
大久保酒造で旨い焼酎を御馳走になった一同は、車で目の前にある横瀬古墳へと向かった。飯山さんの最終講義のビデオの冒頭で、横瀬古墳の頂上に立つ飯山さんについて野崎晃市博士は、「古墳を遠くに眺める飯山先生の姿は何か神々しくもあり、まるで古代からタイムスリップしてきた仙人のよう」と表現していたが、正に…。
上掲の仙人発言は昨日紹介した野崎博士のブログ記事、「飯山一郎先生の最終講義」シリーズの初回に書いてあるのだが、ビデオを幾度か繰り返し眺めながら、過日の亀さんの志布志の旅は、まさに野崎博士一行が飯山さんの最終講義を聴いた日に巡った、志布志の地を追認するものだったと今にして思う。
目を転じて、野崎博士らが飯山さんから文字通りの最終講義を受けている様子が、同ビデオに遺ったわけだが、ビデオを通じて最も重要な飯山さんのメッセージがあった。それが以下である。


加えて、掲示板「放知技」の本スレで、亀さんは飯山史観について以下のように書いた。
過日、志布志を初めて訪れ、横瀬古墳や唐仁古墳群を目の当たりにして、シベリアの地に誕生した墳丘墓(クルガン)の流れを、これらの古墳群が確実に引き継いでいることを肌で感じ取ることができたし、遠祖が遺してくれた古墳群を目の当たりにして故郷に戻ったような気持ちになり、感無量でした。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/964/
応神天皇の御代(在位:応神天皇元年1月1日~同41年2月15日 - 西暦270年~310年)から天武天皇の御代(在位:天武天皇2年2月27日~朱鳥元年9月9日 - 西暦673年3月20日~686年10月1日)の間に、横瀬古墳(推定築造時期 5世紀中葉-後半 - 西暦440年~490年)や、唐仁大塚古墳(推定築造時期 4世紀末 - 西暦370年~390年)が築造されたのだし、南北朝時代に建立された肆部合の石碑の場合は、「暦應四年十月廿六日西念」(暦應四年は1341年)と石碑に刻まれている。


■唐仁大塚古墳






ここで、『唐仁古墳群シンポジウム』と題する貴重な史料を、亀さんは絶食青年から一部頂戴している。これは同古墳群の調査結果をまとめた貴重な史料となっており、東串良町教育委員会の大﨑彩女史が纏めた「唐仁古墳群の調査について」の他、琉球大学法文学部・池田榮史教授の「唐仁古墳群の魅力」、宮崎大学・柳澤一男名誉教授の「古墳時代とはどのような時代か」、鹿児島大学総合研究博物館・橋本達也教授の「唐仁大塚古墳・唐仁古墳群と鹿児島の古墳研究」と、計40ページの小冊だが、中身は濃い。ただ、同史料の通読にあたっては注意すべき点があり、殊に飯山さんの以下の記事を念頭に置くべきだ。
 http://grnba.jp/more106.html#aa11191
上掲の記事以外に、唐仁古墳群で注意すべきは拙稿「応神天皇の秘密(4)」で紹介した飯山HP記事があり、唐仁古墳群の真相に迫るうえで貴重な記事となっている。 断定:「日本国」は大隅半島で建国された! 日本建国の秘密は大隅半島にある!
■島津家 初日はグルンパ諸施設、古墳群の他、ビデオにも映る大慈寺、密貿易屋敷、即身院跡を訪問しているが、共通のキーワードは島津家である。島津家の背後に浮かぶ英国の影を忘れてはならないし、謎の多い一族と云えよう。この島津家については、機会があれば取り上げていきたい。何故なら、南北朝以降の鹿児島の歴史を解くキーワードこそが、「島津家」に他ならないからだ。
秘密結社「薩摩ワンワールド」と、甑島(こしきじま)の関係。 深追いすると、皇室と英国の関係が透けて見えてくる…。 青州で思ふ(6)
その他に大慈寺ついてだが、大隅半島に仏教を伝えたのは、朝鮮半島からの王仁(わに)博士と世間一般では思っているようだが、この仏教伝来もいずれ見直さなければならない時期が到来するだろう。


次稿では、志布志での二日目について書こう。
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