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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
古墳時代 13
過日の拙稿「稲荷森古墳」で、今週訪れる稲荷森古墳のサイトを紹介したが、以下に再掲しておこう。

19051201.jpg
稲荷森古墳

三内丸山遺跡を例に挙げるまでもなく、東北には縄文時代の遺跡が大量にあることは知っていた。そして、時代を下った東北の古墳だが、稲荷森古墳のように東北の古墳群の多くが、西暦四世紀後半に集中して築造されたということを知って、「エッ」と思った次第である。何故なら、今まで五世紀初頭あたりに東北でも古墳がボチボチと誕生したのだろう程度に、今までは何となく思っていたからだ。小生は拙稿「志布志の旅 02」で以下のように書いた。

横瀬古墳(推定築造時期 5世紀中葉-後半 - 西暦440年~490年)や、唐仁大塚古墳(推定築造時期 4世紀末 - 西暦370年~390年)が築造された


まぁ、九州の唐仁古墳群も東北の古墳群も、タイムラグなく築造されたということだ。ちなみに、唐仁大塚古墳よりも古い生目古墳群の場合、ウィキペディアで「生目古墳群」を紐解けば、冒頭に以下のような解説がある。

宮崎平野を流れる大淀川右岸に位置する標高25メートルほどの台地上に広がる、古墳時代前期から中期の古墳群である。3世紀後半ないし4世紀前半頃から作られ始め、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群とされる。


以下、今年の一月に絶食青年(今年の三月、志布志から満州に飛ばされたwww)から謹呈してもらった、『唐仁古墳群シンポジウム』の図1(p.33)である。図を眺めればお分かりのように、南九州の生目古墳群と東北で最古とされている古墳群とのタイムギャップは100年前後ということで、明らかに古墳発祥の地である南九州から東北に古墳が伝搬したことが分かる。

19051401.jpg

ここで、上掲の拙稿「稲荷森古墳」でも紹介した論文、「東北日本における古墳文化の成立と展開」(p.93)に、以下のような記述がある。

畿内地方から遥遠の未開地であるがゆえに、古墳文化伝播に要する年代差を考慮するのがこれまでの常識であった。しかし後述するように、近年の研究成果によれば、すべての文化現象の伝播を遠距離なるがゆえ、はるかに数十年もおくれて到達すると考えることの誤りが明らかになりつつあり、四世紀後半代に本古墳の築造年代を求めうると考える。


日本では古墳発祥の地は畿内とされている従来の定説を、執筆者の大塚初重氏も疑うことなく信じていることが分かる。それにしても、この定説が間違いであることが、広く世に知れわたる日が来るのだろうか…。

再び上掲の稲荷森古墳サイトに戻るが、亀さんが最も注目したのが「南々西」という方角である。「ブルータスよ,お前もか」ではないが、「稲荷森古墳よ、お前も(聖方位)か」と思ったものである。なぜなら、「南々西」は南と南西の間の方角、つまり真南から西に向かって22.5°の方角だからだ。ここで、聖方位に関する拙稿「法隆寺を科学する」を思い出していただきたい。同稿は『法隆寺を科学する』の書評の形をとっているが、この本は故飯山一郎さんから謹呈していただいた本なので、御礼の意味で亀さんは同書の書評を書いた次第である。

この20°のズレは「聖方位」と言い、渡来人であった蘇我氏が日本に持ち込んできたもの


法隆寺の場合は(真北の方角からみて)西寄りに20°、稲荷森古墳の場合は東寄りに22.5°という、ちょっとした違いがあるにせよ、いずれも真北から20°前後にずらして築造された点では共通している。この20度のズレこそが聖方位なのだが、実は遥か時代を遡ると、ツランの遺跡にも聖方位を見出すことができるのだ。「一条真也の読書館」というブログに以下のような記述がある。

この栗本の『シリウスの都 飛鳥』という署名が示しているように、聖方位はシリウスと深い関係があり、大和三山の位置、あるいは後ろの正面♪は、シリウスの冬至の南中時に当たる聖方位を指している。


つまり、縄文と言えば太陽信仰だが、それが聖方位とどのように結びついたのか? 以下のブログ記事に目を通していただきたい。同ブログは栗本慎一郎の関係者が開設したブログで、『栗本慎一郎の全世界史』から一部を引用しており、拙ブログでも引用させていただこう。

「日本列島の文化は、ほぼ全体に太陽と星の位置を意識した方位のネットワークを張り巡らせていたことを基軸にする。​
​​
夏至と冬至時におけるそれぞれの日の出、日没地点を結んだ(夏至線と冬至線の)ネットワークは、世界のどこにでも見つかるものだが、日本の縄文時代(前1万2000年から前3世紀)のものは明らかに「異常なほど」精密なものだ。​
​
巨石文化ではないにもかかわらず、主要な夏至線、冬至線の交点にだけは必ず巨石が置かれていた。あるいは埋められていた。​

重要な神社や後の大寺はその夏至線、冬至線の上に載せられた。つまり、両線や交点は十分、意識されていたのである。​

後に、日本列島に全く別の方位たる「聖方位」が蘇我氏によって入ってきて以降、夏至線・冬至線の世界は聖方位の世界と混在し、対抗し合い、やがて支配層の世界では新しく聖方位が中心となった。​

この日本における方位の問題は、当然、それに伴ったはずの土木工事力も含めて、そこに全国的な政治権力があったことを科学的に推測させる。​

全国を統合するものがあったなら、初期段階の帝国が、そうでなければ王国が複数存在した。それは間違いない。

縄文王国と言うべきか、縄文帝国なのか、それとも糸魚川地後退から採れる宝物・翡翠の財力を頼った翡翠の帝国か、それは今分からない。」


【参考サイト】
縄文の息吹
北海道・北東北の縄文遺跡群

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