志布志滞在二日目について筆を進める前に、野崎晃市博士がブログ【文殊菩薩】に書き連ねた「飯山一郎先生の最終講義」シリーズで、亀さん的に付言したい箇所が3ヶ所ある。
■ルーツ
飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩隼人であったとの説もあるという。
飯山一郎のルーツは戦のため関東に移住した薩摩隼人で、志布志は先祖が住んでいた土地なのかもしれないとのことであった。 飯山一郎先生の最終講義(2)
かつて、亀さんは自分のルーツを少しだが調査したことがある。そして、現在想定している亀さん家のルーツは二つだ。一つは綾部市で、拙ブログにも少しだが書いた。 遠祖を求めて
実は、もう一つ想定しているルーツがある。それは、現在は入院中の実母が元気なころに語ってくれた話が基になるのだが、ナント! 亀さん家のルーツは鹿児島だったと母は言うのだ。母の話によれば、亀さんの父方のご先祖様が参勤交代で、鹿児島から江戸に来たのだが、どういう経緯かは分からないものの、そのまま江戸に住みついたのだという。念のため父の戸籍抄本を確認したことがあるが、出生が東京府北豊島郡日暮里とある。父は大正12年生だが、その5年前までは武蔵国豊島郡日暮里村であった。現在でも荒川区日暮里という地名として残っており、日暮里から薩摩島津家下屋敷跡や、薩摩藩三田藩邸跡までの直線距離は6kmと近い…。飯山史観の編集を終えたら、今度は冥土までの暇潰しにルーツ探しをしてみようかと、ふと思った。

■明治維新
飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩大慈寺は薩摩藩と海外との密貿易の関係を示す証拠であり、また明治維新の思想的源流の一つとしても重要な文化財であるようだ。 飯山一郎先生の最終講義(4)
現在進めている飯山史観の編集は、応神天皇の御代から南北朝あたりまでを主体に纏めるつもりでいたが、今回の志布志訪問で、改めて島津家について思うところがあり、明治維新で中枢的な役割を果たした藩の一つが島津家であったことを思えば、南北朝から明治維新に至るまでの流れを、島津家を中心に纏めてみようかと思うようになった。すなわち、島津家を深く追求することが、飯山史観の完成に欠かせないと思ったのである。その意味で、これが今回の志布志訪問の最大の収穫の一つだったのかもしれない。ともあれ、島津家について何処まで掘り下げるべきか、今後の検討が必要のようだ。
■安西ファイル
飯山先生が議論の教科書として読んでほしいと取り出されたのが、世界戦略情報雑誌『みち』の安西正鷹氏のトランプに関する論考だった。 飯山一郎先生の最終講義(7)
野崎博士の上掲の記事を安西さんに私信で伝えたところ、以下のような回答をもらっている。
いやぁ~、それにしても驚きました!飯山さんの最終講義をYou Tubeで観ましたが、 テキストとしてそのまま使っていたのですね。一部を引用したり軽く紹介している程 度だと思っていたので、本当にビックリです。もはや飯山さんの講義では採り上げら れないにしても、飯山さんの同志の皆様が引き続き目にするかもしれないと思うと、 これはますます高い質の内容にしなければと、身の引き締まる思いになりました。
これからの安西ファイル、ますます目が離せなくなった。その安西さん、安西ファイルと飯山一郎さんの関りを安西ファイルに書いたのだという。近く『みち』に発表されると思うが、その一部を掲示板「放知技」に転載しておいたので、関心のある読者に一読してもらえたらと思う。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16639517/6/
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