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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
古墳時代 14
先週末(2019年5月18~19日)、mespesadoさんの講演を聞きに、山形県南陽市を訪れた。前日、はぐらめいさんに教えていただいた、最近発見されたという長岡南森遺跡の他、稲荷森古墳を見学するため、つばさ121号で朝の8:35に赤湯駅着、田園風景の中、徒歩で最初の目的地である稲荷森古墳を目指した。

19051801.jpg
稲荷森古墳に到着、頂上へ向かう

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途中、目に入ってきた朝日連峰と田園風景

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稲荷森古墳上から眺めた長岡南森遺跡


肝心のmespesadoさんの講演内容だが、この「歴史に残る」講演については、はぐらめいさんが「第一回東北一郎会報告」シリーズとして、取り上げていくとのことなので、拙ブログでは割愛させていただく。

なを、今回を以て「古墳時代」シリーズの最終回にしたく、古墳時代の総まとめをさせていただきたい。

2018年3月3日に訪れた大阪の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と誉田御廟山古墳(応神天皇陵)、2019年1月22日に訪れた横瀬古墳と唐仁古墳群、5月18日に訪れた稲荷森古墳と(認定されれば東北最大の古墳となる)長岡南森遺跡を実際に訪れて確信に至ったのは、古墳時代から飛鳥時代にかけての時期に横たわる〝大断絶〟であった。

小生がユーラシア大陸のクルガンと古墳との関係、ササン朝ペルシアの聖方位と日本古墳の方位について気になり始めたのは、旧ブログの記事「シルクロードの経済人類学」を10年前書いた頃からである。

同書(『シルクロードの経済人類学』)を一読していくうちに、私の北ユーラシア史観が音を立てて崩れていくのが分かりました。2ヶ月前、山形明郷氏の『邪馬台国論争 終結宣言』(星雲社)を読んで、自分の東アジア史観を根底から覆されたという体験をしたばかりであり、まさか同様の体験を2ヶ月もしないうちに再び体験するようになろうとは、夢にも思いませんでした。


過去、小生の史観が大きく変わったのは四回あった。一回目は世界戦略情報誌『みち』の「巻頭言」(天童竺丸)、二回目は『邪馬台国論争 終結宣言』(山形明郷)、三回目は『シルクロードの経済人類学』(栗本慎一郎)、最後の四回目は「てげてげHP」と「放知技」の飯山史観(飯山一郎)である。

『みち』の天童竺丸稿ではツランというユーラシア大陸に派生した諸民族の存在を知り、『邪馬台国論争 終結宣言』では邪馬台国が中国の遼東半島にあったことを知り、『シルクロードの経済人類学』では日本文化の基礎となるものが、中国・朝鮮から伝わってきたというのは、半分本当で半分嘘であることを知り、「てげてげHP」と「放知技」では天武天皇は百済国王子(大海人皇子)で、初めて天皇を名乗り今日の日本を築いた人物であったことを知るにつれ、小生の史観は大きく変化していった。

これら多くの基礎となるものをこれまでの歴史学では「中国から」あるいは「中国から朝鮮を経て」来たと言ってきたが、間違いである。技術的なもの(たとえば漢字)は確かに多数、中国朝鮮からやってきている。中国朝鮮の影響を日本が受けなかったということは絶対にない。しかし、主要な要素は「中国朝鮮を通らずに北から」日本へやってきていると考えるべきだ。
『シルクロードの経済人類学』p.11~12


この行は、上掲の旧ブログ記事「シルクロードの経済人類学」で紹介済だが、その他に以下の項目も取り上げている。

★ 蘇我氏
★ 聖方位
★ 日本語
★ 古墳群
★ ユダヤ

19052203.jpg
『栗本慎一郎の全世界史』p.164


つまり、古墳時代から次の飛鳥時代にかけて途方もない変化が我が国に起きたのだが、そのあたりを確実に理解するには以下の皇統譜がスタートラインとなる。

19052201.jpg

これは、ウィキペディアの「蘇我氏」から引っ張り出してきた皇統譜だが、蘇我氏の始祖である武内宿禰の子孫から〝聖徳太子〟が誕生し、その後は天武天皇の〝兄〟である天智天皇が、蘇我一族の姪娘(めいのいらつめ)と結ばれているのに注目されたい。そして、天智天皇と天武天皇との間に横たわる断絶こそ、蘇我氏から百済に権力が移行したことを示していると思う。

