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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
天武天皇 19
思えば、天武天皇シリーズを開始したのは昨年の6月11日(「天武天皇 01」)、かれこれ一年近くの月日が経過したことになる。その間、本業(翻訳)で多忙を極めたこと、その他が重なり、遅々として天武天皇シリーズの執筆が進まなかった。

そんな矢先、降って湧いたような新型コロナウイルスの発生、瞬く間に世界中に伝染し、人々を恐怖のどん底に陥れた。それに伴い、最終的な顧客である世界各国の自動車メーカーや機械メーカーが、軒並み自社工場の閉鎖を余儀なくされたこともあり、それに伴って小生の仕事(翻訳)も激減、ここ半年にわたる多忙だった日々が嘘のようだった。しかし、物は考えようで、今までの飯山史観編集の遅れを一挙に取り戻すべく、精力的に飯山史観に取り組める時間ができたことは有難い。それでも、いつまでもこの状態が続くようであれば困るし、秋口には従来の仕事量に戻るだろうと思っているのだが、果たして…

さて、18回に及ぶ天武天皇シリーズを振り返り、いろいろと検討を重ねた結果、一年近くにわたって続けてきた天武天皇シリーズ、今回を以て一応終了することにした。再び本業(翻訳)で忙しくなる前に、天武天皇以降の時代について出来るだけ筆を進めていきたいと思う。よって、今回は計18回続いた天武天皇シリーズの総括とする。

本記事のカテゴリ名「飯山史観」が示すとおり、本カテゴリに書いている記事内容は、故飯山一郎さんの古代史観を一枚のファイルに纏めるにあたって、飯山さんが遺してくれたHP記事と掲示板「放知技」への投稿を中心に、飯山さんの古代史観を纏めていく過程で思ったことや、気づいたこと書き連ねた、謂わば作業日誌である。今のところ、150本ほどの記事数になる見込みだが、最終的に一枚のPDFファイルに仕上げる段階で、重複している箇所や削除すべき箇所、逆に追記すべき箇所が多く出てくるものと思われることから、すっきりと一枚のファイルに纏める作業に着手するのは、150本の記事を書き終えてからにしたいと思っている。ただ、何分にも総編集に向けた確認作業に多くの時間を取られている現状から、そうした仕上げの段階に進むまでには、当初計画していたよりもかなり時間がかかりそうで、もしかしたら二~三年がかかるかもしれない。よって、完成するまでは、健康に留意し、ヨガや散歩等を積極的に行い、玄米を中心にした一日一食主義を貫徹していくつもりだ。

では、さっそく天武天皇シリーズの総括に入ろう。

まず、飯山一郎さんが遺してくれた、飯山史観の〝物差し〟二本を以下に再掲してみよう。

「日本」という国家の出発点は,歴史的には,五つある.

 1.天武天皇の「日本建国」による脱唐国支配国家

 2.藤原(不比等)氏による貴族支配型律令国家

 3.徳川家康による武家支配型・幕藩体制国家

 4.明治政府による脱植民地型海外進出国家

 5.敗戦後の米国による占領・属国支配型国家

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16034724/370/


続いて、もう一本…

日本の歴史は,外圧と占領により大変化します.
その「外圧と占領」は,今までに7回半ありました.

第1回目は,紀元前1万5千年前頃.コロポックル小人族や石器文化人が住む日本列島に土器文化人が侵入.縄文文化が始まる.

第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住してきて,移動型の縄文人に代わり農作定住民族が主流になる.いわゆる「弥生時代」.

第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入してきて,日本は豪族・古墳文化の時代になる.


第4回目は,7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入してきて,天皇制国家「日本」を建国する.

第5回目は,9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧),京の征夷大将軍が征伐するも,日本は貴族社会から武家国家に変容.

