNAを引き継ぐ我々から見ても、蘇我入鹿の首を刎ねた〝中大兄皇子〟、そして弓矢を手にしている〝中臣鎌足〟にしても、絵巻に描かれているのは残忍な人物像だ。このあたりを考えれば、やはり中臣氏は間違いなく、古墳時代に日本列島にやって来た渡来人の豪族の一つで、それも渡来して日も浅い一族だったのではと思っている(尤も、乙巳の変が史実だった場合の話だが…)。
とすれば、中臣氏は古墳時代の何時頃、何処から渡来してきたのか? このあたりについての正確な情報は、現時点で確認することはできないので当面の宿題とし、今回は『天皇系図の分析について』(藤井輝久著)を叩き台に、鎌足本人あるいは鎌足の遠祖が日本列島に渡来した時期、および何処から渡来してきたのかについて検討してみよう。
最初に、上掲書の第四章「有名な貴族の故郷「本貫」は朝鮮半島だった」の冒頭で、藤井氏の書き出しは以下のように始まっている。
日本列島での主要な「支配者=貴族」の殆どは、早いか遅いかの違いがあるにせよ、、皆、渡来人だった
続いて、同章の第一小節「藤原氏の本貫は南韓の「昌寧」伽耶」(p.163)で、藤井氏は中臣氏の本貫を以下のように書いた。
「藤原氏=中臣氏(中=ナガ=蛇=朴氏。倭人)」であり、その本貫は、朝鮮半島南部の比自㶱(昌寧伽耶)
 上代語で読む日本書紀〔仲哀天皇-神功皇后(1)〕
ここで、「倭人」という言葉が出てきた。小生は藤井氏の『天皇系図の分析について』を通読したわけではなく、確認作業で必要な箇所を都度、目を通したに過ぎないこともあり、藤井氏の倭人観は知らない。しかし、改めて強調しておきたいのは、倭人は日本人ではなかったという点である。拙稿「応神天皇の秘密(3)」で引用した、山形明郷先生の言葉を思い出していただきたい。
倭人は現韓半島の南部、すなわち慶尚南道の海岸地帯から、全羅南北道の広汎な地域にわたって住んでいた『在地原住民』なのである。その居住区域は、極めて広く、また、その数は厖大なものであったと思われるのである。 『卑弥呼の正体』p.210

倭国の版図紹介ついでに、時代を下った百済・新羅・伽耶の正誤版図を以下に並べておこう。この両版図を載せたのは、拙稿「青州で思ふ(5)」であった。

尤も、倭人=日本人が今の日本における通説になっているので、注意が必要だ。たとえば、デジタル大辞泉は「倭」を以下のように定義している。
1.日本人の住む国。古代、中国から日本を呼んだ名。 2.(和)日本のものであること。日本的であること。「和の技術」「和に親しむ」
ところで、藤井氏の著した『天皇系図の分析について』の要諦は、最近の世界戦略情報誌『みち』(六月一日号)シリーズの一つ、「常夜燈」(p.16)にあった、以下の記述が語っていたので、一部引用の形で紹介したい。藤井氏の師匠筋にあたる鹿島曻氏の書籍の多くに目を通した身として、鹿島氏の主張する「日本書紀は百済記のコピー」は正しいと思っているので、素直に読める記事であった。
▼藤井輝久氏の主張は「古事記偽書説」などというような生やさしい代物ではない。偽書説ならば、問題の書物が後世にデッチあげた偽物だと糾弾しているだけで、本物が別にあることは何も否定されていない。だが、藤井氏の言うところは、もっと激しく辛辣で容赦がない。
まず、そもそも日本に独自の天皇などはいなかった。扶余系の百済勢力に属する豪族と、長らく高句麗の属国だった新羅に組する豪族とが各地に割拠・対立していた半島勢力による草刈場であったに過ぎない、と藤井氏はにべもない。
この主張は相当にショックである。日本列島には各地に自生した独自の勢力があって、その勢力が互いに殲滅し尽くすのではなく、ある時点で連合国家を作ろうと「談合」した結果として、大和朝廷が成立したと、古事記と日本書紀に従って素朴に私は考えてきた。前方後円墳もまた半島オリジナルで日本が模倣したと主張する韓国人をもうわれわれは笑えないのか?
つまり、以下の飯山さんの言いではないが、日本書紀といった書籍だけではなく、実は人物も百済の〝コピー〟だったことが、藤井氏の本に書かれていることが分かる。流石は鹿島氏の高弟と思ったものだが、それはともかく、上掲の記事は中臣鎌足も、実は実存の人物ではなかったことを暗に示していると云えよう。
では、中臣鎌足は誰のコピーだったのか、このあたりについては、次稿で取り上げることにしよう。
「天智天皇」も「壬申の乱」も,百済や新羅や伽耶の歴史書のコピーだった!
ま,この「説」が↑↑正解でしょう. http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16057898/936/
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