上掲の皇統譜で疑問に思った主な点は以下の通り。
・武内宿禰 応神天皇は武内宿禰と神功皇后との間で生まれたと小生は考えているのだが、上掲の皇統譜には応神天皇の名が見当たらない。
・聖徳太子 上掲の旧ブログ記事にも示したように、聖徳太子は架空の人物であると栗本慎一郎は断定しており、小生も同意見である。
・天智天皇 小生は飯山一郎さんの「天武天皇は済州島の御方」という説を信じており、天武天皇の〝兄〟である天智天皇が蘇我一族の姫と結ばれた点に関心がある。

次に聖方位だが、日本列島に16万基あるとされる古墳の主軸が、聖方位である古墳は意外と少ない。ちなみに、今年の一月に訪れた志布志近郊の古墳群の場合、聖方位の古墳は皆無であった。

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『唐仁古墳群シンポジウム』p.9

では、日本列島には聖方位の古墳が幾つあるのか? それを示したのが以下の図だ。

19052204.jpg
『扶桑国王蘇我一族の真実』p.116

『扶桑国王蘇我一族の真実』では、聖方位の古墳の始点が会津若松の大塚山古墳で、200年ほどかけて西へと伝搬したとしている(p.115)。そして、古墳時代も末期に近づくと聖方位の古墳が急増していると説いているのだ(p.117)。つまり、聖方位古墳は東北から畿内に伝搬したと渡辺豊和氏は主張しているわけだが、飯山史観を根底に置いている身として、聖方位古墳の開祖は熊襲の首長であった応神天皇で、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)築造の本になったのが応神天皇であったと思う。しかし、会津若松の大塚山古墳が4世紀末の築造、一方で誉田御廟山古墳は4世紀末から5世紀初頭に築造とされており、ほぼ同時期ということになる。

果たして、両古墳いずれも応神天皇が本になって後世の者が築造したのか、あるいは会津の方は別の豪族が築造したのか、このあたりの確かなことは今のところ分からない。

19052202.jpg
『扶桑国王蘇我一族の真実』p.113

ともあれ、少なくとも誉田御廟山古墳は正真正銘の聖方位の古墳である。一方、その他大半の16万基に及ぶ古墳は聖方位とは無縁である。そのあたりについては放知技でも少し触れた。ちなみに、聖方位以外の大半の古墳の方位についてだが、北條芳隆氏の著した『「ものが語る歴史36 古墳の方位と太陽』(同成社)を、23回にわたって徹底的に追求した「気まぐれな梟」というブログが参考になる。

弥生時代や古墳時代の方位測定では、太陽の運行と影を利用する方法と夜空に輝く星を利用する方法は、当時の倭人にとっても使用可能なもので、それらは実際に使用されたと考えられる。
北條芳隆「ものが語る歴史36 古墳の方位と太陽(同成社)」を読んで(1)

19051807.jpg


それ以外に、「鬼の会」HPも参考になると思う。

日本の先人たちは先祖を敬う「貴い心」によって山のように大きな墳墓を各地に築いて来ました。其処には現代人の想像を絶するエネルギーがあった。
古墳方位1


以下、「日読み」、つまり日暦(真の太陽暦)のページです。
日読み1


天皇の崩御日と皇居との位置関係を円暦・方位と対照して行けば、ある古墳が真の天皇陵である事を発掘しなくても確定できます。
古墳纏め


次シリーズとして「天武天皇」に筆を進めるつもりでいたが、その前に、上掲の皇統譜を基に、武内宿禰から天武天皇までの流れを洗い直したいので、しばらく横道にそれるかもしれない。

ともあれ、百済国の王子(大海人皇子)である天武天皇を以て、日本の歴史が始まったのだし、唐に命を狙われて命からがら、済州島から大隅半島の志布志へ必死で逃げてきた天武天皇が、記紀の編纂を命じ、国名を「日本」と定め、自らを「天皇」と称し、シャーマニズムを日本に持ち込んできたのであり、その天武天皇について本格的に筆を進めるのは大分先になりそうだ。
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