NHKのBSプレミアムカフェ「生と死を見つめる」シリーズの最後は、「千の風になって」。同シリーズの他の二本と較べ、異質の番組であった。何故なら、死後の世界を取り扱ったテーマの番組だったからである。

初回放送は2006年というから、今から11年ほど前になる。水先案内人は女優の木村多江さん、最愛の人を失ったら、人はどうすれば生きていけるのかと、最愛の父親を失った木村さんは、国内外で自身同様に最愛の人を失った、多くの人たちと悲しみを分かち合い、彼女自身が次第に癒やされていくという内容の番組だ。そして、同番組を支えていたものこそ、「千の風になって」という詩であった。

以下は、番組で印象に残ったシーンである。


亀さんも過去に最愛の人を含め、親しかった友人や知人との別れを幾度か体験している。そして、最近になって時折思い出すのが、今東光和尚の言葉である。拙稿「神や運命について」にも載せているが、ここでも和尚の言葉を再掲しておこう。
神や運命について 人類が続く限り、神とか運命とかいう言葉は、人の心にいつまでも宿ってはなれないだろう。実際、真摯な努力を続けてゆく人間ほど、自己の生涯に運命的なものを感じるのではないかと思う。ぼくには、この世の人間の営みには人の力の及ばない何かの力が作用しているのではないかと思えてならない。今先生は、これについてどうお考えになるか。 (大分県臼杵市 19歳 H・Y)
それは確かにおめえの言う通りなんだ。おめえみたいな人こそが、仏教なりキリスト教なりを少し覗いて、信仰の道に入って神や仏というものと接心することが大切だ。「接心」とは神なり仏なりと心を接し、道を求めることで、おめえなんかには非常にいいことじゃないかと思うね。
四国巡礼は菅笠に「同行二人」と書くんだが、これは弘法大師…お大師さんが「わしは常におまえらと一緒に居るんだ」と教えて人々を安心させたことから来ているんでね。だからいつでもその巡礼者は同行二人になる。私とお大師さん、お大師さんと私というものが歩いてて、一緒に四国八十八力所をご遍路できるという安心で、みんな常にこの言葉を書くんだ。
またキリスト教でも、キリストがいわゆるダマスカスで現れて、「我汝らと共に在り。安心せよ」と言った。この「我汝らと共に在り」という言葉がクリスチャンにとって非常に強い言葉でね。だからキリスト教徒は、キリストが常に自分と一緒にいるんだと信じている。つまり、「同行二人」と同じことだろう?
弘法大師も「我汝らと共に在り」と言っているから、あの四国の断崖絶壁でも、山野を越えて八十八ヵ所をご遍路できると同じようにキリスト教徒もまた、いかなる難難辛苦に遭おうとも「我汝らと共に在り」だから「ああ自分の苦しさはキリストがわかってくれている。悲しみはキリストがわかってくれている」と安心できるわけだ。これ、両者とも同じ考えなんだよ。
おめえは、どうも自分の力だけで生きているような気がしないというのは、何かが「我汝らと共に在り」、そういうものの暗示を受けているわけだから、非常にいい精神と言える。だから謙虚な気持ちで「私は誰かと共に在る」と信じろ。それが亡き父であるか、亡き母であるか、亡き兄であるか亡き姉であるかもわからんが、常に誰かが自分を保護していると意識していることが大切だ。
オレもこの年になって「我汝らと共に在り」と同じように、オレにはやっぱりそういう仏神が常についてくれているという、一つの安心感があるね。たとえばオレが病気で苦しんでいると、そばに占星術の大家がいてくれて「いまが最悪の時。あと半月でこの病気の星は去っていくからご心配なく」と言って慰めてくれるし、易をやる人がまた易で「今年は病占が出ていたけど、それも今年の暮れに脱出できます」と言って鼓舞してくれる。オレはまだ天台の寺を復興しなくちゃならないというような大きな役を持っている。そこで仏が、「やはり、まだ今東光を死なせてはならんぞ。もう少しあれを働かせにゃならん」と、オレの寿命を延ばしているのがオレにははっきりわかる。これもまたオレの宿命だと思っているんだ。まさにおめえの言う通りでね。 『続 極道辻説法』p.170~
年齢を重ねた今、和尚の言う「我汝らと共に在り」、日増しに強く感じるようになった自分がいる。
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