第6回目は,19世紀.英国が「カラー革命」を策謀し,坂本竜馬,高杉晋作らの「尊王派」や「倒幕派」を扇動して,幕藩体制の徳川国を倒し,西欧文化万歳!の明治新国家を建国させ,英国による間接支配が始まる.

ただし,高杉晋作は上海から帰国後,西欧列強の「カラー革命」を見抜いていたが…,明治維新の前年,29才で死去.
この高杉晋作の「無念と残念」を,安倍晋三は熟知している.

第7回目は,20世紀.大東亜戦争に敗北した日本は,米国の占領下に入り,以後70年間,米国の植民地・属国となる.

第8回目は,現在進行中だが,日本は,米国の支配下から脱するため,ロシアとの同盟関係に入る.← いまココ.

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16155707/828/


赤文字で示すは、今回で終わる天武天皇の御代だ。天武天皇を以て日本の歴史は始まったということを、過去の「天武天皇」シリーズで小生は度々書いた。それは、歴史を記録するもの、文字が誕生したからであり、それが天武天皇が編纂した日本書紀、そして古事記だ。

加えて、当時の日本列島、そして東アジア情勢を考えるに、大唐帝国は想像を超える大きな影響を周囲に及ぼしていたことに気づく。その唐から命を狙われ、命からがら済州島から九州へ天武天皇は逃れた。それを飯山さんは、上掲の「脱唐国支配国家」という表現を用いたわけだ。無事に日本に逃れた天武天皇は、日本列島に新しい国の形を造る、すなわち日本建国という大戦略(グランドストラテジー)に着手した。だから、日本書紀の編纂目的も唐による暗殺から逃れ、脱唐国支配国家への重要な第一歩だったのだが、そのあたりは飯山さんの日本書紀についての投稿に詳しい。

しかし、藤原氏の台頭で、次第に天武天皇の系統は追いやられてるようになった。再び飯山さんの言葉を借りれば、「貴族支配型律令国家」への移行が始まったのだ。つまり、奈良時代が天武天皇の時代だったとすれば、続く平安時代は「貴族支配型律令国家」の時代、すなわち藤原氏の時代へと移行したことになる。そのあたりは、たとえば天武天皇が編纂した日本書紀が何よりも多くを物語っており、改訂を幾度か重ねた日本書紀、改訂する度に藤原氏寄りの内容になっていったことからして一目瞭然だ。

天武天皇の話に戻る。天武朝は日本の歴史の幕開けという、まさに日本史のターニングポイントであった。だが、何分にも千年前以上も前の出来事だけに、未だに解明されていないことが多く、書物やネット界は、たとえば大化の改新一つとっても百家争鳴といった感があり、賑やかなことこの上ない。小生の場合、大分前から気づいていたことだが、最近になって漸く日本史の核心に一歩迫ることができたように思う。それは、拙稿「天武天皇 18」で述べた「日本列島」で、これをキーワードに置けば、巨視的に日本史の骨格が把握できると思うに至ったのである。

なぜ日本列島に天皇が誕生したのか…、こうした他国にはなく日本人だけにある民族気質が醸成されたのも、やはり日本列島に答えを求めるしかない。


「日本列島」は日本史の骨格を攫む上でのキーワード…、人から見れば牽強付会の謗りを免れないかもしれない。また、後になって訂正をするかもしれない。それはともかく、太古の昔に日本列島に定着した人々は、他にはない日本列島という独特の風土に感化され、次第に寛容さを身につけるようになったのではと思う。それだけ、我々の住んでいる日本列島には不思議な力が潜んでいる気がしてならないのだ。

日本に入ってきた佛教、その後は大きく変容を遂げ、日本の風土に溶け込んでいった…。このあたりに、他国にはない日本人の持つ寛容の精神、受容力といったものを感じます。それが猿都瑠さんの佛教の神道化あるいは日本化を指しているのだと思います。
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16711142/130/


