倭は日本列島にあった国ではなく、元来から朝鮮半島に在ったのだし(下図)、決して日本(日本人)のことではなかった! 応神天皇の秘密(3)
 『卑弥呼の正体』p.187
今回の堺市で飯山一郎さんとお会いしたのは四回目(東京→青州→大阪→堺)となったわけだが、歴史が話の中心となったのは二回ある。初回は一昨年秋の青州、そして今回の堺だ。青州には四日間滞在し、歴史の深奥について多くを聞いた。そのあたりの報告は、「青州で思ふ」と題したシリーズで計9本の記事を書いているが、中でも歴史を中心に書いた記事は以下の4本である。
青州で思ふ(3)…古代中国 青州で思ふ(4)…古代朝鮮 青州で思ふ(5)…古代日本 青州で思ふ(6)…総括(殷→箕子朝鮮→北魏→北燕→邪馬台国→馬韓→扶余→百済→日本)
青州では「青州で思ふ(3)」にある古代中国の話を中心に、飯山一郎さんの話を四日間かけて聞いたわけだが、今回の堺市では二日間かけて「青州で思ふ(4)」の古代朝鮮について聞いたことになる。殊に、話の中心は朝鮮半島の三国時代(紀元前1世紀~7世紀)で、そのあたりを中心に幾本かの記事を書くつもりでいた。
 朝鮮史
ところが先週金曜日の夜、長年の付き合いのあるドイツの翻訳会社からメールが届き、昨年の晩秋あたりから予告のあった大量の仕事(翻訳)が、今週からスタートすることが本決まりとなったと書いてあった。だから、慌てて「応神天皇の秘密(3)」を一昨日アップしたのだが、どう考えてみても、予定していた残り数本の記事を書き終えるのは無理…。
そして今朝、件の翻訳会社から大量の翻訳ファイルが届いたという次第だ。当初は20万語ていどと言われていたのだが、いざフタを開けてみたところ、ナント倍近くの36万ワード…。今までの体験から、36万ワードを翻訳し終えるのに数ヶ月かかるはずで、7月下旬にアルゼンチンへ発つまでに終わるかかどうか心許ない。もしかしたら、アルゼンチンに行っても仕事を続けざるを得ないかもしれないのだ。よって、次の「応神天皇の秘密」シリーズを書くにしても、アルゼンチンから帰国して以降のことになりそうだ。
むろん、途中で時間が取れたら「応神天皇の秘密」シリーズを書くかもしれないが、そのあたりは皆目わからないというのがホントウのところだ。そこで、本稿では堺市で耳にした飯山史観のあらましを、箇条書き(順不同)の形で示しておくことにしたい。
■応神天皇の出自は熊襲 堺で飯山さんの話を伺って、話の骨格が【連載:ホンダワケ】シリーズに示されていると改めて思ったので、以下にリンクを張っておこう。
応神天皇は仲哀天皇の子? 巨大な前方後円墳の原型は? やはり応神天皇は…
ここで、応神天皇の御代以降、熊襲は隼人と称されるようになったという点に注目の上、その背景を上の記事で確認していただきたい。
また、皇統という観点から見た、応神天皇についての以下の記事も重要である。
応神天皇(ホンダワケ)が祟る時代が来る…鴨
■蒲生君平の著した『山陵志』 「初めて古墳を天皇陵(山陵)として比定したのが、江戸時代の蒲生君平である」と飯山さんは語っていたが、それと関連して、山形明郷先生の以下の言葉を併せて紹介しておく。
ところで、ここに一つ不審に思われることがあるので、概略を述べておきたい。
わが国の史学者は、どういうわけか他国の歴史に関するものであるとわざわざ出向していき、めったやたら陵墓を掘り返し、何が出土したの発見されたのなどと、他国の歴史的存在や文化程度の一端が解明されたと発表しているが、こと自分たち日本列島の具体的な歴史解明については、一向になされず放置したままで平然としている。
このことは、学者のみならず、一般の研究家と称される人たちもまったく同じ姿勢なのである。これはいったい、なぜなのであろうか。
日本の古代史を語る上で、つねに持ち出されるのが、その信愚性がまったく定かではない「魏志」を始めとする「倭人伝」一辺倒の解釈である。
「倭人伝」を引っぱり出して云々することは各人の自由であるが、それならば「邪馬台」やその国の女王であったという「卑弥呼」の墓と推定されている「箸墓古墳」を始め、幾多の陵墓が現存しているのであるから、なぜそれらの墓を調査しないのであろうか?
