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人生は冥土までの暇潰し
亀さんは政治や歴史を主テーマにしたブログを開設しているんだけど、面白くないのか読んでくれる地元の親戚や知人はゼロ。そこで、身近な話題を主テーマに、熊さん八っつぁん的なブログを開設してみた…。
朝鮮総連本部を落札した目的…(2)
『文殊菩薩(ブログ版)』に、「朝鮮マイノリティー裏社会さんが、早速、「池口恵観」と「安倍晋三」の関係の隠蔽に乗り出した模様です」と題する引用記事が掲載された。やはり、今回のキーワードは、「総連」、「北朝鮮」、「安倍晋三」のようだ。

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ここで、改めて思い出すのは『歴史の闇を禊祓う』(栗原茂著 文明地政学協会)である。今回の総連関連ニュースに何故に安倍晋三首相が絡むのか、そのあたりのヒントとして少々長くなるが重要な情報を含むことから、同書の「第13章 佐藤・岸・安倍家伝をめぐって」を以下に転載しておこう。亀さんも以下の史料に基づき一連の総連関連ニュースを眺めているので、読者も思うところがあったらコメントに投稿して戴ければ幸いである。因みに、『歴史の闇を禊祓う』(栗原茂著 文明地政学協会)の主要テーマの一つが、〝総連〟である。

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●第13章 佐藤・岸・安倍家伝をめぐって
 佐藤秀助の二男(岸信介)は山口県吉敷郡山口町で出生のとき曾祖父(佐藤信寛)が居合わせ名付親として自らの一字を当てたという。秀助7番目の子が佐藤栄作(三男)であり先ず系譜筋目を釈かないと大戦後の日本が何ゆえこの兄弟を首相に据える必要を生じたのか安倍が首相として何ゆえ朝鮮と向き合う巡り合わせになるのか判明しまい。如何なる家系だろうと凡そ偽造と隠蔽を含むのが系図の設計思想であり遺伝子だけでは解けないのが政体を担う立場で宿命/運命の絡み合いも含まれる。

 公開済の佐藤家伝は市郎右衛門信久に始まり萩藩士(1662)2人扶持で米2石4斗の俸禄とも伝わるが米1石は1人あたりの年間消費量として勘定した時代である。当時の萩藩財政を調べ名目に対する実高ほか公民割合や重出米(かさねしゆつまい)などの算出せず米2石4斗を評価できないが特別手当が付与されていることに疑いはあるまい。即ち信久の素姓を絞り込む事例1つで歴代の職能を時間と空間に絡ませながら具(つぶさ)に追えば基本的な筋目は見極められる。歴代の当主が市郎右衛門か源右衛門を名乗るという佐藤家伝は信介/栄作の曾祖父(信寛/寛作)の代には長州藩士として御蔵元本締役/大検使役など歴任し長沼流兵学を修め維新後は島根県令など任ぜられている。もう1つ信寛に加えておくべき情報は明倫館入学と江戸遊学であり長州藩の藩校に学び江戸への遊学が許された背景は相応の情報を引き出す手掛かりとなる。どうあれ岸信介も佐藤栄作も自らの伝記をはぐらかしても佐藤家伝については余計な手を加えない現実を識れば系譜の重みは心得ていたようである。信介の出生地は前記の通りであるが本籍登記は栄作の出生地と同じ熊毛郡田布施この情報が何を意味するか史家なら見逃せまい。

 遠祖を佐藤忠信(源義経の忠臣)という口伝は作り話でも萩藩士としての信久は確認できる筋があり前記1662年の伝承は疑う必要もない。信寛の幼名は三郎のち寛作とも名乗り藩校に学ぶが明倫館は弘道館(徳川水戸藩)また閑谷黌(しずたにこう)(岡山藩)と並び日本三大学府の1つであり萩6代目藩主(毛利吉元)が三の丸の近くに創設(1718)している。毛利敬親14代目が行う藩政改革は藩校の規模を16倍超に広げるため城下に移転さらに県庁が山口へ移転(1863)すると明倫館は萩と山口に並立することになる。

 信寛は緒方洪庵より年少6歳また吉敷郡の医家に生まれる大村益次郎より年長8歳であり本籍は山口県熊毛郡田布施である。

 大内氏の重臣(陶晴賢(すえはるかた)1521-55)が毛利元就(もうりもとなり)(1497-1571)と厳島で戦い敗れ自刃35歳という物語から生じるのが岸家の祖とは信介らの言である。毛利に荷担する村上水軍は通説3家あり能島(伊予大島)/因島/来島のうち早くから毛利を支持したのは因島家であるが厳島戦での勝利を決したのは元より大内を支持してきた能島家が毛利に寝返るため成立する。戦の前に因島家だけでは戦力不足と睨んでいた毛利は敵(大内)方の能島家を取り込むことで勝利を掴もうと目論んでいた。決戦前の毛利は村上水軍へ約束手形を振り出し周防の屋久島を成功報酬に決済することで両者の取引は成立していた。毛利軍の勝利を決定付けた村上水軍中に朝鮮系帰化で通称「ガン」と呼ばれる男がおり居留地を与えられた。後に田布施周辺の代官を任ぜられ岸(ガン)の姓を許されたが能島家の頭領(武吉)の嫡子が元吉(ガン)と呼ばれたと云う伝承もあり単なる洒落では済まされない根拠も潜ませている。