上掲は放知技に投稿した小生の一投稿だが、佛教に限らず人も日本列島に定住するようになってから変わった…。そして、定着して日も浅い者は、自身が生まれ育った国の言葉・習慣・思考形式を暫くの間にわたり引き摺っていたということになり、一方、世代を重ね、すっかり日本列島に溶け込んだ人たちは、その思考様式もすっかり今の日本人に見るそれになった(「日本人の心」参照)。そのあたりを確認する意味で、以下の絵巻を叩き台に確認してみよう。

20051400.jpg

この絵巻は多武峰縁起絵巻と言い、江戸時代に住吉如慶・具慶が合作の形で描いたものとされ、拙稿「天武天皇 16」でも一度紹介した。この多武峰縁起絵巻、数年前に世界戦略情報誌『みち』の執筆者と読者が集うまほろば会で、講師役を務める安西正鷹さんが言及したことがあり、その時に安西さんが言い放った、「首を刎ねるあたり、温和な日本人には似合わぬ残酷な絵巻」という言葉が、今でも耳にこびり付いている。

安西さんの云い放った「温和な日本人」についてだが、そうした温和な日本人を醸成したものこそ、日本列島そのものに他ならないと思うに至ったのである。そのあたりについて思うところを、拙稿「天武天皇 18」に「■日本人と天皇」と題した小節にも書いている。

我々日本人にとって、天皇とは何なのかと考えることは、実はこれ、己れのアイデンティティそのものを問うことなのである。


天皇について深く追求するようになったきっかけは、まほろば会に顔を出すようになった頃からで、様々な角度から日本と天皇について多くの人たちの話に耳を傾け、また天皇に関する書籍を多く読んできた。そして現在は寛容で優しい日本人が誕生したのも、天皇が誕生したのも、日本列島という風土にこそ解があるのだと思うに至った次第だ(「奇跡の日本列島」参照)。

ここで、上掲の絵巻に話を戻す。天武天皇シリーズの中でも、「天武天皇 16」で一部引用した、『扶桑国王蘇我一族の真実』(渡辺豊和)の一節と、その一節についての小生のコメントを追記した行があるので、以下に再掲しておこう。

蘇我氏は聖徳太子・馬子以来、隋唐との交流に全力を尽くしていて、朝鮮半島には継体系の人々ほどには興味を示していない。彼らは開明型国際派であり、それは入鹿になっても一貫して変わらなかった。それが「韓政」という注記であろう。また聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式であって朝鮮洋式ではない、という伊東忠太の指摘は重要である。蘇我氏と北魏の関係を思わせるからである。北魏は聖徳太子・馬子時代には、滅びて五〇年以上経っていたのになぜ北魏様式なのか。実は北魏の都洛陽(平城のあと)のことを書いた『洛陽伽藍記』には、倭館がなく扶桑館があった……。(六九頁)


渡邊氏は聖徳太子が実存していたものとして筆を進めているが、飯山史観に基づけば、聖徳太子は架空の人物である。そのあたりは、上掲の『天皇系図の分析について』も第12章「聖徳太子」は架空の人--「憲法十七条」も架空」(p.501)で述べている通りだ。それよりも、小生が注目したのは「北魏」という記述である。拙稿「天武天皇 06」で北魏について言及しているので、再読していただきたい。


ここで、、「天武天皇 16」で渡辺氏が記した「聖徳太子が作った法隆寺の仏像や絵画等の芸術品のほとんどが太子時代のものであるが、例外なく北魏様式」の行は、蘇我氏の一族は北魏にルーツを持っていたことを暗示している。そして、天武天皇のルーツも北魏である。そのあたりは、架空の人物である聖徳太子ではなく、実存の人物であった天武天皇の息のかかった十七条憲法からして明白だ。そして、実際に十七条憲法の作成にあたったのは、土地が温暖で温厚な人たちが住む日本列島にすっかり溶け込み、正真正銘の日本列島の住人になった役人たちだったのだろう。

