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人生は冥土までの暇潰し

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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
古墳時代 01
「北満州と日本列島」シリーズを終え、「古墳時代」シリーズを本格的にスタートする前に、前稿「北満州と日本列島 05」で取り上げた、飯山(一郎)さんの「外圧と占領」という視座で、簡単に飯山史観の御浚をしておこう。

■第1回目 - 旧人から新人へ
日本列島の「外圧と占領」が過去に8回半あったとする投稿を、飯山一郎さんが掲示板「放知技」に投じた。その第1回目だが、飯山さんは以下のように書いている。

第1回目は,紀元前1万5千年前頃.コロポックル小人族や石器文化人が住む日本列島に土器文化人が侵入.縄文文化が始まる.


亀さん流に書くとすれば、以下のようになる。

第1回目は,紀元前10万年以上前、日本列島に来て定着した旧人のテニソン人などに代わって、4万年前あたりから新人の狩猟型縄文人が日本列島に徐々に流れてきて定着、やがて、狩猟型縄文人が大勢を占めるようになったのが紀元前1万2千年前頃であり、その時期を以て縄文時代の始まりとする。


縄文時代の始まりだが、飯山さんは「紀元前1万5千年前頃」、亀さんは「紀元前1万2千年前頃」という、ちょっとした違いがあるにせよ、このあたりについては今後の発掘調査に待ちたい。また、飯山さんは「ロポックル小人族や石器文化人」、亀さんは「旧人のテニソン人など」といった違いもあり、このあたりも今後の発掘調査を待つことにし、現段階では保留にしておこう。

ただ、ウィキペディアの「縄文土器」の項目にあるように、縄文土器の出現が約1万6000年前であることから、飯山さんの言う紀元前1万5千年前頃は、まだまだ狩猟型縄文人が主流派だったと、亀さんは思っている。

それはともかく、拙稿「北満州と日本列島 02」で亀さんは、縄文人の遠祖にあたる現生人類が、「4万年前頃に舟に乗った新人が日本列島に到達し始めた」という説を紹介しており、10万年以上前から日本列島に住み始めていた旧人と、4万年前から住み始めた新人の縄文人は、日本列島が峻険な山国であったということもあって、しばらくは大きな争いもなく共存していたのだろうと想像している。しかし、1万2000年前あたりから、日本列島のあちこちを移動していた狩猟型の縄文人、すなわち石器型縄文人が大勢を占めるようになり、次第に旧人は追い詰められ、やがて新人が日本列島の主となって縄文時代が始まった、と亀さんは思う。

そして、4万年前に日本列島に流れてきた狩猟型縄文人の中から、約1万6000年に土器が発明された、あるいは土器を携えて土器型縄文人が日本列島に流れてきたのだろう。そして、その土器こそが、移動型から定住型の縄文人になったきっかけである。やがて、土器の普及に伴い、第2回目の「外圧と占領」に突入した、ということになる。

ここで、何故に土器が定住のきっかけになったと亀さんは思うのか…。それは、土器が縄文人の定住を促したからである。このあたりについての論証が、世界戦略情報誌『みち』にある。それが以下の記事で、縄文人が移動型(狩猟型)から、定住型(土器型)に推移した経緯を知る上で、必読の記事だ。
定住革命の先駆者となった日本 2

■第2回目 - 土器から稲作へ
第2回目の「外圧と占領」について、飯山さんは以下のように記している。

第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住してきて,移動型の縄文人に代わり農作定住民族が主流になる.いわゆる「弥生時代」.


やはり、ここでも亀さん流に第2回目を書いてみよう。

日本列島の新人、すなわち縄文人が石器型(狩猟型)から、土器型(定住型)の文化に変わっていった。そして、土器を手にすることにより定住する縄文人が増えていったのである。やがて、水田稲作を知る縄文人が紀元前5千年頃から、日本列島に流入、時の経過とともに日本列島は稲作型縄文人が、狩猟型縄文人に取って代わるようになり、そうした時代が古墳時代に突入するあたりまで続いた。


つまり、1万2000年前に土器が誕生して広まり、やがて5000年前に稲作を知る縄文人が日本列島に流入するようになり、土器型縄文人の代わりに稲作型縄文人が主流を占めるようになったのが3000年前(紀元前10世紀)、ということになるのではないだろうか。そのあたりから古墳時代に突入するまでの時代を、「弥生時代」と世の中では定めているようだが、実は、基本的に弥生時代というのは名ばかりで、本質は縄文時代と大差がなかった、すなわち弥生時代イコール縄文時代だったのである。

これは、どういうことか?

