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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
南方熊楠の世界(2)
■南方マンダラと人体
時折、人体は小宇宙に喩えられることがある。そう言えば、NHKが「人体 神秘の巨大ネットワーク」と題するシリーズを放送中であり、拙稿「山中伸弥と巨大利権」でも同番組を紹介している。参考までに、NHKの同番組のPRサイトにあった紹介文を以下に引用してみよう。

脳や心臓が人体の中心」なんて考え方は、もう捨てよう。
あなたは知っているだろうか?
体の中で、あらゆる臓器や細胞が、まるでにぎやかに会話するように、
ダイナミックな情報交換を繰り広げていることを。
それはまさに、人体という名の「巨大な情報ネットワーク」。
いま、あなたの体内で交わされている、臓器たちの熱い会話が、
あなたの命を、健康を、支えているのだ。

人体 神秘の巨大ネットワーク


ここで、冒頭の「脳や心臓が人体の中心なんて考え方は、もう捨てよう」を目にして、何をいまさらという感が強い。このように思えるようになったのも、西原克成先生の著作との出会いが大きく、そのあたりは旧ブログの「内臓が生みだす心」にも書いた。その他にも旧ブログでは西原先生の著作を取り上げており、たとえば「免疫力を高める生活」や「究極の免疫力」といった拙稿がある。

その後、人体という小宇宙という観点で、亀さんなりに調べてきたワケだが、特に大きかったのが、飯山一郎さんが提唱する乳酸菌との出会いだ。たとえば、飯山さん本人が出演した、「蘇生」という映画…。

ところで、「人体はネットワークだ」というNHKの主張、実は、「人体はネットワーク」どころか、人体よりも上次元の宇宙と万物との間に存在するネットワークについて、はるか昔に喝破した人物がいる。南方熊楠その人である。その南方の南方マンダラには、「宇宙はネットワーク」という信念が貫かれているのであり、それを知る身として、NHKに「人体はネットワーク」といまさら言われても、当たり前のことを言っているようにしか映らないのだ。

むろん、NHKが「人体ネットワーク」シリーズで紹介しているのは、細胞、さらにはDNAといったミクロの世界を取り扱ったものであり、こうした世界を知らずに南方熊楠はあの世へ旅立っている。ワトソンらがDNAの二重螺旋構造を発見したのが1953年だから、12年も前の1941年に逝去した南方熊楠が、ワトソンの業績を知るよしもない。だが、1903年7月18日付けの土宜法竜宛ての書簡に、南方マンダラが初出しているのであり、DNAの二重螺旋構造発見に遡ること、なんと半世紀も前のことだ。ある意味、南方は50年後のDNA二重螺旋構造、そして今日のNHKの人体ネットワークを〝予言〟していたと言えなくもない。

以下、鶴見和子の著した『南方熊楠』から、今回のテーマと深く関連する行のみを抜き書きしておこう。

かれが、粘菌に対して抱いた異常なほどの関心もまた、この「南方曼陀羅」の発想と関係がある。粘菌は、植物でもあり動物でもある。動物と植物との結節点であるという意味で、また、生命の原初的形態であるという意味で、自然と人間との関係の萃点にあると言ってよい。大乗仏教は、人類に対象を限らず、人類を含むすべての生類のあいだの因果関係をその宇宙観の中に包蔵していると南方は考えた。南方が粘菌の研究と、比較民俗学との間をゆきつもどりつしたのは、二兎を追ったのではないとわたしは考える。それは「南方曼陀羅」の示すかれの宇宙観の帰結であるように思われる。
p.24


宇宙には、事不思義、物不思議、心不思議、理不思議がある、と南方はいう。近代科学が比較的うまく処理しつつあるのは、物不思議である。数学や論理学は、事不思議を解くが、形式論理学では、複雑な事不思議を十分に解きあかすことはできない。心不思議、理不思議に至っては、近代科学ではまだわからないところが多い。
p.84


南方の学風は、「検証の理論」からはほど遠い。しかし、「生成の理論」には類似点があるといえる。杜会科学における「検証の理論」は、数学および理論物理学をモデルとして構築されたのに対して、「生成の理論」は生物学をモデルとしていると思われる。南方がイギリスで勉学した時代の先進の科学は生物学であったが、のちに理論物理学が花形科学となった。そして現在、ふたたび生態学をふくむ生物学が脚光をあびていることを考えると、科学理論の歴史は、一サイクル転回しつつあるということができる。そのような脈絡の中でとらえるとき、南方の学問のスタイルは、時代おくれではない。「生成の理論」が、「検証の理論」の解毒剤であるのとおなじような意味で、南方の学風の中から理論を引き出すことが、新しい理論構築のために役に立つかもしれない。
p.179


「南方曼陀羅」は、地球上のあらゆる場所の動植物の棲態と人間の生きざまの相互関連と相互比較の見とり図でもある。そのまんなかに、あらゆる関係が収斂する場である「萃点(すいてん)」がおかれている。「萃点」をもたない比較は真の意味の比較ではないことを、この図は示している。神社合祀反対運動は、南方の比較の学の萃点であり、それゆえにこそ、わたしたちは南方の比較の学を、ほんものの学問として学ぶことができるのである。
p.232


以上の抜き書きそれぞれについて、あれこれと思うところがあるのだが、いまだに本業(翻訳)の締め切りに追われている身、機会があれば愚見を述べるということにしたい。

【追記1】
今回の紀伊田辺再訪で最も印象に残ったのが、南方熊楠邸でお会いした、南方と血縁関係にあるという婦人との会話であった。以下は、南方熊楠邸と隣接する南方熊楠顕彰館のパンフレットである。

18032001.jpg

18032002.jpg

【追記2】
18032003.jpg
南方熊楠邸を前に、南方熊楠の血縁者と語る在田辺の友人
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