8月25日にアルゼンチンから帰国して一週間と経たないうちに、アルゼンチン中銀が30日、政策金利を60%に引き上げたというBloombergニュースが目に飛び込んできた。 ペソが最安値更新、アルゼンチン中銀は政策金利を60%に引き上げ
これは、掲示板「放知技」の常連の一人、mespesadoさんが>>592で「外貨建て債務が多いといかに経済に対する悪影響が大きいかを示す典型例」と指摘している通りなのだが、それはともかく、Bloombergニュースの結語、「デフォルト(債務不履行)や社会の大混乱につながった約20年前の通貨急落の記憶がよみがえった」については、亀さんはあまり気にしていない。なぜなら、20年前にもデフォルトを経験したアルゼンチンの庶民、今日に至っても逞しく生きているではないか。今回もデフォルトあるいはそれを上回る事態に陥ったとしても、逞しく生き抜いていくというのが庶民というものだし、今回久方ぶりにアルゼンチンを再訪し、一層その感を強くした次第である。

さて、今回より政治・経済・地理・歴史・文化・民族・言語といった、様々な角度からアルゼンチンの解剖を試みていくことにしよう。
■インディオと縄文人に見る共通点 アルゼンチンの歴史については、ウィキペディアの「アルゼンチンの歴史」に詳しいので目を通していただくとして、最初にウィキペディアの冒頭にある以下の記述に注目されたい。
アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11000年にアジアからベーリング海峡を渡ってやってきた人々だった。
亀さんをはじめ、読者のほとんどは学校の教科書で、「ベーリング海峡説」を教わってきており、北米のインディアンや中南米のインディオは、ベーリング海峡を渡ってやって来た人々という説、今日に至っては世の中の常識と化している。しかし、亀さんはそうは思っておらず、日本列島の縄文人が太平洋を横断して南米にわたったという、「太平洋説」を支持しており、簡単に拙稿「古代マヤと日本」でも言及した。
亀さん注:上記拙稿中で紹介した、「飯山一郎の縄文時代論」という記事がアクセス不能になっている。このあたりの経緯は、ぎのご怪獣さんが「放知技」>>329でズバリ指摘しているように、同じ輩による仕業であると思って間違いない。
ただし、上記の飯山さんの縄文に関する記事こそアクセス不能になったが、幸い拙稿で紹介した他の飯山さんの記事は今でも生きているので参照にされたい。 ・”島国根性”を蹴飛ばして、”環太平洋ネットワーク”に目を向けよう! ・文字・国家をもたない縄文人が形成した地球規模の壮大なネットワーク空間のこと

また、最近の研究でも「太平洋説」を裏付ける、書籍や記事が徐々に出回るようになったことを指摘しておこう。たとえば… ・『インディオの縄文人』(金子好伸 宮帯出版社) →筆者の金子氏はフリーライターで、学術的な論拠にやや難があるものの、それを補うだけのインテリジェンスで満ちあふれた、刺激的な書籍となっており、同書を通じて縄文人の航海術は、南米へ到達できるだけの優れたものであったことに確信が持てよう。
・『海を渡った縄文人―縄文時代の交流と交易』(橋口尚武 小学館) →日本列島を中心に記述している本だが、学術的にしっかりした本である。
ネット記事にも優れたものが多い。たとえば… アンデスのインディオと縄文人の共通性 →アンデスのインディオと縄文人は、ATLウイルスという共通性があることから、5000年前に縄文人がアンデスに到着、現在のインディオは縄文人の末裔であると同記事の筆者は推測している。
加えて、アルゼンチンから帰国後、録画してあったNHKの「縄文1万年の美と祈り」という番組を見ていた時、縄文人の死生観「再生」のシーンに目が釘付けとなったことを告白しておきたい。つまり、再生のシーンに深く共鳴する自分がいたのであり、朧気ながらも自分に縄文人の血が流れていると、直感的に悟ったのである。

