くだんの場面で最初にデズデモーナがオセローに言う「ご気分はいかが、あなた」は、原文では「How is't with you, my lord?」で、「あなた」は「my lord」に相当する。my lord は、高貴な身分の夫婦間で妻が夫を呼ぶときに使われる言葉で、現代日本の家庭で妻が夫を「あなた」と呼ぶのと感覚的には同じらしい。これをデズデモーナは劇中で何度もオセローへの呼びかけに使っている。
これに対して、オセローに「お前はどうだ、デズデモーナ」と訊き返されたデズデモーナのセリフ「元気よ、あなた」は、原文では「Well, my good lord.」で、myとlordのあいだに「good」が入る。これはより丁寧というか、むしろ慇懃ともいえる言い方だという。そしてこのデズデモーナのセリフは、その前にオセローが言った「元気ですよ、奥様(Well, my good lady.)」と対になっている。ようするに馬鹿丁寧とも他人行儀ともいえる夫の言葉に、妻も他人行儀で返したのだ。ただし、同じ他人行儀な物言いでも、それを口にする夫婦の内実はそれぞれまるで違う、と松岡は次のように説明する。
《つまり、ここではもう、オセローは妻とキャシオーの仲を疑っていて、内心穏やかではない。だから「ご気分はいかが、あなた」と聞かれたときに、これは心底からの馬鹿丁寧で、あるいは穏やかでない内心を隠そうとしてわざと馬鹿丁寧に my good lady と言った。(中略)それにたいしてデズデモーナが my good lord と他人行儀な呼びかけをするとき、これは心底ではない。キャシオーとの仲は清廉潔白だし、そもそも夫がそんなことを疑っていることすら、彼女は知らない。ですから、デズデモーナの他人行儀は一種のお茶目なギャグのようなものなんです。夫がふだん使わない言い方をした。それを「あ、ふざけてるんだ」と思って、そこで自分もふざけて、とっさに my good lord と返してみせたわけです》