■殷 ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済

現在、存在が明らかにされている中国最古の王朝。本来は商といった。巨大な殷王の地下墓である殷墟が発見されている。
前16世紀中ごろ、殷の湯王が、夏の暴君桀を滅ぼし、王朝を建てた(このような武力による政権交代を、放伐という)。都は河南省の二里崗遺跡の城郭がそれに当たると考えられている。以後、何度か遷都を繰り返し、次第に黄河中流中原に支配権を拡大していった。前14世紀の19代の王盤庚のとき、河南省安陽県の殷墟の地に遷都し、以後最後の紂王が前11世紀に周に倒されるまで続く。甲骨文字によるとこの都は大邑商と言われ、殷も当時は商といった。殷は高度な青銅器製造技術を持ち、甲骨文字を使用した。 世界史の窓 殷
最初に、殷の出自を裏付ける史料をネットで探してみたのだが、意外と少ないことが分かった。それはともかく、殷の出自について一番分かりやすく解説していると思ったのが、「るいネット」の以下の記事であり、殷の出自は遊牧民族だと明白に書いてある。
殷帝国の動物犠牲の中の羊の多用をみては、殷族はもと遊牧民として中国に流入した一種族である可能性を窺わせるものである。これを裏付けるものに、上記殷族の主用食糧の大麦も西アジア原産種であるという点である。 殷(商)王朝の出自
ここで思い出すのが、飯山一郎さんの以下の記事だ。
百済国の先祖は “扶余国”.“扶余国” からは“高句麗国” も出ている. “扶余国” の先祖はユーラシア東部の遊牧民 “ツングース族” だ. ◆2009/02/11(水) 日本は,百済の継承国家である!
また、以下のような記事もある。我々日本人と豚の関係が分かり、興味深い。
遠い昔.中国東北部 (満州) の広大な平原で…, モンゴル族系の扶余族は,ツングース族 と混血して 扶余国 を建てた. 扶余国の王子一派は,さらに南下し,渤海沿岸で馬韓国を吸収して 百済国 をつくる. ◆2009/05/02(土) われわれの先祖は豚を飼う民族だった.
扶余国のルーツはツングースであると、飯山さんは書いているのだが、ここで思い出していただきたいのが、最近の飯山史観カテゴリで毎回冒頭に示す以下の流れである。
ツラン→ツングース→殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済
つまり、赤文字で示した流れは、ツングース族の一派である、朝鮮系の流れを示しているのである。
次に注目していただきたいのが、飯山さんの以下の記述だ。
『亀卜(きぼく)』は、“神の意志”を占う秘術として、北方遊牧民の間ではシャーマン の秘法だった。
…中略…
『亀卜(きぼく)』は、『馬韓』で、さらに高度に発達し洗練されます。 『扶余』の北方シャーマニズム(ツラン・シャーマニズム)が融合されるからです。
『馬韓』に伝えられた『殷』の『亀卜(きぼく)術』の秘法と、“ツラン・シャーマニズム” の合体! これが今後の主題となる『ツランの秘儀』であります。 ◆2011/03/02(水) 金王朝の “深い深い謎” -91-
これは、殷から馬韓までの主流は朝鮮系ツングース族だということを示しているわけだが、あくまでもツングース族が〝主流〟だったということで、異民族の影響も受けていたのだ。そのあたりを如実に述べているのが以下の記事だ。
しかし、「卵生説話」なら、そのメッカは南方の島嶼域だろう。それに、玄鳥による妊娠。これは燕を指すと思われるが、夏候鳥だから、南方渡来ということになる。純粋のツングースでは無いということでは。
それに、ツングース系であれば、神が憑依するシャーマンのお告げが政治の中心になる筈。それと、殷の占トは違うのでは。占トは"霊的憑依"ではなく、専門家が"知識"を駆使して天の声を読み取る仕組みである。これは西域の遊牧民の動物骨焼占トや、南海島嶼民の海亀甲羅焼占トの風習に近いのではないかという気がする。 殷の帝も蛮夷戎狄の類が出自
亀卜とシャーマニズムの合体については、別の機会に書きたいと思う。いずれにせよ、遊牧民族もといツラン民族の流れは、実にダイナミックなものだった、ということがお分かりいただけたと思う。
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