拙稿「山窩と生きる」で紹介した、『サンカとともに 大地に生きる』(清水精一 河出書房新社)を読了した。己れ自身の人生について、深く考えさせられ.る本であった。ここで、読後感を書きたいと思うが、どうにも本稿だけでは収まりそうにない。よって、以下のように本稿を含め、三稿に分けたいと思う。
清水精一の人生 清水精一と山窩 清水精一に学ぶ
上記の三部シリーズで取り上げる山窩は、清水精一の目を通して見た山窩なので、本稿では清水の人物についてラフスケッチを試みた。読者に大雑把な清水精一の人物を掴んでいただけたら、次稿の「清水精一と山窩」では、山窩と三年半過ごした清水が何を山窩から学んだか、換言すれば、山窩が清水の物の見方・考え方に、どのような影響をもたらしたかについて示したいと思う。最終稿の「清水精一に学ぶ」では、自動車やパソコンに取り囲まれて暮らす、われわれ現代人には到底理解の及ばぬ、山窩の物の見方・考え方を、どのように今のわれわれの生活に反映できるか、考察してみたいと思っている。
最初に、清水の歩んできた道を一言で言い表すとすれば、「求道」という言葉に尽きると思う。以下、「清水精一師の略歴及び思想の概要」を叩き台に、亀さんなりに清水師の人生のラフスケッチを描いてみた。
清水は明治21年(1888年)、大阪市三島郡(大阪府高槻市)で地主の長男として生を享けた。恵まれた家庭環境の中で育った清水ではあったが、ある日、近所の地主が二名、小作人によって殺害される。自身も地主であった清水の父親は、次は自分の身に及ぶのではと恐れ、逃亡、これが清水の心に深い傷跡を残した。それからの清水は、「人間はいかに生きるべきか」と、道を追い求めて生きていくことになる。
最初、清水の求道は知識の獲得から始まった。京都帝国大学の経済学部で河上肇、続いて哲学科で西田幾多郎に学ぶが、学問で清水にとって納得のいく答えは得られなかった。やがて、清水は酒に溺れるという人生を送るようになる。そんな清水を見かねた父親が、清水に会社を興させ、会社の運営をさせようと試みた。しかし、経世済民を信条とする清水と、金儲けしか頭にない他の役員とは平行線のままに終わり、ついに清水は出資者に会社を追い出されてしまう。
大学で身につけた知識が、まったく役に立たないことを思い知らされた清水は、天龍寺で禅の修行に入る。しかし、結局は煩悩から抜け出すことができず、新たな道を求めて、三年半いた天竜寺を後にした。
次に清水は、二年近く深山に籠もった。しかし、やがて人間への思慕の念を抱くようになり、再び人間(じんかん)に身を投じる決意をするのであった。
山を下りて最初に行ったのが、21日間の断食だった。次に清水は 貧民窟に住むようになる。そこでの清水は、底辺に生きる赤裸々な人間の姿を見た。ある日、一人の乞食の少年と出会い、山窩との交流が始まる。そして、ついには山窩と三年半にわたり、暮らしをともにすることになった。
その後の清水は、山窩の社会同化(トケコミ)を目指し、洗心館、続いて同朋園を立ち上げている。長年にわたり同園の運営に心血を注いだ清水は、五十代の頃、北海道での開拓農耕にも身を投じた。
没年不詳。
清水師の人生については、前述の「清水精一師の略歴及び思想の概要」が詳しいので参照されたい。
ところで、「清水精一師の略歴及び思想の概要」に、以下のような記述がある。
昭和最大の怪物」と呼ばれた大正・昭和期の黒幕的政治家矢次一夫(1899-1983)は清水師を回顧して「僕は色んな人を歴訪して教えを乞うた中では、この人が一番偉いという印象を受けたことを今も忘れません」と語っている。
 矢次一夫
次稿「清水精一と山窩」に続く。
【別報】

 昨日の東京新聞に載った吉永小百合の「私の十本」(13)。
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