今回で「蘇我一族」の第四弾となるわけだが、先程、今までに書いた蘇我一族01~03を読み返して気づいたことがある。それは、蘇我氏の出自、さらには蘇我氏が日本列島に及ぼした影響という、肝心なことを未だ書いていなかったということである。
そこで、栗本慎一郎の『シリウスの都 飛鳥』を叩き台に、飯山史観というフィルターを通して観た、蘇我氏の出自と影響について書いてみよう。栗本の本を選んだのは、蘇我氏について書かれて本は数多くあれど、遊牧民族(蘇我氏も遊牧民族に属す)の視座で書かれた歴史書は意外と少なく、そうした少ない本の中でも、栗本の『シリウスの都 飛鳥』が最も優れていると思うからだ(他に、『シルクロードと唐帝国』(森安孝夫)がある)。
最初に、『シリウスの都 飛鳥』の構成を確認しておこう。以下のように四章から成っている。
第一章 経済人類学と古代社会論 第二章 なぜヤマトが大和になり日本の首都になったのか 第三章 飛鳥京と日本古代王権の革命 第四章 蘇我氏はサカ族である!?

どれも章名からして興味深い章である。そして、改めてサーッと再読して気づいたことがある。それは、各章の要諦が同書の「前書き」と「結語」に集約されているということ。だから、時間のない読者は「前書き」と「結語」だけ読めばポイントは掴めると思う。しかし、できれば各章を精読することをお勧めしたい。その最大の理由は、読者が教科書や歴史学者が著した蘇我氏についての本から得た既成概念と、大きくかけ離れた栗本史観が至る所で炸裂しているからであり、栗本の蘇我氏観を頭ではなく、肚で分かるためには同書の通読が欠かせないと思うからだ。尤も、栗本の著したほとんどの本に目を通してきた読者であれば、「前書き」と「結語」だけでもよいかもしれない。
■最後に登場した蘇我氏 最初に、蘇我氏が歴史上に登場する以前の日本列島をおさらいしておこう。ここで思い出していただきたいのは、拙稿「古墳時代 11」で紹介した、飯山さんの「「外圧と占領説」だ。
ここで思い出すのが、故飯山一郎さんが行った投稿、「外圧と占領説」だ。出世外人さんの日本史図式と対比させる意味で、「日本の歴史は,外圧と占領により大変化する」とする飯山さんの外圧と占領説を念頭に、以下のようにまとめてみた。
*第1回目は:紀元前1万5千年前頃.日本列島に土器文化人が侵入
*第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住
*第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入
*第4回目は,7世紀.豪族・古墳文化の日本列島に,百済国が侵入
*第5回目は,9世紀.奥羽地方に獰猛なアテルイ族や突厥族が侵入(外圧)
*第6回目は,19世紀.英国が「カラー革命」を策謀し,英国による間接支配開始
*第7回目は,20世紀.大東亜戦争に敗北した日本は,米国の占領下に入り,以後70年間,米国の植民地・属国
*第8回目は,米国の支配下から脱するため,ロシアとの同盟関係に入る.← いまココ. http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16155707/828/
第3回目,「西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入」という記述に注目していただきたい。当時、北(ツラン民族)から、あるいは南(黒潮民族)から、さまざまな民族が日本列島に渡来(あるいは漂流)し、やがて各地に豪族が誕生、その後は豪族間での合従連衡の時代がしばらく続いた。そうした豪族が犇めく時代から統一に向かう日本列島の時代に突入しようとするときに登場したのが蘇我氏だった。このあたりを栗本は『シリウスの都 飛鳥』(p.7)で、「五世紀末以降、突如日本政治の表舞台に現れて、七世紀中葉には内部の裏切りにあって滅ぼされてしまった蘇我氏」と書き表している。
■蘇我氏の出自 蘇我氏とは何者だったのか…。その蘇我氏の出自を栗本は『シリウスの都 飛鳥』で明らかにした。
五世紀末以降、突如日本政治の表舞台に現れて、七世紀中葉には内部の裏切りにあって滅ぼされてしまった蘇我氏が最初に出てきた場所は、今日のイラン高原東部のシースタンで、紀元前三世紀から紀元四世紀までサカスタンと呼ばれていた場所だろう(いくつかの事実に基づく「推定」である)。 『シリウスの都 飛鳥』p.7
このように、栗本は蘇我氏の出自をイラン高原東部のシースタンとしているわけだが、聖方位といったゾロアスター教の色合いが濃い蘇我氏の時代といった事実からも、栗本のシースタン説を受け入れてよいと思う。一方、蘇我氏にとっては先住民であった他の豪族は、北(ツラン民族)や南(黒潮民族)からと、各方面から日本列島に渡来(あるいは漂流)してきた人たちだった。たとえば、九州を始原地とする古墳群から、シベリアに点在するクルガンを築造したツランの面影が見て取れる。
