
小生は掲示板「放知技」のメインスレに、秋嶋亮(響堂雪乃)氏が一年ほど前に著した、『北朝鮮のミサイルはなぜ日本に落ちないのか』について投稿している。
そして先ほど、手隙の時に同書を引っ張り出し、「プロローグ」を一読、さらにページ全体にサーッと目を通し、それから第一章から腰を据えて目を通し始めたのだが、タイムアウトになったので最初の二小節(「1.誰も戦争になると思っていない」および「2 アメリカによる拉致事件は北朝鮮よりも多い」)に目を通したところで、残りのページの通読を止めた。残りのページは何時読めるか分からないのだが、思うところがあり、未読ながらも同書から受けた印象を以下に書いておこう。
■DS観の違い 数年前、初めて秋嶋氏の本を目に通した時、秋嶋氏と小生のDS(Deep State)観、すなわち彼我の世界権力観に大きな隔たりがあるのを知った。秋嶋氏のDS観を如実に示す文章を、上記の二小節から取り上げてみよう。
拉致被害者の家族がホワイトハウスに陳情に行く、そしたら大統領が「自由を脅かす敵は許しません」みたいに頼もしく答えるシーンが放映されるじゃないですか。そうやってアメリカは「正義の国」、北朝鮮は「悪の国」というイメージを刷り込んでいるわけです。いずれにしろ北朝鮮の拉致事件がアメリカのプロパガンダに利用されていることは間違いありません。 p.27
同書の残りのページを読了しないことには何とも言えないが、少なくとも秋嶋氏には、トランプがDSと対峙しているという視点が欠落している。このあたり、放知技の読者であれば、小生の云わんとすることがお分かりいただけることだろう。ある意味、トランプも安倍晋三も世界権力の一角を占めていることは間違いないにせよ、少なくとも国益という観点から見れば、国益を軽んじているDSと、国益を重んじるトランプの違いに秋嶋氏が目を向けていない点が気になった。
このあたりから察するに、秋嶋氏はトランプも世界権力に組み込まれている、あるいはDSとトランプの立ち位置は、両建構造(ヤラセ)と考えている節があるが、本当にそうなのかといった判断は、同氏の『北朝鮮のミサイルはなぜ日本に落ちないのか』を読了した段階で行いたい。一方、小生はトランプが世界権力と対峙しているとする立場だ。
ここ数年に至って世界権力への対抗勢力として、プーチン、金正恩、トランプ、安倍晋三、習近平らが台頭してきたのは、現在進行中である大転換期の前触れである。 世界権力と童話
 13日、ホルムズ海峡付近で攻撃を受けて火災を起こし、オマーン湾で煙を上げるタンカー(AP)
■歴史の闇 もう一点、秋嶋氏の書籍にサーッと目を通してから、最初の二小節を精読して腑に落ちなかったのは、秋嶋氏が故飯山一郎さんと長年の付き合いがありながら、北朝鮮についての洞察に深みがないという点だ。横田めぐみさんは金正恩の御母堂、とまで書いてくれとは言わないまでも、金正恩と胡錦涛の深い関係といった、飯山さんが遺してくれた「金王朝の “深い謎”」について、多少は言及して欲しかったと思う。
ともあれ、同書に接した放知技の読者であれば、単に周知の事実が並んでいるだけなので、物足りなさを感じたのではないだろうか。たとえば…
平壌空港から横田基地の直行便が出ている p.20
90年代のアルゼンチンやブラジルやチリなどでも軍事政権により十数万人が拉致されました p.24
といったことが書いてあるのだが、これは放知技の読者にとって〝常識〟の部類に属す。
これでは、残りのページにも目を通そうという気力が無くなるというものだ。尤も、副島隆彦のような御仁の著した『米軍の北朝鮮爆撃は6月!』などと比較すれば、秋嶋氏の本の方が数百万倍も優れているのは言うまでもない。ご参考までに、副島の『米軍の北朝鮮爆撃は6月!』は以下の拙稿で酷評済みだ。 メスペサド理論(1)

■社会学の重要性 秋嶋氏は同書の「プロローグ」で、実に大切なことを書いている。それは、社会学について言及した以下の行である。
これまで地政学や軍事学などが綴った北朝鮮論は極一面を捉えたものに過ぎず、その全体像を暴き白日のもとにさらす仕事は社会学を道具として初めて可能となるのだ。 p.6
全く以て同感である。社会学、すなわち社会科学の重要性を教えてくれた、IBDの石上社長に改めてお礼を申し述べたいと思った次第である。
社会科学は、人間の過去の営みによって自然的に作られた社会の仕組み、政治、産業、技術、経済、法律、価値観、嗜好、思想、文化等がどのように仕組まれて形成されているか、それらがどのように機能しているのか、並びに、どのような社会が人間に取って最も有益であるのかを明らかにし、それを実現できるようにすることを目的としています。そのため、社会科学は、人間社会を対象として分析し、その中に隠されている真実を見抜き、それを法則、原理、原則という形で言語表現し、それに基づいて将来を予測してゆきます。但し、社会科学においては、一時的な便宜性よりも普遍的な正義を求め、知識のみに振り回されない人間の信義の確立を求め、部分的な繁栄よりも人類の採るべき道を追求してゆきます。 従って、社会科学は、哲学に限りなく近い存在ということができます。 「異文化ビジネスのすすめ」第2号
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