7月9日の東京新聞のテレビ番組表に、NHKの「きょうの料理」が登場、この11月で六十周年の節目を迎えるという。記事に目を通してみたところ、時代とともに日本人の食生活が変化していく様が分かり、大変興味深い記事であった。

「きょうの料理」については、てくのぱぱさんも以下の記事で取り上げている。毎日の献立に頭を悩ませている、世の中のお母ちゃんは〝必読〟デス。 最強のレシピ集をネットで発見!
てくのぱぱさんの記事で思い出したのが、柴田錬三郎の『円月説法』(集英社)である。これは人生相談の本なんだが、その中に、「男子厨房に入るべきや否や」という台所に関する質問があり、如何にも柴錬らしい回答だったので以下に転載しておこう。てくのぱぱさんがコレを読んだら、カチンと来るかもしれないけど、あくまでも柴錬が書いたことであり、亀さんの意見ではないので、ドーカ誤解のなきようお願いしたい(笑)。また、柴錬は男尊女卑の時代を生きた漢なので、てくのぱぱさんだけではなく、世の中のお母ちゃんにも総スカンを食らうかも…。
男子厨房に入るべきや否や
読者 最近はテレビでも男子が厨房に入り、自慢の料理をご披露する番組が流行っている。僕の彼女も「あんな料理上手の夫を持ったら、素敵」といっていますが先生はどう思いますか。(秋田市 T・U 25歳 会社員)
柴錬 男が女房のために、料理を作るなんて実にくだらんな。堕落だ、これは。おれはね、そういう話を聞くと情ないというより気持ちが悪くなる。
編集部 だめですか?
柴錬 いいかい、女ができることを考えてみなさい。食事、洗濯、料理の三つだけなんだ。ガキなんていうのは、女が努力なんかせんでも生まれるものだろ。それなのに女房がドデーッとひっくりかえって『あなた、ご飯まだなの』なんてホザくさまなんざ、見られた図じゃない。 日本人はね、勘違いしているところがあると思うね。外国なんかでは、亭主が女房のために、料理を作っているんじゃないかというようにね。それはとんでもない誤解だよ。フランスあたりなんかそんなことは絶対に考えられない。英国あたりではさ、女房が勝手にいろんな料理を作って亭主に食わせるんで、亭主の方がうんざりしているくらいだ。こういう場合は、反動で男が料理に手を出す場合はあるわな。 おれの知り合いの実業家でね、家におるときは、箸が出るまでは、自分でお膳の上の料理に手もつけない。昼間は一流のレストランで、一流の料理を食べている。ところが妾のマンションヘ行くとだね、狭い台所に入って自分で食べたい料理を、コチョコチョ作って食べている。これも美食にあきた男の一種の反動でね。これはいいんだ。何か楽しいんだな。 それとは別に自分から率先してだ、厨房に入って、女房孝行するなんて男はキンタマを取って女になった方がいい。 第一ね、女房の一番美しいのは、割烹着姿なんだよ。その美しさを自分が奪って、台所で立ち働くのは馬鹿野郎としかいえんね。 それでもどうしてもやりたければ、定年を過ぎてからおやんなさい。オジイになって、なんにもできなくなっちゃってだ、女房子供からも馬鹿にされて、座敷にいるのはどう考えてもみっともない。それで、台所に入ってコチョコチョやる。行き着くところがなくて、台所に入っちゃった。つまり台所なんてところは、そんなところなんだ。男が世界とするところじゃないんだ。 おい、次へいこうや、次へ……。

