■箕子朝鮮 ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済
箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[2] - 紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ[3]箕子が建国した朝鮮の古代国家[注釈 1]。古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに具体的な記述があり、考古学的発見からは、箕の姓を持つ人々が殷朝から周朝にかけて中国北部に住んでおり、殷朝から周朝への時代変化とともに満州、朝鮮へと移住した可能性が指摘されている[4]。 ウィキペデア「箕子朝鮮」

最初に、ウィキペディアに掲載されている版図(下図)、これは明かな間違い。その論拠として、故飯山一郎さんが以下のように指摘している。
ウィキペディアで『箕子朝鮮』を調べると、『箕子朝鮮』は図のように現在の北朝鮮と同じだ。
 ウィキペディア「箕子朝鮮」項の掲載図
『箕子朝鮮』が広大な満州一帯で「殷賑」を極めた国家だったことなど、○で分かってないワケワカメが描いた地図だ。
 ◆2011/01/20(木) 金王朝の “深い深い謎” -56-
つまり、箕子朝鮮が建国された当時の領土は河北と満州の地だったはずで(赤丸印)、次第に自国の領土を拡大、そして殷賑を極めること八百余年…。

上掲の飯山さんの記事は、本当の箕子朝鮮の版図について解説しているだけではなく、朝鮮半島が朝鮮あるいは韓と呼ばれるようになった由来も述べている。それだけではない。飯山さんは「幽閉史観」を乗り越えることの重要性を、結語として述べていることを付言しておこう。
これからは、全てを、もっともっと広い空間のなかで考えていこう! 『朝鮮』も「朝鮮半島」のなかだけでなく、満州全域をイメージしながら見ていこう!
数日前、酒のつまみの買い出しに街に出たところ、一年ぶりに同窓生のM君と会った。彼はここ数年、母校の大学で行われている週一回のセミナー(戦後史)に積極的に出席、昨年は夫婦でハンガリー、今夏はクロアチアとスロベニアを歴訪するという。大手都市銀行に長年勤めたM君は五十代に突入する少し前に同行を退職、以降は進学塾を開いて生計を立てていた。還暦を迎えたのをきっかけに塾を畳み、今では悠々自適のリタイア生活を送っている。そのM君、母校で歴史を学んでいくうちに、次第に「幽閉史観」から脱しないことには、本当の歴史は見えてこないことを悟ったようで、彼の口から「遊牧民族」の言葉が飛び出した時は本当に嬉しかった。ただ、ツランという言葉、そしてツラン本来の姿については気づいていないようだったので、代わりに「無文字社会」や遊牧民族が及ぼした影響について、大いに語り合ってその日は分かれた。また近く酒を酌み交わしながら、歴史についてじっくりと語り合いたいと思う。
箕子朝鮮の話に戻す。やはり飯山一郎さんのHP記事に、殷滅亡から箕子朝鮮の建国に至る過程を述べた記事があるので、そのリンク、および箕子朝鮮についての重要な指摘を引用、併せて小生の補足を加えておこう。
◆2011/01/17(月) 金王朝の “深い深い謎” -53-
今から3~4千年前に繁栄した殷という国は…、 まだ出現してない漢民族の国ではなく、後に百済国をつくる朝鮮民族の国だった!
→小生は天武天皇は百済の一王子であると書いたが、その百済をさらに遡ると殷に行き着く。つまり、日本のルーツは殷だったのだ。
◆2011/01/18(火) 金王朝の “深い深い謎” -54-
殷を倒した周の武王が箕子邸を訪問、政(まつりごと)について質問した時は、 箕子のあまりの博識と徳の高さに驚嘆、武王は箕子を尊敬するあまり家臣とせず…、 朝鮮侯! に封じた。(これが「朝鮮」なる文字が史書に現れる最初である!) cf. 『史記』 巻38 「武王既克殷 訪問箕子 於是武王乃封箕子於朝鮮」 この後…、 朝鮮侯箕子は、殷の遺民を率いて東方へ赴き、『箕子朝鮮』を建国、礼儀や産業技術を広め、「八條之教」を実施して民を教化、『朝鮮国』を発展させた、という。 cf. 『通典』東夷上 「周封殷之太師之國 太師教以禮義 田蠶 作八條之教 無門之閉 而人不為盜 其後四十餘代 至戰國時 朝鮮侯亦僭稱王」
→ どのようにして箕子朝鮮が八百余年も続いたのか、実に良く分かる記事である。また、箕子朝鮮以前に檀君朝鮮があったという伝説が流布しているが、飽くまでも伝説に過ぎない。故鹿島曻が『桓檀古記』を著しており、小生は同書を15年以上前に大枚をはたいて入手しているが、今では後悔している…。

◆2011/01/19(水) 金王朝の “深い深い謎” -55-
中国五千年の歴史のなかで、「漢民族」の中国と言えるのは、『前漢』と『後漢』だけ!

→ これは、漢民族が登場したのは殷王朝以降であったことを示す文章なのだが、実は後漢以降、漢民族は滅んでしまっている。つまり、今の中国本土の中国人は、漢民族ではないということなのだ。そのあたりの論拠を上掲の記事が白日の下に晒しているのだが、掲示板「放知技」の読者にとっては先刻承知の事実である。
尤も、後漢を最後に漢民族は歴史の舞台から姿を消したものの、民族としては今でも生き残っている。生き残っているどころか、今でも中国本土や華僑を動かしている民族だという指摘すらある。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/13006114/3/
一方、「客家は漢族よりも古い民族で、西戎(せいじゅう)だ!」という指摘もあり、このあたりについては今後の研究成果を待ちたい。
次回は北魏に筆を進める。
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