fc2ブログ
プロフィール

亀さん

Author:亀さん
FC2ブログへようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

kamesan

人生は冥土までの暇潰し

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
高麗神社と皇室
18121605.jpg
高麗神社

平成最後となる来週の天皇誕生日(12月23日)、放知技の数名の道友と一緒に高麗神社を訪問して参拝するが、訪問に先立ち、予習の意味で本稿をアップさせていただく。

18121601.jpg
右端は高麗宮司

昨年の9月20~21日、天皇皇后両陛下が埼玉県を御訪問、高麗神社に御親拝され(天皇家と高麗神社)、かつ渋沢栄一記念館を御視察されている。渋沢栄一と言えば、近代日本の礎を築いた人物であると同時に、徳川慶喜公の信任が大変厚い人物であった。そのあたりは、落合莞爾さんが著した『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』、「第七章  慶喜と大政奉還」にある、「渋沢栄一の衷情が滲む『慶喜公伝』」に目を通せば、自ずと納得いただけよう。

一方、両陛下の高麗神社ご訪問を巡ってAERAが、「朝鮮半島からの渡来人にゆかりのある日高市の高麗神社への参拝を巡り、ちょっとした騒ぎが起きた」などと書いていたが、そんなことよりも亀さんが注目したのは、「境内に若光の石碑が建立され、除幕式には高円宮家の久子さまも出席されています」という高麗文康宮司の発言、そして高麗宮司に陛下が御下問されたという以下のお言葉である。高麗宮司とは過去に幾度か会っているが、どのように宮司が陛下に回答したのか、次回訊いてみたいと思っている。

陛下 :高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか。


それから、以下は2016年4月23日に撮影された写真、「高麗神社に建立された石碑の除幕式に臨席された高円宮妃久子さま」である。

18121602.jpg

ちなみに、来年は天皇になられる皇太子殿下も昭和51年、同神社を参拝されている。また、同神社には大勢の政治家も参拝しており、そのうちの六名が後の総理大臣に就任した。さらに、あの川島芳子も同神社を訪れているのだ(川島芳子 生死の謎)。

ここで、読者は思うことだろう、「高麗神社とは一体、どういう神社なのか?」と。このあたりの謎を解くヒントは、上に示した高麗宮司への陛下からの御下問にある。拙稿「まぼろしの古都」を一読いただきたい。

この高麗王若光と同じ時代の空気を吸っていた人物に天武天皇がいた。天武天皇とは一体何者だったのかについて、未だに多くの謎に包まれているのだが、その天武天皇と高麗王若光についての貴重な記事が昨秋、世界戦略情報誌『みち』(平成25年11月15日号)の「巻頭言」に掲載された。以下に一部を引用しておこう。

天武天皇による「複都制」の構想は、歴史的に突厥と渤海、そして遼の都城構想に連なるものであり、しかも恐らくはそのいずれに対しても歴史的に先蹤となる地位を占めている。ただ惜しむらくは、天武天皇がこの複都制構想に基づく都城を建設することなく崩御され、わが国において五京制が陽の目を見ることなく終わったことである。

 もし、天武天皇がもう少し長生きをされ、わが国に「五京制」を実現されていたとすれば、難波京と飛鳥京の外に、信濃佐久京と能登福良(ふくら)京(石川県羽咋郡富来町福浦)、そして武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)という三京を置かれたのではなかろうか、と想像を逞しくしている。福良京は後に渤海使節のために「能登客院」が設置され(ようとし)た地で、武蔵高麗京は高句麗遺民の若光王のため高麗郡を置いた地(現在は高麗神社がある)である。


天武天皇が構想したという「複都制」を目にし、咄嗟に思い出したのが旧ブログで取り上げた、栗本慎一郎の『シルクロードの経済人類学』だった。つまり、天武天皇の出自は草原の民、すなわち遊牧民だったのかもしれないと思うに至ったのである。第一、そうでなければ草原の民独特の「複都制」構想が、出てくるはずがないではないか…。その天武天皇の寿命がもう少し長かったら、武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)が都の一つになっていたかもしれず、改めて幻(まぼろし)の古都に住んでいることの不思議さを感じた。


上記に栗本慎一郎氏の名前が出てくるが、『栗本慎一郎の全世界史』p.198にある以下の図をご覧いただきたい。この図については、亀さん的に幾つか納得のいかない点がある。たとえば、「北魏」。栗本氏の図からは、北魏と日本の〝深い〟交流について示されていないが、亀さんが「青州で思ふ(3)」に書いたように、「奈良の平城京は北魏の平壌がモデル」であったことを思えば、何故にこのあたりを栗本氏は言及しなかったのか、腑に落ちないのである。このあたりは、いずれじっくりと確認していきたいと思う。

18121603.jpg
関連記事
スポンサーサイト




コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバック URL
http://toneri2672.blog.fc2.com/tb.php/1621-82d49d01
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)