拙稿「寅さんのことば 51」で亀さんは、十代の頃にニューヨークのレストランでバイトをしていた体験談を披露している。
1972年の年末と言えば、亀さんは半年ほどかけて中南米を放浪、そのため所持金が底を尽きかけ、日本に帰る飛行機代すら無くなっていた頃だ。だから、慌ててメキシコシティからニューヨーク行きの飛行機に飛び乗り、何とかニューヨーク空港の税関を突破して、日本人の無銭旅行者が巣喰っていると言われていた、マンハッタンはバンコホテルという所に潜り込み、仕事を探して帰国する資金を稼ごうと思っていたんだ。
だから、飛行機がニューヨークに着き、税関の係員に入国目的を拙い英語で伝えたんだが、万一仕事が目的で入国すると知れたら、即入国を拒否されるのが目に見えていたから、もう必死だった。幸い(?)、亀さんの思いが伝わったのかどうかは知らないが、最後には係員が3ヶ月の入国ビザをポンと押してくれた時、心の中で思わず〝万歳!〟と叫んだもんだよ。
そしてバンコホテルに無事に着き、その日から職探しが始まったのだが、所得金も確か2~3万円しか残っていなかったもんだから、一日でも早く仕事にありつけないことには、帰国はおろか、ニューヨークで路上生活者しなければならなくなる。だから、亀さんの生涯の中で、あの時ほど必死に生きたことは無かったと思う。その後の続きはドラマチックな展開になるんだが、別の機会に書こう。
 1972年冬のある日、バンコホテルで
旧ブログにも書いた。
中南米を半年ほど放浪した頃、旅行資金も底をつきはじめたので、メキシコシティから一路ニューヨークへ飛んだ。ちょうどクリスマス前だったため、寒空の下でマンハッタンに点在する日本料理店を一軒一軒回って仕事を探したことになる。当時、一週間が過ぎてもなかなか仕事が見つからず大変焦ったものだが、今では懐かしい想い出だ。そして、確か8日目だっただろうか、その日も1日歩き回ったのに成果がなく、がっかりしてホテルに戻ろうとした帰り道、たまたま「江戸」という看板の日本レストランが目に入ったので寄ってみた。すると、メガネをかけたインテリ風の支配人が「あっ、ちょうどいい。在ニューヨークの日本人向けにおせち料理を作っているんだが、人手が足りない。早速頼むよ!」と言うではないか。その支配人の言葉を耳にした時は咄嗟に言葉が出ず、頷くのがやっとだった。結局、その日本レストランでは8ヶ月ほど働き、かなりの旅行資金を貯めた。その後、2ヶ月弱アメリカとカナダを長距離バスで一周し、続いてサンフランシスコで1年半ほど大学生活を送り、日本に帰国している。 日本脱藩のすすめ
江戸レストランで働き始めた最初の3ヶ月ほどは、無銭旅行者の日本人の若者が屯するバンコホテルに住んでいたのだが、レストランで働いていた他の無銭旅行者が辞め、レストランの屋根裏のベッドが一人分空いたことから、今度は亀さんがそのベッドで寝起きをすることになった。宿代が浮いたこともあり、大変嬉しかったのを今でも覚えている。その後は同レストランを辞める8月頃まで、亀さんの屋根裏生活が続いたのである。

屋根裏生活が始まって間もなく、毎朝ラジオから決まった時間に、心地よい歌声が聞こえてくるようになった。後で知ったのだが、カーペンターズの「シング」であった。ウィキペディアで確認したところ、「シング」がレコード化されたのが1973年とあり、発売されて間もなくの「シング」が毎朝耳に聞こえてくる頃、亀さんは目を覚まし、寝ぼけ眼で仕事に取りかかっていたのだ。だから、今でも「シング」を耳にすると、あの懐かしい江戸レストランでの日々を思い出す…。
 「日本人が愛したカーペンターズ~天才兄妹秘められた物語」NHK「アナザーストーリーズ」

すみれ 沢山あるんです、思い残してきたことが…。
千明: え?
すみれ これまでの、65年間の人生のなかで…。だけど、どれだけ思い残しても、時間は戻せない。今の自分を嘆いていても仕方がないって諦めて…。そのうちに、思い残しているという気持ちにフタをして、目を向けないようにして、生きてきたんです。

すみれ だから、もし奇跡が起きて、時間が戻せるなら、今度は、ゼッタイに後悔しないように、自分の思うように生きてみようって思ったんです。 お節介爺さんと婆さん
亀さんの場合、我が青春で思い残してきたことは、ない。
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