
昨年12月18日に再放送された「栗山千明 愛と官能のタンゴ~ブエノスアイレスの想い出~」、仕事が一段落して漸く観賞することができた。ブエノスアイレスが「南米のパリ」と称されていることからも分かるように、アルゼンチンはヨーロッパ系の移民でほとんどを占めている。それだけに、同番組を観ながら西洋を感ぜざるを得ず、どことなく違和感が残ったものだ。明らかに、東洋の舞踊と大きな隔たりがあるのが分かるのであり、そのあたりを明確に述べていたのが、『月刊日本』の坪内隆彦氏のブログ記事である。殊に、同記事で強く印象に残ったのが以下の記述だ。
アジアの舞踊の重要な特徴は、神との交感に集約することができるだろう。
さらに、宮尾慈良氏の著作からという、以下の引用も素晴らしい。
「反自然的で、反日常的な状態になったときに、舞踊はそうした状態を正常にするために必要な物質世界と精神世界の媒体であるといえる。こうした目に見えない神々と人間が交霊する舞踊を演じることで、俗なる世界は聖なる時空間へと変化するのである」 (宮尾慈良「アジア舞踊の研究」『東亜の舞踊』26頁)。
「物質世界と精神世界の媒体」、まさに言い得て妙…。ここにこそ、ダンス(西洋)と舞踊(東洋)との違いを見る。
ところで、日本の舞踊だけに限定してみても、能、狂言、文楽、歌舞伎、日本舞踊と、読者はいろいろと思い浮かべることだろう。ここで注目していただきたいのが、むすびの会という日本伝統芸能教育普及協会HPにある、「その3 舞と踊り:どう違うの?」という一節だ。殊に、同節で注目していただきたいのが舞についての説明で、「古くは天皇などの高貴な身分の方の代わりに、神様に祈りをささげる為に舞を舞った」とある。
ここで、天皇の祈りにが出てきたので、この機会に少しだけ、〝新しい〟死生観誕生について述べておきたい。ブログ「大和心への回帰」の最近の記事、「戦後の終焉」で以下の記述を見つけた。
積氏によれば、敗戦による唯物思想に洗脳された時代が行き詰まり、戦後精神が死を迎えることに言及されている。
氏によれば、天皇の役割の終わりと西部邁氏の死は、戦後精神の終わりを告げる象徴であるとされる。
死んだら終わり…という価値観の終焉は、新しい時代の精神的価値観の到来を示唆するものであると共に、それは私たち日本人が、更なる高い次元にステップアップするために、天から与えられた試練といえるであろう。
人間死んだら終わりという死生観から、どのような「新しい時代の精神的価値観の到来」、すなわち新しい死生観が誕生するのだろうか…。このあたりについては稿を改め、いずれ書きたいと思う。

- 関連記事
-
スポンサーサイト
|