■南方熊楠と柳田國男 鶴見和子の『南方熊楠』に目を通して、気づいたことがある。それは、南方熊楠と対比する形で、柳田國男を引き合いに出していることだ。そして、鶴見は柳田よりも、南方の生き様に惹かれているのが分かるのである。そのあたりを如実に物語っている、鶴見の記述を幾つか引用しておこう。
しかし、神社合祀反対をめぐる二人(南方熊楠と柳田國男)の往復書簡は、この二人の相違をしだいに大きくさせ、「いきさつ」がなくても、疎遠になったかもしれないと私には思われる。
第一に、「地域」または「地方」に対する双方の感覚の差である。
南方は、定住者の立場から、地域を見た。柳田は、農政学者として、農政役人として、そして旅人として地域を見た。南方は、地方にいて地方から中央を見、柳田は中央にいて中央から地方を見たともいえる。
第二に、南方は、世界の、そして地球の一部としての、地域(エコロジーの単位)を考えたのに対して、柳田は、日本国の一部としての地域(政治的単位)を考えた。
第三に神社合祀反対運動において、南方が、地方官憲に対して、対決をおそれぬ精神でぶつかっていったのに対して、柳田は正面衝突をなるべく回避して隠微にことをはこぶように忠告した。
第四に、南方が、外国の学者へも傲をとばして、国外の世論を結集しようとしたのに対して、柳田は、そのような行為は国辱を外にさらすものだと激しく反対した。南方は、今日のことばでいえば、国をこえた民際交流を射程に入れていたのである。柳田はこのことに関して、日本国家の外に出ることができなかった。
第五に、柳田は「常民」を造語し、それをかれの民俗学の中心においた(鶴見、『漂泊と定住と』、88~90ぺージ。色川、『柳田国男』、34~39ぺージ参照)。
南方は集合名詞として人々をとらえなかった。あらゆる職業の人々と、個人としてのつきあいを重んじた。 p.156~157
谷川健一は、「むしろ柳田民俗学の限界は、日本人とは何かという問いに終始し、ついに人間とは何かという問いの解決まで進み得なかったことである。……南方の学問の魅力は、知識を統制したり制限したりしないことである。そこには全エネルギーの躍動と奔騰がみられる。すなわち、床の上にばらまかれた燠のような彼の知識をとおして、人間とは何かという質問に私たちは直参し得る。その問いは泰西模倣の学に甘んじなかった柳田がついに答えなかったものであり、南方は不十分ながら答えているのである。 p.197
南方は、一方で多系的発展をみとめた点で、当時西欧で支配的であった進歩史観を超えており、他方で近代社会の基層に、原始、古代心性が存在することの普遍性を喝破したことにおいて、柳田を超える。 p.201

殊に、上に挙げた二番目の記述、「むしろ柳田民俗学の限界は、日本人とは何かという問いに終始し、ついに人間とは何かという問いの解決まで進み得なかった」という行を目にして、アッと思った。
つまり、柳田は「日本人とは何かという問いに終始」していたという、谷川健一の柳田評を何故に鶴見が敢えて取り上げたのかと、あれこれ考える自分を忽然意識した時、はっと驚いたのである。南方も鶴見も、十代から二十代の前半にかけ、一年以上の長期にわたる海外生活を体験しているではないか…。
南方や鶴見同様、亀さんも十代の頃に日本を飛び出し、三年近くにわたる海外放浪を体験しているが、そうした多感な十代から二十代前半にかけ、我が身を日本の外に置いて初めて身につくもの、所謂〝(国際)感覚〟とでも云うべきものがあり、その〝感覚〟が身についている者でなければ、到底理解し得ないものだと気づいたのである。
この〝感覚〟というもの、言葉で表現するのは難しいのだが、「人類皆兄弟」という〝感覚〟とでも云えようか…。これは、ほとんど日本列島を離れたことがない人たち、あるいは長期の海外生活を体験したとしても、中年以降に体験してる人たちには、恐らくは頭では理解できるにしても、到底肚では理解し得ない類いの〝感覚〟だとしか言いようがない。
今にして思えば、亀さんが相手の国籍や肌の色に拘ることなく、同じ人間として付き合うことに何等違和感が無い理由も頷けるのだ。だから、「長期の海外生活の後、あなたの人生の方向性というものが、大きく決定づけられたのではありませんか?」と、紀伊田辺にある南方熊楠邸の庭で暫し語り合った、南方熊楠の血縁者だという婦人に指摘された時、ハッとしたのだった。そして、多感な時期に長期の海外生活を体験した者にしか身につけようのない、ある種の〝感覚〟の正体を、朧気ながらも掴めたような気がしたのだ。だからこそ、表層的(頭)にではなく心の奥底(肚)で、南方熊楠の生き様に共鳴し、その南方について書く鶴見にも共鳴できたのだと、今にして思う。
かつて亀さんは、現代日本人を三通りに分類してみたことがある。
国粋派 コスモポリタン派 脱藩派
亀さん自身は三番目の脱藩派に最も近いと思っているし、「バイカルチャーという性向を持ち、己れを生み育んでくれた祖国を思う一方で、相手の国籍や肌の色に拘ることなく、お互いに同じ人間として自然に接することができる」真の脱藩派人間を目指し、生涯を終えたいと思った。
【グリコのおまけ】 今夏、アルゼンチンに一ヶ月滞在するが、親友のホルヘから漸くメールが届いた。どうやら、仕事で隣国のチリに出かけていたようだ。メールには以下のようなことが書いてあった。
… my mother, Isolina is now 91 years old, she is fine and will be so happy to see you again.
…中略…
So happy to see you again!!!!
1972年、ホルヘの自宅に亀さんは泊めていただき、二年後の1974年にホルヘが亀さん宅をご両親を連れて訪問している。残念ながら、当時の亀さんはサンフランシスコに居たので、その場に居合わせることはできなかったのだが…。
ともあれ、「So happy to see you again!!!!」にはグッと来た、有り難うな、ホルヘ…。現地では大いに酒を酌み交わそうぜ。
以下の拙稿に載せた写真に、ホルヘの御母堂Isolinaが写っている。これは1972年の写真だから、あれから46年もの月日が流れたわけだ。まさに、光陰矢の如し…。 思い出のアルゼンチン 2
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