 蘇我一族 01
■蘇我氏の宗教 蘇我氏の宗教について、栗本は以下のように述べている。
蘇我氏や聖徳太子はおそらくは、一般にスキタイと呼ばれる遊牧民の特定の一角にあった人たちでミトラ教的価値観を持つ人たちであった。 『シリウスの都 飛鳥』p.3
ミトラ教、すなわちゾロアスター教のルーツである。
そのサカスタンの地は、ササン朝ペルシアの時代にも宗教的中心地であり、太陽信仰の中心地であった。ということは、世界に広がった太陽信仰の最初の中心地だった。蘇我氏が奉持した仏教は、弥勒信仰、大日如来信仰であって、インドにはない無量光信仰であるのはこういう理由なのである。 『シリウスの都 飛鳥』p.8
蘇我氏のルーツが、まさにササン朝ペルシアにあることが分かるだろう(拙稿「蘇我一族 03」参照)。
ここで、ゾロアスター教以外に仏教についても栗本は言及している。ここで思い出すべきは、もう一方のインド仏教で、飯山さんの仏教伝来説を思い出してほしい。
大隅半島に仏教を伝えたのは、朝鮮半島からの王仁(わに)博士と世間一般では思っているようだが、この仏教伝来もいずれ見直さなければならない時期が到来するだろう。
 志布志の旅 02
なを、ミトラ教と言えばウィキペディアの「ミトラ教」に書いてある通り、「古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教」と見做すのが一般的だ。しかし、ゾロアスター教の元となったミトラ教の始原地は、栗本同様、インド・イランだったと小生は考えており、以降、その線で筆を進めていく。
■天皇制の起源 小生は「古墳時代 14」で以下のように書いた。
天武天皇は百済国王子(大海人皇子)で、初めて天皇を名乗り今日の日本を築いた人物であった。
ここで注意していただきたいのは、天武天皇が天皇と名乗るまでは、天皇制のプロトタイプ(原型)が既に日本列島で完成していたということである。
つまり、栗本の言葉を借りれば、「天皇制のあり方を含む日本文化の基盤は蘇我氏の悲劇」に由来しているということだ、換言すれば、天皇制のルーツは蘇我氏にありと栗本は言っていることになる。しかし、蘇我氏よりも遥か昔の人たち、すなわち、飯山史観で言うところの第3回目,「西暦紀元前後に日本列島に渡来した古墳文化を持つ豪族」が、天皇制のルーツであったと小生は睨んでいるが、このあたりは今後の検討課題としたい。
■蘇我氏が日本列島に及ぼした影響 蘇我氏の出自が分かったところで、具体的に蘇我氏が日本列島に及ぼした影響とは、一体全体何だったのか、このあたりは「前書き」に詳述されているので、少々長くなるものの以下に引用しておこう。ちなみに下線は、飯山史観というフィルターを通した時、〝?〟と思われる箇所だ。このあたりは機会があれば言及していきたい。
蘇我氏が日本にやってくる前に、最低、縄文時代中期から日本列島に先行して存在する太陽信仰のネットワークが二つあった。青森の三内丸山社会の存在はその証拠の一つだ。その時代にはすでに驚くべき規模の土木工事も行なわれていて、「王国」と呼ばれるべきものが存在した。このことは、文字と文明の関係についての(王国や文明なら必ず文字を持っているに違いないという)旧来の呪縛が解けさえすればすぐにでも分かってくることだと思う。
日本列島内の太陽信仰のネットワークは二つできた。最初北日本のものが先行していたが、縄文時代晩期(紀元前)には大和の三輪山を基点にするネットワークが成立した。この新しい中心となるのが三輪王朝である。三輪王朝になると九州の諸勢力も加わった連邦的政権ができていたと思われる。いやむしろ、そのことがあったために、北日本ネットワークは三輪山ネットワークに吸収されていったのだろう。
こうしたネットワークがあったことが、日本列島が中国や朝鮮とは違う強力な太陽信仰の受け入れ土俵としてやはり太陽信仰を持つユーラシアの遊牧民から重視されたのである。ユーラシアにはおりしも自分たちの存在基盤に揺らぎを感じていた人々がいた。彼らは、日本列島に新たな希望を求めて渡来してきたのである。そして、そのほとんどは日本列島内では太陽信仰における先進地帯である北日本にやってきた。九州ではない。応神、仁徳及び北陸系の王朝はいずれも北日本を拠点にして成立したと考えられる根拠はこれである。
