『週刊ダイヤモンド』(11月3日号)が、「投資に役立つ地政学・世界史」という特集を組んだ。それと並行して、「中間層の格差とポピュリズムはグローバリゼーションが生んだ」と題する、ダイヤモンド編集部の宣伝記事をアップしていたので目を通してみた。

通読して分かったのは、「ツラン」という視点が完全に欠落していることだ。天童論文に目を通した読者であれば、このあたりについて立ちどころに気がつくはずである。また、栗本慎一郎氏の〝最後の一冊〟とされている、『栗本慎一郎の全世界史』(技術評論社)の腰巻にも、以下のような重要なメッセージが載っている…。
日本史も、世界史も、すべてが一つの「歴史」 - ゲルマン人、中国人が恐れ、隠してきた「ユーラシア」にこそ躍動する歴史の源泉があった

栗本氏はツランという言葉こそ用いていないものの、栗本氏が言うところの「ユーラシア」とは、これ即ちツランのことであると思って差し支えないであろう。何故にツランに対して、「ゲルマン人、中国人が恐れ、隠してきた」のか? そのあたりについては、『栗本慎一郎の全世界史』、あるいは天童論文を一読すれば容易に理解できるはずだ。
さて、今回は栗本慎一郎氏が提唱する「ミヌシンスク文明」に筆を進めるつもりでいたが、昨日、『栗本慎一郎の全世界史』、そして『ゆがめられた地球文明の歴史』を久しぶりに再読してみたところ、『栗本慎一郎の全世界史』に〝栗本史観〟とも謂うべき、栗本氏の歴史観が展開されているのに気づいた。前回読んだ時に何故気づかなかったのかと、我ながら情けなく思ったものだが、栗本史観の紹介は極めて重要なので、ミヌシンスク文明については次稿に回し、今回は栗本史観について言及させていただきたい。
最初に、栗本史観を理解する上で参考になると思われるインタビュー記事(第一~三部)があるので、以下にリンクを張っておこう。 https://www.bio-anthropos.com/kurimoto-interview1-1/ https://www.bio-anthropos.com/kurimoto-interview1-2/ https://www.bio-anthropos.com/kurimoto-interview1-3/
また、やはり三部シリーズで別の栗本慎一郎のインタビュー記事もあり、併読していただければと思う。 https://www.bio-anthropos.com/kurimoto-interview2-1/ https://www.bio-anthropos.com/kurimoto-interview2-2/ https://www.bio-anthropos.com/kurimoto-interview2-3/
以上の計六部に目を通していただいたという前提で筆を進めよう。
他にはないユニークな栗本史観について、亀さんなりの視点で以て述べるとすれば、それは〝生命論〟という一言で言い表すことができる。インタビューの中で、栗本氏は以下のように語った(下線は亀さん)。
まず生命論があって、生命の実際の動きとして共同体の発展、興亡がある。こういう視点が根本にある。それが、そもそもの歴史の基本です。 https://www.bio-anthropos.com/kurimoto-interview1-2/
何故に生命論が「歴史の基本」ということになるのか、上掲の栗本氏の言葉だけでは分かりにくいと思うので、栗本氏の謂う生命論の大枠が示された、『栗本慎一郎の全世界史』の「はじめに」の冒頭を引用しておこう。
はじめに - 哲学と生命論なき「歴史」学は全て退場せよ
歴史人類学は、私が1988年に『意味と生命』なる哲学書を書いた時、最後尾において「これから生命論として思索と研究のテーマにするぞ」と述べた分野である。おそらく誰にも意外だったろうが、当たり前ながら私は本気だった。 『意味と生命』の土台になったマイケル・ボランニーの生命論(それはすなわち意味論)に導かれて、私は「層の理論」というものを提唱した。あるいは、既に提唱されていたものを新たに解読した。 それによれば、実は生命はいくつもの層からなっている。たとえば、われわれの身体と精神の関係は大きく見れば、まず下層に純粋に物理的化学的素材からなっている身体性の層がある。