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[2018/12/21 23:02]
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貴重なアドバイス、ありがとうございます! 持つべきものは真の道友ですね。後に以下のような文章をブログにアップしたいと、現在考えていますwww ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 海を知る道友から貴重な指摘があった。 それは、古代の人たちも現代の人たちも、心は根本的に不変であることを前提に、「海の民は航海にあたり決してリスクを冒さない」という指摘、および「海の民は潮流や風に逆らわず、むしろ、それを生かして航海する」という指摘、マサニ、マサニ貴重な指摘であった。 よって、正式に『飯山史観』電子出版する際は、大阪の〝公演〟で描いた「日本列島からアメリカ大陸への〝無謀な〟縄文人の航海ルート」は、訂正する。 では、リスクを冒すことなく、かつ自然の力(潮流・風)に逆らうのではなくて寧ろそれらを利用する形で、どのように縄文人が実際に太平洋を渡ったのか、これは今後の宿題だ。 ともあれ、以下の飯山さんの縄文観を念頭に、今後も飯山史観の記事を書いていこう。 __________ 縄文人の”環太平洋ネットワーク” この「島国根性」の話は江戸時代以降つい最近までの話だ。江戸時代よりも昔のことをいうと、日本列島に住む人間達はもっと広大でもっと雄大な世界を舞台にして活動し、また暮らしていた。最も壮大であったのは我々の先祖、縄文人だ。縄文人は環太平洋をぐるりと舞台にした巨大なネットワークをもっていた。縄文人の一派はアリューシャン列島を渡ってエスキモーになった。アメリカインディアンも縄文人の親戚だ。南米のペルーにインカ帝国を築いたのも縄文人の仲間だ。もちろん、朝鮮人も韓国人も中国人も皆親戚だった。蒙古人だってそうだ。 ミクロネシア人、ポリネシア人、メラネシア人等の太平洋民族の遺跡を調べると縄文土器によく似た土器が出てくる。おそらく、みんな親戚だったのだろう。そして太平洋の彼方の民族と縄文人とを結ぶネットワークは、『海上の道』(柳田国男)を流れる雄大な黒潮だったのだ。 ”島国根性”を蹴飛ばして、”環太平洋ネットワーク”に目を向けよう! http://www.geocities.co.jp/NatureLand/9090/pcmail/yamataikoku.htm ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ __________ 大洋航海を支えた水瓶・縄文土器 こうして考えてくると、「日本列島は島国である」ということが何の意味もないことが分かってくる。地図でみてみると、日本国が島でできている国であることは間違いないことのように思える。しかし、海を重点において地図をみると、島も大陸も全部つながってしまう。黒潮や親潮などの巨大な海流を大海の上にできた道と考えれば、日本列島はアメリカ大陸ともつながっているし、太平洋からすれば日本海などは小さな池でしかない。事実、縄文人たちはそう考えて、いとも気楽に日本海や黄海を往来していたのだ。 聞いて驚くなかれ! 大洋を渡る船は全長6~7メートルのカイ付きの丸木船だった。この船は、全国の縄文遺跡から現在も続々と発掘されている。大洋を渡るのに食料は要らない。釣針が7~8本あればいい。魚はいくらでも釣れる。海鳥は手づかみだ。問題は、真水。最低10日に一回はスコールが来るから、水を蓄えるのに縄文土器は格好の容器なのだ。縄文土器は、宗教的な行事用のものだけではなかった。ともかく海を渡るために、土器は必需品だったのである。縄文土器とは、ただ単に縄文時代を象徴する芸術であるということではなくて、縄文人の生活と世界を物語る「縄文の歴史のすべて!」なのである。 文字・国家をもたない縄文人が形成した地球規模の壮大なネットワーク空間のこと http://www.geocities.co.jp/NatureLand/9090/pcmail/joumon.htm ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
[2018/12/22 03:04]
URL | 亀さん #FlJCcfGk
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海を渡った「縄文人」 亀さん、
さっそく取り上げていただき、ありがとうございました。 「海の民は航海にあたり決してリスクを冒さない」 「海の民は海流や風に逆らわず、むしろ、それを利用して航海する」 まさに私の言いたかったことはこれです。稚拙な表現をうまくまとめていただいて、さすが!文章を生業にされている方は違うなと感服!