それは、現在の皇室に関わる存在であるから、という懸念からだとするならば、そのような考え方は一掃されるべきである。
今日現在、天皇の陵墓としてみなされている存在は、百パーセントの確率で考古学上の物証は皆無である。江戸の寛永年中、蒲生君平によって編纂された『山陵志』が語っているに過ぎないからである。 『古代史犯罪』p.79~80
また、以下は飯山さんが蒲生君平について言及した投稿…。
天武以前の日本は古墳時代で、豪族たちが合従連衡していました。
その豪族たちの中で最大の勢力を誇っていた首長の墓が仁徳天皇陵とした のは、伊勢松阪の本居宣長の指導で蒲生君平が書いた『山陵志』が最初。 これを後代の学者がほとんど検証しないまま、現在に至っている…。
ズバリ言えば、仁徳天皇は架空の存在です。実在した証拠はありません。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/14186314/917/
豪族に関して、同じく飯山さんの以下の投稿にも注目されたい。 http://grnba.bbs.fc2.com/reply/15523279/932/
■唐仁大塚古墳 【参照】飯山HP
昨日は朝から夜まで隣町で歴史の勉強! 断定:「日本国」は大隅半島で建国された! 日本建国の秘密は大隅半島にある!
堺市で、堺のおっさんと亀さんのみに配布してくれた史料、以下に公表する。
 
 
■原田古墳 参考【飯山HP】 あらびき茶の産地は 日本古代史の舞台
■日本書紀 日本書紀は幾つかの改訂版があり、版を重ねる毎に六代の天皇について、良い書き方をしなくなっていくのがわかる。
応神天皇 陵の記載なし 允恭天皇 皇居地の記載なし 雄略天皇 兄弟殺害等の暴虐 清寧天皇 皇后の記載なし 皇子なし 顕宗天皇 兄の仁賢天皇より先に即位 皇統は兄の仁賢天皇にまわる 武烈天皇 暴虐、皇子の記載なし
藤原不比等は日本書紀に登場する、応神天皇から武烈天皇までを悪ざまに改訂しているわけだが、古事記同様、日本書紀初版には、上記の天皇について悪く書いてはいなかったのだ。
■開化天皇 欠史八代の最後の天皇である開化天皇から初めて枝分かれし、そこから安倍晋三の遠祖が出た。従って、現皇室(田布施)よりも前に分家していることから、安倍家の方が格上と安倍総理は認識している。
なを、流れとしては葛城王朝(欠史八代王朝)→イリ王朝(崇神王朝または三輪王朝)→ワケ王朝(応神王朝または河内王朝)と王朝の交替があった(継体天皇以降の王朝は略)。
■東アジアの二大源流(殷とツングース) ・殷のシャーマニズムを引き継いでいるのが日本の今上天皇。 ・ツングースのツンとは豚の意。
殷のシャーマニズムについては、拙稿「天頂に生きる」に書いた。ツング=豚については、飯山さんが幾本か記事にしている。たとえば、「われわれの先祖は豚を飼う民族だった」を参照のこと。
上記以外に、誉田八幡宮の宝物館に入館させていただいて観賞した金銅透彫鞍金具、部落の起源、鯨解体族、その他という具合に書きたいテーマも多いのだが、ネットという公の場では発表できない秘話も多々あるので割愛させていただく。
 宝物館の前庭に咲く紅白梅
ここで一言。
亀さんが堺市に赴いて飯山さんの話を聞きに行ったのは、知的好奇心から飯山史観に関心があるというだけではない。新しい御代を迎える来年5月以降、どのように生きていくべきか、自分なりの羅針盤を作成したいと思ったからだ。そのあたりは、今年の忘年会の勉強会において発表できればと思う。
なを、アルゼンチンでの体験もブログ記事にする予定だが、これは「応神天皇の秘密」シリーズが終わってからにしたい。
最後に、堺市で別れる際に飯山さんが次のように言ってくれた。
今度は、古代日本について語りたいことがある。場所は志布志!
いよいよ大詰めとなる飯山史観についての最終話、志布志市で古代日本の秘密に迫る話を聞くことになるわけで、今から楽しみだ。しかし、その前に、「応神天皇の秘密」シリーズを完結せねばならぬ…。
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