如何にも柴錬らしい辛辣なコメントではある。その柴錬が「親父」と仰いでいた、今東光和尚の数多くの著作の中で、食に関する本として『和尚の舌』(KK・ロングセラーズ)があり、実に興味深い食に関する話が続く。一例として、日本人の主食である「米」(p.180)をテーマにした和尚の話、少々長くなるものの、以下に転載しておこう。ちなみに、安倍晋三の父方の遠祖・安倍宗任も登場する。
米
米は、八木とも書いて何といっても日本人には命の綱。 ところが僕がまだ中尊寺の住職にならない頃、というのは中尊寺住職に任命されたのは昭和四十年十二月二十七日だから、三十九年だったかもしれない。外務大臣の頃の椎名悦三郎君と会った時、うまい物食わすから一度自分の故郷へ来ないかと誘われた。周知のごとく椎名さんは奥州水沢の産。高野長英を出した家であり、後藤新平は叔父に当るという名流だ。 何を御馳走してくれるのかと質ねると、彼は甚だ得意そうに米だと答える。これにはあきれた。いやしくも豊蘆原瑞穂国に生まれた僕をつかまえて米を自慢するのだから、吾また何をか言わんやという顔付を見せると、絶対に米を食いに来いと強要する。 約束を重んじて亡き尾崎士郎と共に水沢に出かけて行った。何とかいう川魚料理のうまい家で御自慢の米の飯を御馳走になったが、その米のうまいのに二度びっくり。鮎も鮒も鯉もあったものではない。僕は御新香だけで三杯も飯をくった。 うまいのも道理、水沢から程遠からぬ江刺米という上物の米の飯だ。東京の一流の寿司屋ではもっぱらこの江刺米を使うと聞いていたので、これが江刺米かと今更のように感歎したのである。 その筈で、昔、安倍頼時という俘囚長は奥六郡を領して北方の王者と称されたが、この江刺の田はその当時からの美田として知られていたのだ。鎮守府将軍源頼義が陸奥守を兼任して下って来たので、頼時は恭順して臣礼を執ったが、ふとした間違いから合戦になった。安倍頼時は能く戦ったが鳥海の柵で矢を射られ、それがもとで戦死した後も、子息の安倍貞任、宗任その他が大将の器たる貞任の指揮に従い、頼義は嫡男八幡太郎義家と共に苦戦を重ね、実に九カ年も戦って漸く貞任を討ち、宗任を捕えることが出来たのだ。すなわち前九年ノ役である。 それから数年を経て、安倍頼時父子を退治するのに力を籍した清原家に騒動が起こった。清衡と異母弟の家衡との争いが遂に合戦に発展した。何故こんな兄弟喧嘩が起こったかというと、八幡太郎義家は戦後処理にあたって二人の兄弟に遺領を分けて与えた。清衡には南の三郡、家衡には北の三郡を与えたのだ。これで満足していれば無事だったのに、家衡は清衡の土地の方が上等だと言って不平不満から合戦をしかけた。清衡の貰った土地にこの江刺郡が入っていたのだ。江刺の美田と、其所から産する米こそは黄金と馬に換えても惜しくない。そこで八幡太郎も腹を立てて家衡を討った。この合戦も家衡が善戦したので思いのほかに日数を費やした。これが後三年ノ役というものだ。いずれも江刺米が絡んでいる。 頼義将軍は安倍頼時が収穫時には農民の他に兵三千人を動員している事実を目撃して、如何に奥州というものが豊かな土地であるかに驚いたくらいで、内地人が狭い土地で小さな田を耕しているのに比べると、まるきり奥州とはスケールが違っていたのだ。 そこへいくと言っちゃ悪いが河内米などは不味い。とても食えたものではない。天台院のある中野村などの百姓は、中にはチョビ髭など生やしていっぱし政治家気取りの馬鹿野郎もいるが、此奴等の作る米ときたら、まったく箸にも棒にもかからない。気候温暖な河内国などで、のへのへと育つ米などにうまい筈はないのだ。 何といっても風雪にいためつけられるような土地で、その風雪を凌いで育つ米でなければ美味とは言えない。