本日の記事では飯山先生の過去記事のオマケまで紹介していただいたわけですが、ツランを源流とする民を「縄文人」というと、日本人は「日本から」とつい考えてしまうので、米大陸へツランの民がどう移動したか(1ルートだけではないと思います)を考える際に、そろそろ「縄文人が」という表現を変えたほうが良いのではと思い至りました。
1990年代前半だったと思いますが、仲代達也が主役のTBSスペシャルかなにかで、三内丸山遺跡から沖縄を通り、ヤップ州離島を通り、ソロモンを通ってついに南米に至る…そこで仲代はシャーマンに亡くなった妻を呼び出してもらって泣く…といった内容でしたが、ヤップ島ならびにヤップ州離島部分の撮影がいかにヤラセだったか知っている身としては、まったく噴飯物の「ドキュメンタリー」に見えました。大金をはたいた番組であることだけは確かでしたが。
海の道を考える(想像する)にあたっては、まず海・航海・自然を体験的に「知る」ことから始まるのではないのでしょうか?そして、何千年、何万年を経ていても、人間の生活はそんなに変わるものではありませんから、現存する航海術は、やはり大きなヒントになると思います。
飯山先生は「大洋を渡る船は全長6~7メートルのカイ付きの丸木船だった」と書いておられますが、発掘で出てきた櫂付の小船は、近海を海岸線づたいに移動するものでしょう。いくらか履修と季節風の助けがあったとはいえ、数十キロ以上ときに何百キロも離れた地点を移動するには、帆走しか考えられません。それに、遠洋航海はそんな気楽なもんではないです。乗船者は誰も「命がけ」は覚悟の上、しかし不安はおくびにも出さず、あっちの世界の加護を信じて祈り、まかせます。
ちなみに皆さん、古代の航海というとすぐに「丸木舟」と言われますが、丸木舟はクラックが入ると終わりです。しかも材料に無駄が多くなります。世界のどんな地域でも、木造船はちゃんとパーツに分けて造る技術が発達しています。ミクロネシアの場合は、チョウナ1丁(鉄のない時代は貝製)でそりを合わせ、水漏れしないように張り合わせ(太平洋の島ではパンノキの樹液がマリングルーでした)、ココヤシ繊維で作ったロープで組んでいきます。アラスカのほうでは毛皮のカヌーもあると聞きます。海岸線沿い、島伝いの短距離なら、櫂で漕ぐという方法も取られたでしょう。
いま私がやんわりと想像している渡りのルートは、 1)やや暖かかった時代に、日本列島、千島列島、アリューシャン列島、アラスカから北米大陸の沿岸伝いに南下。偏西風と北太平洋海流、カリフォルニア海流を利用。千島海流、アリューシャン海流は西へ向かう流れだが、あまり速くないので、列島づたいに風の力で移動は可能。
2)今でいうところのメラネシア~ポリネシア経由で、偏西風、南太平洋海流とぺルー海流に乗って南米大陸太平洋岸沿いに移動。
3)現在では沈んでしまった島嶼、または大陸?の存在
いずれにしても、一気に「行こうぜっ」と遠距離を大移動したのではなく、じわじわと何百年もかけて島伝いに交易しながら伝播したのだと思います。
[2018/12/22 20:55]
URL | suyap #-
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再びの投稿、ありがとうございました。今回も改めて多くを知ることができ、感謝いたします。
今日は、放知技の御一行様を引き連れて高麗神社と巾着田を回り、その後は飯能市で忘年会ですが、落ち着いた明日あたり、改めて今回の貴重なご意見を編集の上、再び記事にさせていただく予定です。
今後ともどうか、よろしくお願いいたします。
亀さん拝
[2018/12/23 06:38]
URL | 亀さん #FlJCcfGk
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