一方、架空の人物と思われる〝中大兄皇子(後の天智天皇)はともかく、中臣鎌足(後の藤原氏)〟の場合、蘇我入鹿の首を刎ねるという残忍性を示す上掲の絵巻から明白なように、後に藤原氏を名乗る中臣鎌足の出自は、日本に渡来したばかりの者たちの持つそれである。中臣鎌足は未だ日本人の間に溶け込みきれていなかった、つまり渡来して日が浅かったのが中臣一族、後の藤原一族だったのではあるまいか。

そうであれば、果たして藤原氏は何処から来たのか…。次稿から平安時代、すなわち藤原氏が着手した貴族支配型律令国家のラフスケッチあたりから筆を進めたい。

【追記1】α群とβ群
掲示板「放知技」で、mespesadoさんが重要な投稿を行っている。これは日本書紀の正体を考証する上で、欠かすことのできないα群とβ群についての発言だ。ここで、α群とβ群と書くだけでは、何のことやらさっぱりという読者もいるかもしれないので、そのあたりの解説は以下のサイトを参照していただければと思う。
九州王朝説批判

【追記2】守谷史観
天武天皇シリーズを終えるにあたり、多くの民間歴史研究家の研究成果を参照にさせていただき、本当に有難かった。そうした一人として、放知技の常連さんの一人、はぐらめいさんが推薦する、守谷健二氏の「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について」を紹介しておこう。

「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(1)
「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(2)
「日本書紀と天武天皇の正統性の問題」について(3)


守谷氏の天武天皇観と合せて、はぐらめいさんの上記三本の解説記事を読めば、飯山さんの天武天皇観と共通する点、そして異なる点が浮き彫りになり、参考になると思う。

【追記3】『天皇系図の分析について』
晩年、熱心に同書に取り組んでいた飯山さんも仰せだったが、同書の場合、例えば第九章の「卑彌呼の生家は満州の遼東半島」や、第十二章「聖徳太子は架空の人--憲法十七条も架空」といった、賛同できる章があるかと思えば、第二十三章の「天智天皇と天武天皇の正体」のように、同意致しかねる章もあるという具合に、玉石混合の感のある本だ。そのつもりで同書に接すると良いと思う。

【追記4】その他
上掲の『天皇系図の分析について』は、韓国について多くのページを割いている。よって、韓国人の持つ民族性を一度考察してみたいという読者向けに、動画を数本を紹介するとともに、併せて小生のコメントも付記しておく。


【武田邦彦】テレビが絶対カットする彼らの起源!彼らはいったいどこから来たのか?なぜ日本人とこうまで違うのか?日本人全員が思っているこの大疑問

→ 日本人と韓国人をDNAの観点から見ると、かなりかけ離れていると武田氏は説く。


【武田邦彦】誤解?日本の文化は大陸から来たのではく南方から来た。昔は寒くて大陸にはとても住めなかった。夏でも氷が3メートルも積もっていた。

→ 小生は日本列島の遠祖は北方系(ツラン民族)と南方系(黒潮民族)に大分されると思っているが、北方系からの流入、殊に小氷河期の流入を考えるにあたり、様々なヒントを武田氏は上掲の動画でもたらしてくれる。


新羅人 韓国人のルーツは何者なのか? 劣等感発祥、中国化の元凶は新羅だった!!

→ 嫌韓の人が制作した動画ではと思うほど、偏見に満ちた動画である。そして、間違いも多い。例えば「馬韓」。拙稿「天武天皇 09」ても指摘したことだが、馬韓は朝鮮半島南部にあったのではなく、遼東半島にあった国だ。

【追記5】日本列島
以下の記事は上掲の『みち』(平成20年12月1日号)に掲載されたもので、日本列島をテーマとした過去の拙稿でも度々紹介した記事だ。今回の拙稿でも、日本史を紐解く上でのキーワードとして「日本列島」を取り上げていることから、以下に再掲させていただく。

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