
お盆の時期は連日うだるような暑い日が続くはずなのに、どういうわけか今年のお盆は曇りや雨の日が多く、凌ぎやすくて助かっている。ただ、気象庁の長期予報によれば9月は残暑が厳しいとのこと、今から覚悟しておかねば…。
さて、前稿で東京新聞に載った吉永小百合の「私の十本」(22)を紹介したが、吉永小百合が山田洋次監督に言われたという以下の言葉で、南米の〝二人〟のお袋を思い出した。
監督がお母さまの思い出を話してくださったことがあります。息子にとって母親は、特別な存在なんですね。
亀さんの場合、実の母以外に、アルゼンチンとウルグアイにもお袋と呼べる人がいる。ウルグアイのお袋は、拙稿「45年という歳月の重み」で紹介した、ウルグアイ人のガールフレンド・アナベールの母上である。今日は、もう一人のお袋の国、アルゼンチンでの思い出について少し書いておきたい。
今から45年前のちょうど今頃、亀さんはロンドンで知り合ったアルゼンチン人のガールフレンド、シルビアの実家に11日間お世話になったことがある。当時の南米編の記録にはブラジルに1972年7月13日から8月3日まで滞在としか書いていないので、彼女の田舎に到着した具体的な日は分からないものの、ブラジル側のイグアスの滝からパラグアイに入国、2日間ほど首都アスンシオンに滞在して、夜行バスでアルゼンチンに早朝入国、そこからヒッチハイクで彼女の実家のある、エントレ・リオス州ノゴヤに向かって南下、数日かけてサンタフェ市に到着している。サンタフェへは一週間ほどかかったと思うので、計算すれば45年前のちょうど今日あたり、ノゴヤに到着したのではと思う。地図を見るに国境からサンタフェまでは直線距離で600kmほどだ、ちなみに、サンタフェからさらに続けてヒッチハイクでノゴヤに行くつもりだったが、日本人の母娘に声をかけられ、「ヒッチハイク? 大変だからバスで行きなさい」と、ノゴヤまでのバス切符を買ってもらっている…。

ノゴヤでバスを降り、早速お巡りさんに彼女の家の場所を尋ねたところ、親切にも家の前まで連れて行ってくれたのである。彼女は未だヨーロッパだったので不在だったが、彼女のご両親や二人の妹が温かく亀さんを迎えてくれた。そして、夢のような11日間を過ごした。ハイライトは牧場に泊まった時だ。牧場では乗馬を楽しんだり、ライフル銃で狩りに出かけたり、生きた牛の後ろ足を縛って吊し上げ、頭部を切り落とした後、新鮮なビーフ、チーズ、ミルクをご馳走になったりした。夜はシルビアの二人の妹をはじめ、親戚や友人の可愛いセニョリータが総勢10名も大集結、一緒に夜遅くまでお喋りをしたり、食べたり、飲んだりして、楽しい一時を過ごしている。外に出ると上空は満点の星、彼女の妹が指さして、「あれが南十字星よ」と教えてくれたものだ。それにしても、男は亀さんだけ、10人もの可愛いセニョリーターに囲まれたちゅうワケで、これは両手に花どころの話ではない。多分、亀さんの人生の中で最も持てて持てて困った一時だったと、今にして思う(爆)。
彼女の実家では、お袋さんが実の息子のように、かいがいしく世話をしてくれた。また、スペイン語も小学校の教科書を使って、熱心に教えてくれたものである。一方、寡黙な親父さんとは交わす言葉は少なかったものの、まさにアルゼンチンの親父だった。別れの日の朝、一家総出で見送ってくれたのだが、親父が目に涙を浮かべながら亀さんの手をギューッと握り、旅の足しにと小遣いをくれたのである。そして、後ろ髪を引かれる思いでノゴヤを後にした。
 アルゼンチンの親父とお袋(左)・シルビアの幼い頃(右)
その後、ロンドンに居たシルビアが日本に立ち寄ってくれ、結局半年ほど亀さん宅で生活を共にしている。そのあたりは拙稿「寅さんのことば 20」に書いた。
再び吉永小百合の話に戻るが、吉永の言葉から、シルビアのお袋さんがどのような気持ちで、当時は19歳だった亀さんに接してくれたのか、今にして分かったような気がする。まさに、亀さんにとってはアルゼンチンのお袋である。再び行ってみたい、アルゼンチンへ…。
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