それゆえに世に名高い酒田の庄内米とか、宮城県の湧谷附近の米とかは格別な美味を誇るのだ。庄内米は彼の有名な酒田の本間家の田園が産するものだし、この湧谷附近は古、亘理ノ郷と称し、亘理権ノ太夫経清の領だった。経清は安倍貞任の妹を妻に貰い、その仲に生まれたのが藤原清衡で後に平泉に鎮し、中尊寺を再建した大檀那であることは説明するまでもあるまい。 封建時代になって特に徳川幕府の近世は、百姓に対して悉く圧迫を加えたことは人の能く知るところだ。 衣食住を例にとると、一般百姓は布と木綿しか着るを許さず、庄屋様で漸く絹、紬、麻などを着ることを許可したに過ぎない。 住では、各藩ともに瓦屋根を禁じたのが多く、従って火災に対して脆弱だった。徳川時代に火事の多いのは町人百姓ともに瓦屋根の家が少ないためだ。しかも天井、長押、縁側などを禁じたのも少なくないのだ。特に奥州では、津軽、南部、佐竹などの各藩では百姓家に雨戸を禁じ、板敷を禁じて土間の住居を強制した例が多いのだ。これではまるきり人間生活を放棄せしめたと一般、馬並みの暮しと言わなければならない。事実、南部や津軽では人間は馬と同居し、その馬のために曲り家と称する馬小屋の附属した家屋が今に残っているのである。 寛永二十年癸未三月十一日土民仕置条々覚という馬鹿気たものを見ると、その圧制振りがよく解る。 一百姓の食物、常々、雑穀を用ふべし。八木(米のこと)猥りに食せざるやうに申し聞けられるべき事。 一在々所々にて、うどん、索麺、蕎麦切、饅頭、豆腐以下、五穀の費えに成り候間、商売無用の事。 こんな風に読んでいくと仕舞いに腹が立ってくる。 よく日本の百姓は三百年間も謀反も起こさずに平身低頭していたものだ。百姓一撲のような自然発生的な暴動は鳥合の衆の集りだけに容易に革命には成長しないものだ。僕なんかだったら到底我慢がならぬ。 うどんや蕎麦は高いから不可ん。饅頭さえも高価だから食ってはいけないと言われれば、百姓は一体全体、何を食ったら好いのだ。 従って、百姓の米に対する愛着は僕らの想像外に強いものがあったらしい。昔から諸地方に伝わっている「振り米」という哀しい伝説は、実は伝説でも何でもないのだ。米を竹筒の中に入れて瀕死の病人の枕もとで振って聞かせるのが振り米だ。治ったらこの米を食わせるぞと力づけるのだが、本当に治ったら麦しか食わせないのだ。 戦時中の統制経済になって、日本中の百姓が白米を食ったというのは本当の話だ。未だに麦を食っていた百姓は、はじめて配給米を受けることによって白米にありついたというのが事実に近い。 椎名さんから江刺米のうまさを知らされ、どうしたらあんなうまい米が食べられるかと思っていたら、はからずも中尊寺の住職になって江刺米が食べられる身分になった。これは何とも有難い御仏恩だと思っている。中尊寺の宿院東稲荘は東稲山にちなんで名づけられたが、その名称が既に上米の稲に関するだけに面白い。東稲荘に宿泊する人達に江刺米を供するのは吾々中尊寺一山のせめての心尽しなのである。はるばると中尊寺に詣うでて心ゆくまで江刺米を食べてもらいたい。僕はお世辞抜きに奥州の風雪にきたえられた米はうまいと言えるし、本当に自慢して好いのは江刺米だと言えるのだ。

この今東光の『和尚の舌』で、最も感動した話が「サン・フランシスコの思い出」(p.108)だ。拙稿「サン・フランシスコの思い出」に転載してあるので、この機会に再読してもらえたら嬉しい。
【追記】 拙稿「昭和の家」でも、昭和三十年代から四十年代にかけての、日本人の食事内容が分かる写真をアップしている。

- 関連記事
-
スポンサーサイト
|