そしてそれらの土台があったところに何度にも及ぶ渡来人の波のなかでほぼ最後にやってきて北日本の王となったのが、蘇我氏一族だった。わずか二百年足らずの栄華から滅亡に至った蘇我氏に関連することどもには、ゾロアスター教的要素と言うよりも、そのはるか前からユーラシア全域での大宗教運動だったミトラ数的要素が多く見出される。作家・松本清張をはじめ、多くの考察者が日本古代社会にゾロアスター教的あるいはユダヤ教的なエッセンスの数々を見出し、その奥底を追究しようとしたが、実はゾロアスター教やユダヤ教をはるかにさかのぼるミトラ教的要素を考えると、もっと多くのことどもが明らかになってくるのである。少なくとも私は三十年の考察の結果、そのような結論に至りつつある。蘇我氏は同時期に中国で次々に建国した旧遊牧民に対して、基底は同じ遊牧民としての共感や、逆にそれゆえに特別な対抗意識を持ったことも見出される。飛ぶ鳥の飛鳥の都における仏教の諸要素はとりあえずかつて(匈奴幕下時代)の同僚鮮卑族が作った北魏をならったものだが、聖徳太子はその鮮卑出身の隋には対抗意識丸出しの国書を送っている。飛鳥京の後にできた平城京は、北魏の平城からその名を受け継いだものだが、飛ぶ鳥の飛鳥の都にはそのアスカという音といい、飛ぶ鳥に託したシンボリズムといい、鮮卑が漢化していくはるか前からユーラシア遊牧民にあったミトラ(信仰)に関わる文化からきたものが大きいと思われる。このミトラと太陽の信仰(及びそのネットワーク)の要素がこれまであまりに軽視されてきたのが遺憾である。
さらにそこに不思議な「後ろの正面」としてシリウス信仰の基盤を見るというのが本書の題名の意味である。
それを示す一つに、縄文晩期からのネットワークに突然、大きな変更が加えられたという事実がある。それは本書で私が「聖方位」呼ぶ特別な方位であって、それが宗教的に重要なものに登場し始める。そしてやがて、北日本から近江にかけて、太陽のネットワークからシリウスのネットワークへという改変が起こされ始める。
われわれがよく知っている蘇我氏の隆盛の後、六四五年のクーデターによって一族本家は滅亡し、支持勢力は四散した。だが、彼らが作ろうとした日本王権つまり天皇制はそのまま双分制や上天思想の要素を根幹に残して成立していった。つまり、王権や律令国家の基礎は蘇我氏が作って今日に至るのだ。また、北日本を中心にして、金属鉱山関係者、水利事業者、運搬事業者、山岳信仰関係者、遍歴の商人など、非主流に回った蘇我氏や聖徳太子の一統が残されたのである。蝦夷の将軍アテルイ、奥州藤原氏、北関東の王・平将門は、いずれもその関係者またはその後裔である。鹿島神宮を信仰する北関東武士団もその流れである。それがなければ、鎌倉や江戸が政府の中心になることはなかった。つまり、蘇我本家は滅びても日本文化に大きな影響を残したのである。それを私は上天思想と本書で検討する双分制だと考えている。この他に妙見信仰や閻魔大王、牛頭天王への尊崇、蘇民将来護符の信仰など関連するものを挙げれば切りがない。つまり、蘇我氏や聖徳太子(もちろん、もし実在したならばだが)は日本文化の基層を決定したのである。
……中略……
ともあれ、中大兄皇子と藤原鎌足が構築した古代初期や縄文時代晩期に関わる歴史像は大きな嘘であった、という結論は明らかだ。真実の再構築には、ポランニーの経済人類学が新たに知的ツールとして投入されるべきだと思う。 『シリウスの都 飛鳥』p.8~12
栗本の云うポランニー経済人類学は重要であり、栗本史観のキーワードの一つだ。よって、今後は折に触れて取り上げていくことにしたい。
■最後に 蘇我氏の出自と影響について長々と書いたが、一つだけ再度強調しておきたいことがある。それは、「限りなく真実にたどりつこうという人たちにだけ本書を贈る」と、栗本慎一郎が『シリウスの都 飛鳥』(同書p.7)に書いているように、飯山史観も既成概念にとらわれないものであるだけに、真実に近づきたいという読者だけを対象に書いている。よって、以降の「飯山史観」シリーズを読むことは、日本史に関する従来説に安住したいという読者には苦痛を伴うと思われるので、かかる読者には拙ブログの飯山史観シリーズを読み飛ばすようお勧めする。その方が、精神的な苦痛を受けることもない。
それから、小生が飯山史観の編集に取り組んでいる理由の一つが、『シリアスの都 飛鳥』のp.7に書いてあったので紹介しておこう。
日本史は今後、世界史のキーになるというのが私の予想だから、日本史家は今後も視野を広げて研究を続けていただきたいものだ。
まだまだ蘇我氏について書かねばならないことが残されていると思うし、しばらくは蘇我氏族について続けたいと思っていたが、飯山史観最大の山場である天武天皇シリーズを、一刻も早くスタートさせたいという気持ちが強まったこともあり、今回を以て蘇我氏族シリーズを一応終了させ、次稿以降からは天武天皇シリーズを開始することとしたい。
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