そこでは原子の結合がこうで、分子の素材はこうであるということが分かっている。かなり深く分かってきていると言える。 しかし、分析や注目がそのレベルにとどまる限り、いかに細かく研究しても精神を持つ生命の(仕組みの)表面にも到達しない。下層だけの分析をいくらしても、その下層システムの働きも最終的には分からないのだ。そもそも、生体の内部においてもっとも重要な化学反応に対応する酵素の役割さえも、私に言わせれば、今のところ基本がほとんど解明されていない。謎ばかりである。上位にある生命システムの中での位置が見えないということだろう。 大体、なぜ素材的には反応に関係のない酵素が登場しなくてはならないのか。基本的に変ではないか。その意味では、素材のことは分かってきても素材間の関係は分かっていない。分子生物学の研究が進めば進むほどその分かっていないことが分かってくるだけのことである。それはどれも化学反応における触媒の役割の謎に酷似した問題であり、そこでまた「層の理論」の提唱者、マイケル・ボランニーの関心に戻ってくるというわけであるが。 ともあれ、素材的下層も単なる素材であるだけではなく、外見としての身体を形成した段階で、より上位の原理によってコントロールされている。それは共同体の内部における人の場合と同様だろう。こうした素材の統御は内部と外部を隔てる境界を生むが、理の当然として、境界は連続して存在し、その内側に「形」を作らざるを得ない。 そこで重要なのは内部と外部の峻別であり、その内部には素材を統御する原理がある。実は、その原理こそが、下層の原理の一つ上にある「生命」と呼ぶべきシステムなのである。 本書中では、国際金融(資金資本)の担い手である主流派ユダヤ人が民族的にパレスチナに生まれた人々ではないことを初めて公然と論じた人物が科学哲学者アーサー・ケストラーであることを述べているが、そのケストラーが機械の中にもある種の生命性があるものだと論じた「機械の中の幽霊」論は明らかにそういう論理構成をとっている。かくしてケストラーとボランニーと私はどうしても同じものに関心を抱いたことになるが、これは言ってみれば「生命の階層性」というようなことであったろう。 『栗本慎一郎の全世界史』p.2~5
つまり、栗本氏の謂う生命論、すなわち生命の階層性という発想を根底に置かないことには、真の歴史を捉えることができない、ということなのである。このあたり、栗本氏は続けて以下のように述べている。
歴史を学ぶとは、ヒトの個体的生命の一つ上の層の生命現象を観察することなのである。 『栗本慎一郎の全世界史』p.8
ヒトの社会の歴史のありかたを考えること自体が哲学であり、歴史こそが生命であるということだ。その意味で、過去の歴史「学」は重要な事実誤認や見すごしがあったということではなく、その認知の方法自体がすべて間違っていたということである。 『栗本慎一郎の全世界史』p.11 実は、亀さんも栗本氏が主唱する「生命論」について、1995年前後に接していたのだが、その時は単に〝知識〟として身につけたのに過ぎなかった。一方で栗本氏の場合、〝智慧〟のレベルにまで達していたのである。そのあたりを物語っているのが、上掲の栗本氏の言葉というわけだ。
ところで、亀さんが知識として得た生命論だが、それは藤原肇氏が作成したホロコスミックス図(以下)である。ホロコスミックスとは聞きなれない言葉だが、ホロコスミックスについての同氏の論文(英語)があるので以下を参照されたい。 Holocosmics: Beyond the new horizon of a unified theory in the Meta-Sciences
 ホロコスミックス(宇宙システムを構成する多次元構造)
亀さんが上に示す藤原氏の論文を「宇宙巡礼」HPにアップしたのは、ほぼ四半世紀前になる。爾来、ホロコスミックスについて気にはなっていたが、今回漸くにして栗本氏の「生命論」と結びついたということになる。ともあれ、現在進めている『飯山史観』の編集に、栗本氏の謂う生命論がどのような形で織り込まれていくのか、現時点では全く予想ができないものの、栗本氏の謂う生命論を飯山史観に吹き込むと何が起こるのだろうかと、今からワクワクしている自分がいる。
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