ふと気がつくと、飯山史観シリーズ、今回の「天武天皇 09」で56本目だ。思えば、「飯山史観の事始め」と題した飯山史観の第1回目をアップしたのが、昨年の9月19日だから、かれこれ一年近く飯山史観シリーズを執筆してきたことになる。実のところ、小生の感覚としては飯山史観の三分の一が、漸く終わったなというのが正直なところで、残りの三分の二の100回分ほど、すなわち飯山史観の完結までには150本ほどの記事数になる見込みだ。加えて、現代、そして未来について特に力を入れて書きたいと思っているので、もしかしたら、200本を超えるかもしれないwww
飯山史観は過去の歴史を主テーマとしているのに、何故に小生は現代と近未来について力を入れたいと思っているのか、そのあたりの答えは、以下の飯山一郎さんの朋友である、ヤン(梁)さんの言葉の中にある。
歴史の知識を漫然と増やすのではなく、今を知るために歴史を学ぶ! …という姿勢。これが飯山史観の核にある考え方です。 ◆2011/02/24(木) 金王朝の “深い深い謎” -87-
そう、「今という時代」は、どのような時代なのかについて正確に把握するために、小生は飯山さんの遺してくれた飯山史観を、一種の解説本のスタイルで書き連ねているというわけで、徹底的に解説していく、所謂、「急がば回れ」というやつだ。
飯山史観をスタートした一年前は、50本ていどで飯山史観を完結できると思っていたんだが、見通しがあまちゃん…、もとい甘ちゃんだった(爆) 愚痴はともかく、早速今回のテーマである「馬韓」に入ろう。
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■馬韓 ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済

三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した集団とその地域。朝鮮半島南部に居住していた人々を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。 「ウィキペディア」三韓
上掲の版図と解説はウィキペディアからの引用だが、これは全くの出鱈目。

山形先生も『邪馬台国論争 終結宣言』で、「前三韓」と題した一章を設けているが、飯山一郎さんも同章をベースに、『天皇制誕生前夜のクロニクル』なる記事を執筆、「◆2011/02/25(金) 金王朝の “深い深い謎” -88-」に全文が引用されている。よって、本稿でも以下に全文を引用させていただこう。
『天皇制誕生前夜のクロニクル』 (Ver 2.00) 飯山一郎 .
「いま、北朝鮮は、百済国の前身 “馬韓国” の後継国家のようだ。」 …とヤンさんはポツリと言った。この意味を理解できる日本人は少ないだろう。 “馬韓国” とは、いったい、どんな国家だったのか? ヤン教授の説明は、鎌倉時代の歴史書 『吾妻鏡』 のように難解だった。 そこで、私、飯山一郎が “てげてげ” (=大雑把) だが 簡単明瞭に説明したい。
古代朝鮮には、馬韓、辰韓、弁韓という国があった。いわゆる 『三韓時代』 である。 この 『三韓』 は、いわば競合関係にあった。対立もしていた。 もし、対立が深まり、戦争前夜のような深刻な事態になると、『辰王』 が仲介に入った。 『辰王』 とは、現在のタイ国の 『プーミポン国王陛下』 のような存在だと思っていい。 タイ国では、正式に 『プーミポンアドゥンラヤデート』 と お呼びしなければならない。 『プーミポンアドゥンラヤデート』 とは 「大地の力・並ぶ事なき至高の権威」 という意味 である。つまり、「最高権力」 ではなく、「最高権威」 である。この点、注意されたい。
三韓時代の 『辰王』 は、必ず 「馬韓国」 の王が即位した。 『辰王』 は世襲制であり、首都は 「月支国」 にあった。 『辰王』 は “鬼道” に優れ、“鬼道” によって三韓を支配下においていた。 この “鬼道” は、自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム) に近かった。 『殷』の末裔(哀王・準)が馬韓王になった経緯では、“殷の鬼道”も混入しただろう。 『北魏』や『北燕』の鬼道が混入したであろうことも、可能性は非常に高い。 『辰王』 の “鬼道” は、日本の古神道や “卑彌呼の鬼道” に近いと思っていい。 なお、卑彌呼 (の使者) が帯方郡を訪れる際、“馬韓国” は通過地だった。 さて、突然…、 『辰王』 の統べる “馬韓国” に “侵入”してきたのは “扶余国” の残党であった。 “扶余国” は、ツングース族の末裔である。 ツングース族の王も、“鬼道” に優れた “草原のシャーマン”(巫師) であった。 “シャーマン” とは、ツングース語の「šaman、シャマン」から派生してきた言葉だ。 “扶余国のシャーマン” は、“馬韓国の辰王” の地位を奪い、やがて、帯方郡の故地に 新しい国家を立ち上げる。これが 『日本国』 の先祖 『百済国』 である。 したがって…、 『百済国』とは、“馬韓国” のアミニズムを吸収したシャーマニズムの国家なのである。
ここで…、 これまでの物語を大雑把にまとめてみよう。 卑彌呼の邪馬壹国が参内した帯方郡で、殷と、北魏と、北燕と、馬韓と、扶余が合流し、 百済国となり…、 韓半島まで東遷 (東征) し、満州で百済国が滅びると、百済国は日本に渡来してくる…。 百済人の血は、殷、北魏、北燕、馬韓、扶余、倭…、そして卑彌呼のDNAが渾然一体と なった血脈で、この血流の一貫性こそが、万世一系の神話なのである。
ちなみに “馬韓国” は、帯方郡の南にあった。 現在の平壌は、当時の “馬韓国” の南端部に位置している。 まさしく、“不思議に満ちた地政学” である。
【参考文献】 『三国志魏書』扶余国伝、『三国志魏書』馬韓伝、『後漢書』馬韓伝、『晋書』馬韓伝、『北史』百済伝、 『唐会要』百済伝、『通典』百濟、『隋書』百済伝、『周書』百済伝、『梁書』百済伝、『宋書』百済伝。
 (邪馬台国論争 終結宣言)p.118
 (邪馬台国論争 終結宣言)p.126
続きは、「◆2011/02/28(月) 金王朝の “深い深い謎” -89-」以降を読めば、朧気ながらも三韓の大凡の全体像が掴めるはずだ。ここで、異論はあると思うが、以下の飯山さんの言葉を思い出していただきたい。
『馬韓』や、『北燕』のような“流星国家”の存在に注目しないかぎり、日本の歴史は 見えてこない。
もう一点、三韓、殊に馬韓は今日の金王朝にとって重要な意味を持つ。以下の記事を参照。記事の内容を素直に理解できれば、今日の北朝鮮(韓国ではない)の立ち位置がわかるはずだ。
『馬韓』は、金正日・正恩父子が愛する遼東半島にあった! ◆2011/02/24(木) 金王朝の “深い深い謎” -87-
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