 安倍寛(かん)は山口県大津郡日置村(現:長門市)の彪助とタメの長男として生まれる。彪助(父)は郡内に旧い椋木(むくのき)家に生まれ安倍タメ(母)と結婚し婿養子となるがタメの生家は江戸時代から続く大庄屋で酒と醤油の醸造を営んでいた。兄(慎太郎)は安倍の家督を継ぐも32歳没という早世で生前は県議会議員(維新1期生)を務め思いを継ぐ寛(甥)は東京帝大法学部政治科を出ると総選挙(1928)を戦うが落選する。再出発は村長/県会議員/総選挙(1937)と順に従い衆議院議員2期の間は金権腐敗と軍閥主義の批判を貫くが戦後1回目となる総選挙準備中に急逝する。因みに議員仲間の赤城宗徳とは公私を超え親交したというが孫らの不甲斐なさと子(晋太郎)の運命に如何なる因果が巡るのか。三木武夫も安倍寛の親友であるが生命図は決して遺伝子だけでは描くことが出来ないことを次の岸/佐藤らを含め証が立てられる。

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 上の系図は最小限のみ表記し他の系譜と個人情報は省略している。信介は5番目の子で二男3歳のとき家族全員が田布施へ帰郷その事由は秀助が県庁官吏を退き田布施で造酒を営むためで信介は中学3年のとき父の生家へ養子入りする。つまり帰郷は信寛に死期が訪れ佐藤家の潮目が変わるときであり信介が養子になるのも本家の松介(伯父)が急逝したとき浮上する問題であり全ては時空の操作に従うほかない話だ。岡山中学2年のとき松介重篤の報せで帰郷する信介は山口中学に転入そして父の生家(岸)へ養子入りする。旧制1高を経て東大法学部法律学科(独法)を卒業/農商務省に就職/北一輝の門下(1930)にも出入りしたと自らいう。農商務省は前記しており商工省時代(1936)の岸は部下の椎名悦三郎を使い自身が満洲国(1932-45)へ赴く前の準備に当たらせている。国務院の実業部総務司長に就任すると産業振興5ヶ年計画の実施に当たるが東条英機/星野直樹/鮎川義介/松岡洋右/岸信介らは総じて2キ3スケと呼ばれ主導的地位を占める。商工次官(1939)/総務庁次長と進み近衛2次組閣(1940)で入閣を打診されるが辞退し小林一三(1873-1957)が商工大臣を務める。同大臣就任は東条内閣(1941)のときで戦時下の経済を扱う元締めに座り翼賛選挙(1942)に際して初の衆議院議員となる。戦況の劣勢(1943)が本格化してくると商工省は軍需省と看板を書き換え東条は軍需大臣を兼務し岸は軍需次官(無任所国務相兼任)に就任する。

 秀助7番目の子(三男)栄作は田布施で生まれ山口中の学友と2人で旧制5高(熊本県)受験へ向け名古屋に泊まるとき同じ目的の忠海中(広島)3人と同宿する。目的を同じくする1宿1飯の袖を触れ合う仲間5人は受験を済ませたあと酒を酌み交わし再会を胸に秘め別れた。これが広島メンバーの中にいた池田勇人(1899-1965)との初対面で通説は奇しき縁というが筆者の辞書にはない後付の理屈である。

 少し学制に触れておきたい。

 1高(東京大学)/2高(東北大学)/3高(京都大学)/4高(金沢大学)/5高(熊本大学)/6高(岡山大学)/7高(鹿児島大学)/8高(名古屋大学)これら旧制高校ナンバースクールと呼ぶ時代があり括弧内は新制改称の際に使う地名つまり学校所在地を示すだけの意味で記した。

 即ち兄(信介)は1高から東京帝大へ進学し弟(栄作)は5高から兄と同じ大学コースを歩み就職は日本郵船を志望したが合格せず松岡洋右(義理の伯父)の口利きで鉄道省に就職した。以後の栄作は終戦まで鉄道畑のみ歩む人生ゆえ戦後パージは免れ上席が公職追放されることで運輸省鉄道総局長官(1946)/運輸次官(1947)の箔を付け民主自由党山口県連合会支部長/第2次吉田内閣の官房長官1年間の在任中に行われる総選挙で初めて衆議院議員(1949-75)に路線変更する。

 田布施は少し前までインターネット上を騒々しく掻き回す明治天皇大室説の発祥地で本来は安倍晋三らが処理すべきところである。古くより「触らぬ神(情報)に祟りなし」という喩えあり岸/佐藤/安倍に限らず神の正体が情報であることを知らない生ける屍は何らの手立てをも講じないまま私利私欲に溺れている。神格(天皇)を人格に落とし込めて恥じない生ける屍の事例一端を示しておくが個人の問題ではなく社会全体が不敬の罪に当たる。先帝両陛下とも宝寿を重ねられ金婚の慶賀を迎えたとき時の首相は黒松の盆栽を贈る法律違反を犯し暗愚重罰の不敬を反省しない。皇室経済法は皇室財産の譲渡も取得も国会で議決されない限りは如何なるプレゼントも受領できない条を定めている。神格天皇は競わず争わず首相を上手く諭す措置で盆栽を返却させたが佐藤無策は再び同様の過ちを繰り返している。後継の田中を案じた天皇は今度は事前に養い/教え/禁じる措置を講じたが生ける屍は未だ跳梁する。

 大室説については張本人の地家康雅(じけやすまさ)が筆者を訪ねてきたので直接たしなめる処方で措置を講じたが独り歩きする情知まで手を及ぼすことは出来ない。仕方なく本稿の筆先なるがまま指摘しておくが筆者も同罪は免れず自ら禊祓を要することは云うまでもない。即ち如何なる個人だろうと政治に独裁という実態は存在しないのであり人は五十歩百歩のなかで競わず争わず常に自ら禊祓を休まず励行しない限り平和は現実とならないのである。

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