ところで、ウィキペディアの「アルゼンチンの歴史」を読み進めていくと解ることだが、アルゼンチン史はスペイン植民地時代(1516年-1810年)を堺に大きく様変わりする。
■影を落とすスペイン植民地時代 スペイン植民地時代から近代に至るアルゼンチンの歴史について、親友のシルビアとは多く語りあっているが、放知技でも簡単に触れたように、最も強く印象に残った彼女の言葉は、「スペインは嫌い」というものであった。 ブエノスアイレス滞在記 12
アルゼンチン人は、表層的にはラテン特有の底抜けの明るさを持つ民族のように思われがちだが、一歩彼らの心の奥に踏み込んでみれば、インディオ大殺戮という暗い過去が顔を覗かせるのであり、程度の差こそあれ、一人一人が心の片隅のどこかで重い十字架を背負っているのが分かり、ハッとさせらることが今までに幾度かあった。
このアルゼンチン人の背負う重い十字架、若い頃はカトリックの教義辺りにあるのではと漠然と思っていたが、自分なりにアルゼンチンを含めた南米の歴史を調べていくうちに、インディオの大殺戮こそがアルゼンチン人、殊にポルテーニョの心に暗い影を落としているという確信を持つに至っている。
たとえば、本シリーズの「アルゼンチンで思ふ(1)」で、亀さんは作家である風樹茂氏の記事を紹介し、風樹氏のポルテーニョ観を示す行を引用している。
誤解してはならないが、ポルテーニョの差別は膚の色によるのではなく、あらゆる他者に対する差別なのである。意見が違うもの、別の政治信条を持つもの、利害が対立するもの、身内じゃないもの、その距離が遠ければ遠いほど、差別が強まる。ポルテーニョ自身もこの差別からは無傷ではいられない。 アルゼンチンで繰り返される新自由主義とポピュリズム
このポルテーニョについて詳述するにあたり、ある写真展での体験を風樹氏は書いた。
この写真展はアルゼンチンで絶えず繰り返される復讐と燃え上がる憎悪、ポルテーニョたちの精神錯乱の解かれざる秘密を氷解させてくれた。
それら全ては、殺されたインディオたちの復讐であり、思いもよらない呪いだったのだ。パンパスの亡霊が、彼らの魂の染み込むこの広大な大地が、ポルテーニョたちを捕らわれの身にしたのである。
彼らがインディオ文化を抹殺し、他の南米のようにさほど混血もせず、虐殺したとき、彼らとこの大地とを結ぶ絆は、永遠に切り離され、この移民たちは、この大地の文化とはまったく無縁となった。 アルゼンチンで繰り返される新自由主義とポピュリズム 3
この風樹氏のポルテーニョ像で、ポルテーニョの心の深淵をほぼ掴めると思うが、さらに同氏は以下のように付言している。
それら全ては、殺されたインディオたちの復讐であり、思いもよらない呪いだったのだ。パンパスの亡霊が、彼らの魂の染み込むこの広大な大地が、ポルテーニョたちを捕らわれの身にしたのである。
この国には、他のメスティーソの南米が持つ国民の統合などはない。国民ではなく単に個人がいるだけである。
そして、風樹氏の以下の言葉…
ここ(アルゼンチン)にきた人々は、北アメリカの移民のように、新たな世界を作り上げようという理念は一欠片も無かった。あったのは土地からあげる利益だけだった。
同感である。別稿で詳述する予定であるが、今回の再訪でアルゼンチン人に強い絆は見受けられず、一人一人がバラバラであった。こうした社会を亀さんは甘納豆型社会と呼んでいるが、それと対局にあるのが納豆型社会で、そのあたりは拙稿「納豆型社会の情景」でも言及しているので割愛する。
最後に、アルゼンチン人全員がブエノスアイレス生まれで、白人系のポルテーニョではない点に注意を喚起しておこう。たとえばシルビア。彼女はブエノスアイレス市から北方400キロ離れた、エントレ・リオス州ノゴジャ生まれ・育ちである上、一人の〝脱藩人〟でもある。その彼女が語った「スペインは嫌い」という言葉には重みがあり、そこにアルゼンチンの未来にかすかな希望を見た。
次回はスペイン植民地時代以降のアルゼンチンの歴史、殊に第二次世界大戦以降のアルゼンチンについて言及したいと思う。
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