このあたりを理解するには、世界戦略情報誌『みち』の天童(竺丸)編集長の論文が必読となる。なかでも、「定住革命の先駆者となった日本 2」に重要な解が隠されている。すなわち…

定住するとは、家を造ってその中に住みつづけることであり、移動生活には不便な重い土器を作って使用することも定住の生活だからこそ可能になる。 世界でもっとも古いといわれる縄文土器の画期的意味について安田喜憲氏はこう力説している。

 僕は、土器というのは森の産物だと考えています。温帯の森の資源利用のなかから生まれたものです。土器を作るには、まず軟らかい土がないと駄目で、それには森林土壌が最適なのです。焼くためには燃料の木が要る。こねるためには水が要ります。森にはそのすべてが揃っている。……

 土器を作り出したことは、非常に革命的なことです。違う種類のものを一緒に煮て、違う味を出せるわけです。海からハマグリを、山からは木の実や山菜を取ってきてごった煮にすれば、まったく違う味が出る。それから煮沸しますから殺菌にもなる。煮ることで普通は食べられないものも柔らかくして食べられる。ですから、土器を作るということは、「食糧革命」でもあったわけです。(『環境と文明の世界史』五一~五二頁)


繰り返しになるが、土器の普及が縄文人をして定住を促し、稲作が広まったことで、定住が本格的になったということだ。これが、定説となっている「紀元前10世紀に弥生時代が始まった」につながるのである。このあたりの検証は、世界戦略情報誌『みち』の天童編集長が書いた論文、「縄文農耕の成熟と弥生水田稲作」の以下の記述を思い出していただきたい。

集団的労働システム運営の域にまで達していた縄文農耕の成熟を意図的に無視し「野蛮な狩猟採集経済段階」と決めつけた上で、渡来人による水田稲作の開始と弥生生活革命、それによる人口爆発などを描いて見せたNHKの『日本人はるかな旅』が、考古的・歴史的事実を歪曲する児戯にも等しい欺瞞であった。


つまり、われわれが教科書やNHKの番組(「日本人 はるかな旅」)を通じて、知り得た弥生時代のイメージは、大凡以下のようなものではないだろうか。

水田稲作が大量の渡来人によって日本列島にもちこまれて生活に一大革命が起こり、それが弥生時代という新時代の始まりとなった。


だが、これは全くの出鱈目であることは、前稿「北満州と日本列島 05」ですでに述べた。

要するに、基本的に弥生時代という時代は、そのまま縄文時代を引き継いだ時代だったであり、定説の「縄文時代→弥生時代→古墳時代」という図式は間違いで、本当は弥生時代を飛ばした「縄文時代→古墳時代」という図式が正しかったのである。このあたりについて実証している論文こそ、天童論文の一つである「渡来人は列島に埋没同化して姿を消した」だ。

 すなわち、紛れもなく朝鮮半島由来の土器を使用した人々が住んでいた痕跡が北部九州には存在する。しかし、それは独立した「渡来人集落」ではなく、すでに存在していた弥生式土器を使用する人々の集落の中に渡来人がいた、という程度の規模であった。しかも、長期間存在したとされる土生タイプも「一〇〇年後にはこの土器技法も弥生土器文化の中に埋没、土器もろとも同化され、姿を消した」(片岡宏司)のだった。これが「大規模な渡来」の本当の実態だったのである。


さて、石器型現生人類から土器型現生人類を主流としていた縄文時代、それに続く第二の縄文時代である〝弥生時代〟が、ついに終わりを告げる時が来た。

■第3回目 - 稲作から古墳へ
第2回目の「外圧と占領」について、飯山さんは以下のように記している。

第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入してきて,日本は豪族・古墳文化の時代になる.


飯山さんの第3回目の記述に、亀さんも概ね同意である。

ところで、ここで頭から離れない従来の疑問を思い出した。それは…

何故にユーラシア大陸で古墳が誕生したのか。シャーマニズム、あるいはツランに共通する膠着語という言語が関係するのか…。また、古代人にとって、古墳とは一体全体何だったのか?


というものである。これについては次稿以降で展開していこう。時代を少し遡るかもしれないが、再びユーラシア大陸に視点を移すことになる。

18121801.jpg
     『シルクロードの経済人類学』

【追伸】
放知技の小ボンボンさんが、以下のような投稿を行った。

稲の発祥は日本!
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/467/


ソー言えば、上記の飯山さんの私見を、直接本人から聞いたような、いないようなwww

そして、小ボンボンさんの投稿を読んで咄嗟に思い出したのが、栗原茂さんの以下の記述であった。

過去と未来の連続性を保つものには、何事も前段があり、その原点を幼稚(ようち)と思うのは大間違いであり、その原点が付加価値(ふかかち)をもつからこそ、未来に及ぶ技芸(ぎげい)の磨錬(まれん)に通じて、その労働の成果が潜在力となり、それら遺伝情報が培わ(つちか)れるがゆえ、現在という場を乗り越える力が発揮(はっき)できるのだ。家紋も同位相であり、通説は縄文時代に土器が出現したといい、一万二〇〇〇年前説から一万六五〇〇年前説まであるが、無文と別に、豆粒文、(とうりゅうもん)爪形文(つめがたもん)、隆起線文(りゅうきせんもん)、磨消縄文な(すりけしじょうもん)どの出土があるという。これこそ後に氏が家紋を用いる原点であり、それは草木(そうもく)の自生種観察(かんさつ)と稲類の栽培(さいばい)に端(たん)を発するのだ。
◆舎人家紋講座24

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